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久しぶりに和食が食べたい気分だった。普段なら行き当たりばったり飛び込むような真似はしない。スマホを持ち始めてからというものすっかり冒険心をなくしてしまった。予め近くの店を検索してそれなりの評価を集めるものに狙いを定め、あらゆる条件を確認してから実際に足を運ぶ。確かにそれなら大きな失敗は少ない。しかし、昔はもっと違った楽しみがあったようにも思う。(ハラハラしたりときめいたりわからないからこその出会いもあったのだ)
その時、私のスマホのバッテリーは残り30ほどで、少しの不安が私を小さな冒険へと突き動かした。
・
「いらっしゃいました。おひとりぼっちで?」
店員に案内されて私は隅っこのテーブルに着いた。
女は少し日本語に不慣れな様子だった。
「今日は何しに来ましたか?
ごめんください。
今、がんばって修行中です」
「じゃあ、将棋でもしようかな」
「まいりました」
しばらくして彼女は盤と駒を持って戻ってきた。
「振り駒の結果先手が私に決まりました」
76歩
どこで覚えたか、その手つきは美しく、高段者であることはすぐにわかった。
84歩
私は居飛車を宣言した。
68飛
彼女はいきなり飛車を振ってきた。
34歩
66歩
角道を止める本格的な振り飛車だ。
62銀
48玉
42玉
38銀
美濃囲いを目指す落ち着いた駒組みだ。
32玉
39玉
33角……
私は居飛車穴熊を目指した。
しかし、彼女は少しも穴熊を恐れる様子がなかった。
普通に美濃囲いを発展させ普通にさばき合い気がついた時には圧倒的な形勢不利に陥っていた。
手強い。(ウォーズ三段の私がまるで歯が立たないなんて……)
踊るような手つきで彼女は角を盤上に打ちつけた。
55角
「いやいや、私は飯を食いに来たんだよ!」
頭に金がのっかるまで指すことはなかった。
「肉じゃがをおひとり分、ごはんをおひとり分、豚汁をおひとり分……」
・
色々あって私は食事にありつくことができた。どこにでもあるような素朴な味付け。それで十分満足だった。目まぐるしく変わる世の中にも、このような普通の店が存在することは、うれしい驚きではないか。
「負けました」
打ちのめされた私は以後何度かその店に足を運んだ。
四間飛車の使いと再戦することは二度とかなわなかった。店の人の話では、彼女は女流のプロになったのだとか。働きながら修行を怠らない彼女なら、それも当然の結果だろう。
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