今日は簡単に空きをみつけることができた。左に柱(壁)のあるカウンター席。最悪でも左右から挟まれることはない。間隔の狭いカウンターは苦手だ。人との距離が近すぎると落ち着かない。
カウンターにかけるとコーヒーを飲みながら硝子の向こうの通り過ぎる人々の様子を眺めることができるようになる。しかし、これは同時に外部の人より観察される対象になることも意味する。自らを水族館の魚になったように思うこともできるだろう。
「いったいどんな人がかけているのか?」
カウンター席を選ぶ人と言えば、まず最も多いのがおひとり様ではないだろうか。おひとり様が4人がけ席を選ぶのは、よほど席が空いている状況でもない限りはためらわれることである。そうなると選ぶのは2人がけの席かカウンターだ。荷物が大きい時には、カウンター席は少し困る。2人がけの席なら、対面の1席を荷物専用に使うプランを持てるが、カウンター席だとそうはいかない。最悪の場合、地べたに直接置くことにもなるだろう。その場合、地べたが水浸しになっていたとしたら、より一層最悪の事態となる。十分に光の届かない地べたの状態を瞬時に見極めることは簡単ではない。ならば、あとは運任せ、神頼みである。(どうか穏やかな地べたでありますように)
おひとりさまに次いでカウンター席を選ぶことが多いのは2人で店に訪れた場合ではないか。夫婦や恋人同士、仲のよい友達と肩を並べてコーヒーを飲むのも悪くないではないか。もしも両者の関係が愛し合う者同士のように親密ならば、肩はより近くに寄り添える方が望ましいだろう。2人の距離が近づけるように、考えられたデザインを持ったカフェも多いのかもしれない。同じ2人であっても商談や打ち合わせなどの場合は、事情が異なる。その場合は肩を近づけることよりも、顔を向かい合わせることの方が重要だ。言葉をちゃんと理解し誤解のないようにするためには、相手の表情を読み取ることも大事になってくるからだ。
3人4人で来店した場合、よほどのことがない限りは、カウンターでははなく4人がけの席を探すのが自然ではないだろうか。横一線に広がりすぎては、お互いの顔が見えないばかりか声も届きにくい。間に柱や壁が挟まった場合などは、もはや全く別の空間だ。そうなってしまえば一緒に来店した意味も失われかねない。これは5人以上で訪れた場合でも同じだろう。テーブル席のよいところは、席を勝手に寄せ合わせて自在に拡張できるところでもある。2人席もくっつけることによって、4人6人8人とどんどん大きくしていくことが可能だ。大家族、親戚一同が同席することも絵空事ではない。
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どこか懐かしいような夢だった。カーテンを広げるともう飛んでいた。雀と遊ぶくらいなら危険はないさ。少しと思っていたが、気がつくと高く飛んでいた。また昔みたいにできるだろうか。遠くにある光がきれいだ。都市の光にどんどん近づいた。高度を下げると天井はなく店の中にいた。自分の名前はあるだろうか。印鑑の付け根だと思っていたそれは、菓子の集合にすぎなかった。
駆け込みの若者が車内に吸い込まれた。それが終点ではないという証明だったが、僕はなぜか降りてしまった。スーパーではサボテンが挟まってかごが取れなかった。仕方なく外に出ると太陽の光が影響したのか、サボテンの姿勢に変化が見えた。新しくできた知恵の輪に僕は取り組まされていたのだろうか。関心を持った人たちが、僕の仕草を真似て続いた。
「いっらしゃい」
物販コーナーの客はまだ迷っていた。田原さんがやってきてナイロン手袋を乱暴に投げた。ホトトギスにかけてきてと命令調で言う。忙しくなる朝にどうして? 顔が俺は忙しいと言っている。外に出て鳥に当たる。君がホトトギス?
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カウンターにかける人は店内に背を向けている。もしも店を世界と考えた場合、世界に背を向けて存在していることになる。仮にそうだとすると覚悟のある姿勢だと言える。視線が外なら心はどこにあるだろう。心身のバランスを保つことは、それなりに難しくも思える。外の者と交わることもできなれば、内の世界に溶け込むこともできない。
「自分はどこにいるのだろう?」
カウンターにかける人は、いつでも不安と共にあるのだ。パソコンを立ち上げ、パソコン通信によって月や火星と交信を試みる。あるいは、文庫本やハードカバーを広げ、異世界とつながろうとする。カウンター上の孤独からみて、そうした仕草は誠に人間らしくナチュラルな抵抗に違いない。
「自分で世界を持てば周りは関係ないからさ」
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