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海の向こうから世界中の人が集まってきて、夏は浮かれていた。
選手村のスタッフとなった僕は種々のテストをクリアしなければならなかった。肺活量のテストは中でも難易度が高かった。途中で手放した風船がいくつも空に飛んでは消えた。その内に各国の選手が控え室に集まってきたが、誰一人としてマスクをしていないことに驚いた。しかし、考えてみれば当たり前だ。アスリートがマスクなどしている場合ではなかったのだ。僕は反復横飛びのテストの途中で失格となり、村を追われることになった。
逃走ルートとなった商店街では低空飛行で進んで行った。途中で人とすれ違う時には、習いある江戸仕草を繰り出したが、それがどんな形だったかを言葉で説明することは難しい。アーケードの終わりは古風な帽子屋さんだった。おじいさんはミシンのような機械に向かい人形を打っていた。これ以上歩いても何もないかも……。ちょうど店の奥から出てきたおばあさんに僕は聞いた。
「この辺りに何か食べるところはありますか」
この先には何もないとおばあさんは言った。
「あの明かりは?」
そこから少し先に明るく光るところが見えていた。
「あれはうどん屋。かやくうどんが800円じゃ」
さほど旨くない。だから何もないとおばあさんは言った。
その時、突然過去の記憶がよみがえってきた。
あの道は……。
「流鏑馬がありましたよね」
おばあさんは少し微笑みながら頷いた。
「ずっと昔に来たことがあるんです」
おばあさんは一度奥に引っ込んでから、何かを握りしめて戻ってきた。
「帰ってこれてよかったね」
そう言いながらチケットをくれた。
観戦チケットを持って僕は対局室にいた。他にも大勢の人がいて、大きな対局を見守っていた。指し手が全然進まないので、僕はヘッドフォンを耳に当て、寝そべりながら待つことにした。
「残りは?」
「2時間50分です」
「この手は?」
「20分です」
八段が記録係に時間を確認する。難しい局面のようだ。
「形勢は?」
「先手65%です」
「その理由は?」
「3筋にできた拠点が大きく駒損を補って余りあるためです」
「そうか……」
ふむふむと頷いて八段は胡座になった。
しばらくするとメニューを抱えて職員が入ってきた。
「親子丼セット。冷たい蕎麦で」
千円札を出してお釣りを受け取ると、五段はポケットの中に入れた。
1時間しても変化がない。立会人が険しい顔をしながら誰かと電話をしていた。話が終わると怖い顔のまま僕を睨んだ。きみ。僕はヘッドフォンを外した。
「ちょっとやっぱり駄目だって」
対局者より間接的にクレームが入ったらしかった。
僕はその場に居づらくなって逃げ出すように対局室を出た。2階に上がって僕は泣いた。ハードロックだったから音が漏れたんだな。もっと選曲を考えればよかったな。邪魔したな。僕が一番悪手だったな。電話経由で伝わったことが、一層僕をしびれさせた。泣いている内に川が流れていた。僕はカヌーに乗っておばあさんの家まで渡った。
「寝かせてある?」
「はいはい」
おばあさんは家の裏に流れる川に寝かせてあったサイダーを取りに行った。
「こんにちは」
テレビでよくみる女優さんが家に遊びに来ていた。従兄弟の友達らしい。
「どうも」
「はいはい」
おばあさんがサイダーとグラスを持って帰ってきた。
「ねえ、みんなは?」
「海に行ってるわ。ここだけの話よ」
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