人間の半分は眠りで出来ている。「眠れないな」と思い始めた時には、だいたい本格的に寝つけないのではないだろうか。調子のよい時はほとんど何も考えずに、気づいたらもう眠っている。(気づかないから眠っているのだが)眠る前にスマホを見るのはあまりよくないとされている。しかし、スマホはあまりに近すぎる。今や親兄弟よりも遙かに近い存在だ。駄目と言われて触れずにいることができるだろうか。
(スマホがあれば怖くない)
あなたはそんな風に考えているかもしれない。
けれども、恐怖は身近なところにも潜んでいる。
トントントン♪
トントントン♪
誰かがドアをノックするような音がする。こんな時間に誰か来たのか。きっと空耳だろう。何もなかったことにして、スマホの中に戻った。寝つけない夜には、noteの中に潜り込んで気を紛らわしてくれる記事を探すのだ。おすすめや誰かのスキを追っていけば、何か適当なところに行き着くだろう。軽い気持ちでタップを重ねる。
トントントン♪
トントントン♪
またさっきと同じ音がした。やはり誰かいるのか。いつかの友が何か困ったことがあって訪ねて来たのかもしれない。スマホを置いて玄関に行くと恐る恐るドアを開けた。
誰もいない。
けれども、何か人の気配があったようにも思えた。
ドアを閉じて鍋に残っていた豚汁を見た。まさかお前が……。あり得ない妄想を打ち消して部屋に戻った。最近はどうも疲れが溜まっている。脳内で作り出したものが実際の音のように現れるのかもしれない。今夜は早く眠った方がよさそうだ。そう考えながらスマホに触れた瞬間、激しくドアをノックする音がした。今度は間違いない。何者かがドアを叩いている。
ドンドンドンドン♪
「さっきからちょっとうるさいんですけど」
白いワンピースを着た女が立っていた。
明らかに不機嫌そうな顔だった。
「あの、何か?」
「ドアを叩く音ですよ。今何時だと思ってるんですか」
「すみません。気をつけます」
謝りながらドアを閉めた。僕の何が悪いのかはわからない。だけど、空耳でないことだけは、これではっきりとした。単なる悪戯の可能性もあるが、もしかしたら何か霊的な物の仕業かもしれない。
スマホを開き、ドア、ノック、妖怪の類で検索をかける途中で、突然スマホの挙動がおかしくなった。天気予報、地図、ゲーム、次々と全く関連性のないアプリが開かれたかと思うと、急にメール画面に飛んで重要メールの閲覧が繰り返された。何も触れていないのに動くのが恐ろしくなって、再起動を試みた。
3度繰り返しても異変は収まらない。
noteアプリが勝手に起動すると脈絡もなく、見知らぬ人のホームを巡回し始めた。検索窓に現れる意味不明のららららら……。ホームボタンに触れようとした時、現実の世界からドアを叩く音がした。問題はまだ向こうにもあったのだ。
ドンドンドンドン♪
ドンドンドンドン♪
「ちょっともういい加減にしてもらえますか」
「また音しました?」
「ずっとしてますよね」
「すみません。気づきませんでした」
スマホの不具合と向き合っている間、ずっと周りの音が聞こえなかったのだろうか。麦藁帽の下からのぞく女の細い目は、前よりも鋭くなっているようだった。
「ちょっと待たせてもらいますから」
「えっ?」
僕が動揺する間に、女は部屋の中に入り込んでいた。
「紅茶でいいですか」
「結構です」
訪問者が現れるまで2人で大人しく待つことになった。
女はネット小説家で、異世界とイオンタウンを往復するのが主な生活らしい。興味はないが、自分のことを根ほり葉ほり聞かれるよりはましだ。
「異世界っていいものですか?」
「異世界がいい時、私の生活はわるくないのよ。ここはどこ? 私たちは問いかける。ここはホームだ。私たちは答える。ホームは何か? 食卓を置くところか。恐怖を匿うものか。答え合わせを繰り返すことがミステリーの仕事なの。犯人は私です」
生活はそうわるくないらしい。女はミステリーも書くらしい。
「根気がいるのでしょう」
「スイーツはドーナツなの。毎日には重いけれど、何かが欠けていることは大切よ。だってそうでしょ。何もかもが満たされていたら、何を書く必要があるというの。私の自慢話、あなたは聞きたい?」
「いいえ」
彼女はドーナツを大切にしているようだ。それを聞いて僕は少し小腹が空いた。あれからドアはノックされない。
「小説は外出と同じなの。大切なのは行って帰ることよ」
「それは初めて聞きました」
「家のドアを開くことが本を開くことね」
「入るのではなく出て行くのですね」
「外出ってそういうものよ。現実って退屈でしょ。だからみんな出たがっているの。無意識に出たがっているのよ。扉を開けて異世界に出かけるのよ」
「今は外出も色々と大変みたいですがね」
「出かけたものは帰ることが決まりなの。それは本当に何気ない動作なのだけどそれによって必ず色が変わるの。一度離れて帰ってきた時には、現実に新しい光が当たるのよ。それだけのことよ」
「でも色々と大変そうですね」
「それは何にしてもそうよ」
彼女はきっぱりした口調で言ってから、紅茶を一口口にした。
「だって、いずれはどこかに出て行くしかないのよ。そうしなければ息が詰まりそうなんだもの。プロットがみつからない時にだって、私はじっとしていられない」
「全部できてから書き出すのではないですか。確か聞いた話では」
「それは人によるわ。計画性のある物書きならそうするでしょうね。私のような不安定な人間は辛抱することができないのよ」
「不安ではないのですか。先がみえていないなんて」
「動いていれば大丈夫よ。時が止まっていることは地獄なの。終わりへ向かっていくこと。流れていく時間こそがすべてなのよ」
「それはそうかもしれませんけど」
いったいどんなものを書いているのだろう。彼女の言う異世界に、魔女や魔法使いは現れるのだろうか。初対面の人と遠い世界の話をしながら、僕らは夜の訪問者を待っていた。まだ、しばらくは眠れそうになかった。
「あなたは何を?」
「いいえ僕は普通で。でも異世界って色々大変そうですね」
「でも半分はイオンタウンよ」
「そんなことないでしょ」
「異世界に行って子供になり、帰ってきては大人を演じる。私たちは子供にも大人にもなりきれやしない。夏はだいたい素麺でヨーグルトは年中食べるわ。ヨーグルトはお好き?」
「はい。好きです」
「そう。私は小さな共感を誘って読者を引き寄せるの。広告を読ませるためよ」
「広告ですか」
「そう。今は何でも広告よ。私たちは広告の運び手にすぎないというわけ。それで得られるのは本当にささやかなものなの」
女はそう言って右手を開いた。
「そんなことないでしょう」
「月に500円ほどよ」
「えっ?」
「ここまでくるのに10年かかったわ」
訪問者はなく、夜が更ける。
初めてやってきた女はよくしゃべった。
僕がだまされているのではないか……。
そう思いはじめた時だった。
ドンドンドンドン♪
ドンドンドンドン♪
「手配中の男がこちらに逃げてくるとの情報が入りました」
「どういうことですか」
「とにかく中で待たせてもらいます。いいですね」
警官は有無を言わさず中に入り込んできた。
「紅茶でいいですか」
「結構です」
見知らぬ3人が同じテーブルを囲い逃亡者が訪れる時を待った。異世界とイオンタウン、カフェとレストラン、パスタとワインの話などをしたが、ドアをノックする音は聞こえてこなかった。警官は異世界への関心は薄かったがワインについては特にうるさく、その内に情熱的になり空腹を訴えるまでになった。
「ウーバー・イーツです」
訪れたのはフード・デリバリーの配達員だ。
「ありがとうございます」
吉兵衛のカツ丼を見知らぬ人と食べている。まさかこんな瞬間がくるとは思っていなかった。人の話を聞いているのは意外と体力を使うことだった。いつもより食欲がある自分に少し驚いた。警官はカツ丼は主食のようなものだと言った。女は肉を口にするのは久しぶりだと言った。
警官はよほど空腹だったのか丼から唇を離さず一気に流し込むようにして食べ終えた。
「ちょっとお手洗いを」
「どうぞ」
「あっ、そっちじゃない!」
「いいや、こっちだ!」
警官は僕の制止に耳を貸さず部屋の奥まで行くと押入を開けた。
「うわぁー!」
中に潜んでいたUMAが警官をみつけると一気に呑み込んだ。自分から踏み込んだ割に抵抗する術はまるでなかった。
「お前、お腹空いてたの?」
「ウィィイィィーァ……」
「ありがとう。助かったわ」
「いえいえ。あいつはうそつきですね」
女はUMAをつれて家に帰った。
急に戻ってきた日常に安堵しながら、テーブルの上を片づけた。まだ少しお腹が空いている。僕は豚汁を温め直すことに決めた。
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