「住ませてください」
玄関口で誰かが言った。
「ここは違います」
教えてあげても最初女はすぐに納得しなかった。違います、違います。何度もしつこく説得を続けようやくわかってもらうことができた。少し気の毒に思い、女と一緒に外に出た。
「どこかないかな」
ないかな。ないかな。 適当な住処が早く見つかればいい。そうすれば2度とたずねてくることはないだろうし、それがお互いのためだった。すぐに見つかるかとも思えたが、世間の事情はそう簡単でもないようだった。随分と遠くまで探し歩くことになった。ないかな。ないかな。なかなかないかな。一緒に歩き続ける内にいつしか2人の住処を探しているような錯覚に捕らわれ始めた。ないかな。ないかな。またもやないかな。疑問と落胆が2人の肩を寄せて、道の上を影が伸びていくに従って2人は親密になっていった。ないよね。ないよね。よかったね。
家に帰ると2人はどこまでも階段を上って、屋根の上で裸のまま静かに重なった。ようやく本当の隠れ家を見つけたみたいだった。
「コラッ!」
父が見つけて一喝すると2人はすぐに分解されてしまった。本気で反論することもできず、ただ従うことしかできなかった。どうして自分は家の主ではなかったのだろう。そのことが恥ずかしくて仕方なかった。
「静かな愛があるのに!」
そう言い残して女は出て行った。
しばらくの間、家族の冷たい視線を感じたが、少しもつらくはなかった。今後は誰がたずねて来ても、もう話さないことにした。
昨日の男が席にくっついていた。
「ご注文は?」
最初の注文をたずねたが、男は固まっていた。これでは話にならない。
続いて男女が2人やってきたので、早速注文を取りに向かった。2人はモーニングセットを頼んだ。
「僕はトーストとアプリティー」
「私はサンドイッチとレティーとモダンシティー」
女は早口で述べた。
「えー、お飲み物は?」
「レティーとモダンシティー」
欲張りな女のようだ。けれども、1人で2つも頼むなんて、そんなのは無視だ。なかったことにしよう。
続いて6人もの団体がやってきたので、そちらに飛んで向かった。煙草についての意見が割れたが結局手前の席を取ることになり、足りない分を自分たちで動かし始めた。
「奥がいいや!」
無法者の1人が突然叫んで結論が覆る。煙草についてはどうなったのだろう。動かす途中で乱れた席はそのままの形で残ることになり、ちょうどミステリーサークルを作りかけた芸術家が兵役で抜けたあとのようになってしまった。それよりも僕は最初の注文のことが気になり出した。気になる時は、いつも何の前触れもなく気になり始めるのだった。最初の男は、たしか昨日の男だった。
(そうか!)
男は固まっているから関係ないのだった。最初の注文はゼロだ。晴天に恵まれた秋空の下で、トラックは次の走者を待ちわびていた。
石ころに足を取られて次々と退場者が増えていくとついに黒服のマネージャーが服を脱ぎ始めた。ついに彼が走るのかとみんなの期待が高まる。その実力は未知数だったが、他に期待する者がいないためか、みんなはその意外性に賭けていたのだ。ウォーミングアップに現れた彼は、ペンギンのように小刻みなステップでグランドを駆けた。
「速いぞ!」(意外にも)
独特の走法がいよいよその期待を頂点に押し上げる。
銃声と共に僕は彼を抱え上げた。飛翔ラインまで運んで行くのが僕に与えられた重要な役目だった。肩に担いで必死で土を蹴った。負けていない。他の選手に先んじてはいないけれど、決して負けもしていない。ほとんど並んで、ラインの手前まで来た。
いよいよその瞬間がきた。
(それっ!)
失敗だった。スローは上手くいかなかった。風は十分だったけれど、上手く乗せてやることができなかったのだ。離した時の感触で、それはわかったけれど、僕は表情を変えなかった。後はなんとか、やってくれないかな……。
着地して、走り出すとその失敗は明らかになった。僕らの切り札は、他の選手と比べて一気に10メートルも遅れを取ったのだ。他の選手がどんどん加速する中で、彼だけは減速してついにグランドの真ん中で足を止めた。
「我は魚ぞ! 鱗を与えよ!」
走るのを止めて訴えた。5月でもなかろうに……。
時間を知るため、ポケットからモバイルを取り出した。
待ち受け画面には僕の名前が書かれており、数えられない桁の会員番号、数えられない桁の金額、そしてメールの文が剥き出しに現れている。
先日は身寄りのないところを寄り添っていただきありがとうございました。どこまでも遠く歩いて虚無を共感したり、どこまでも高く上がって静寂を共鳴させたり、あげくの果てには一喝されて転げ落ちしたことなど、今となっても微笑ましく思い出されてなりません。一生の内でそのような瞬間に出会えることはきっと数えるほどにしかないけれど、今後はこのアプリを私だと思って大事にしてください。心はいつもあなたと同じです。
(誰?)
長く触れていても消すことはできなかった。消せなければ、上書きするしかなさそうだ。しかしどうやってしよう。
ピピピピピとニュース速報が流れる。
200年振りにノコギリ引きの刑が執行されたとのことだ。
「焦げてしまうぞ!」
客に聞こえるように母に言った。
浅い皿の上にはドレッシングのたっぷりかかったキャベツ、その上にトーストだ。
(このキャベツいる?)
硝子の器に入ったサラダは、器に対してあまりにも少なすぎる。
「これでいいの」
「これ食べにくいよ!」
いいの、いいのと母が言うのでそのまま運んだ。
昨日の男はまだ席について固まったままだった。いつになったら今日が動き出すのだろうか。無法者たちの集落から煙が上がることはなく、相変わらず賑やかにモウリーニョやカンビアッソの話をしている。あの女は、どんな顔だったろうか。
僕は、あの女のことを考えている。
(もしかしたら……)
トーストとキャベツはいい感じで交じり合っているのかもしれない。
千切ったトーストをドレッシングのついた皿にこすり付けてはおいしそうに口へ運ぶ客の姿が、遥か屋根の上に浮かんで見えた。
玄関口で誰かが言った。
「ここは違います」
教えてあげても最初女はすぐに納得しなかった。違います、違います。何度もしつこく説得を続けようやくわかってもらうことができた。少し気の毒に思い、女と一緒に外に出た。
「どこかないかな」
ないかな。ないかな。 適当な住処が早く見つかればいい。そうすれば2度とたずねてくることはないだろうし、それがお互いのためだった。すぐに見つかるかとも思えたが、世間の事情はそう簡単でもないようだった。随分と遠くまで探し歩くことになった。ないかな。ないかな。なかなかないかな。一緒に歩き続ける内にいつしか2人の住処を探しているような錯覚に捕らわれ始めた。ないかな。ないかな。またもやないかな。疑問と落胆が2人の肩を寄せて、道の上を影が伸びていくに従って2人は親密になっていった。ないよね。ないよね。よかったね。
家に帰ると2人はどこまでも階段を上って、屋根の上で裸のまま静かに重なった。ようやく本当の隠れ家を見つけたみたいだった。
「コラッ!」
父が見つけて一喝すると2人はすぐに分解されてしまった。本気で反論することもできず、ただ従うことしかできなかった。どうして自分は家の主ではなかったのだろう。そのことが恥ずかしくて仕方なかった。
「静かな愛があるのに!」
そう言い残して女は出て行った。
しばらくの間、家族の冷たい視線を感じたが、少しもつらくはなかった。今後は誰がたずねて来ても、もう話さないことにした。
昨日の男が席にくっついていた。
「ご注文は?」
最初の注文をたずねたが、男は固まっていた。これでは話にならない。
続いて男女が2人やってきたので、早速注文を取りに向かった。2人はモーニングセットを頼んだ。
「僕はトーストとアプリティー」
「私はサンドイッチとレティーとモダンシティー」
女は早口で述べた。
「えー、お飲み物は?」
「レティーとモダンシティー」
欲張りな女のようだ。けれども、1人で2つも頼むなんて、そんなのは無視だ。なかったことにしよう。
続いて6人もの団体がやってきたので、そちらに飛んで向かった。煙草についての意見が割れたが結局手前の席を取ることになり、足りない分を自分たちで動かし始めた。
「奥がいいや!」
無法者の1人が突然叫んで結論が覆る。煙草についてはどうなったのだろう。動かす途中で乱れた席はそのままの形で残ることになり、ちょうどミステリーサークルを作りかけた芸術家が兵役で抜けたあとのようになってしまった。それよりも僕は最初の注文のことが気になり出した。気になる時は、いつも何の前触れもなく気になり始めるのだった。最初の男は、たしか昨日の男だった。
(そうか!)
男は固まっているから関係ないのだった。最初の注文はゼロだ。晴天に恵まれた秋空の下で、トラックは次の走者を待ちわびていた。
石ころに足を取られて次々と退場者が増えていくとついに黒服のマネージャーが服を脱ぎ始めた。ついに彼が走るのかとみんなの期待が高まる。その実力は未知数だったが、他に期待する者がいないためか、みんなはその意外性に賭けていたのだ。ウォーミングアップに現れた彼は、ペンギンのように小刻みなステップでグランドを駆けた。
「速いぞ!」(意外にも)
独特の走法がいよいよその期待を頂点に押し上げる。
銃声と共に僕は彼を抱え上げた。飛翔ラインまで運んで行くのが僕に与えられた重要な役目だった。肩に担いで必死で土を蹴った。負けていない。他の選手に先んじてはいないけれど、決して負けもしていない。ほとんど並んで、ラインの手前まで来た。
いよいよその瞬間がきた。
(それっ!)
失敗だった。スローは上手くいかなかった。風は十分だったけれど、上手く乗せてやることができなかったのだ。離した時の感触で、それはわかったけれど、僕は表情を変えなかった。後はなんとか、やってくれないかな……。
着地して、走り出すとその失敗は明らかになった。僕らの切り札は、他の選手と比べて一気に10メートルも遅れを取ったのだ。他の選手がどんどん加速する中で、彼だけは減速してついにグランドの真ん中で足を止めた。
「我は魚ぞ! 鱗を与えよ!」
走るのを止めて訴えた。5月でもなかろうに……。
時間を知るため、ポケットからモバイルを取り出した。
待ち受け画面には僕の名前が書かれており、数えられない桁の会員番号、数えられない桁の金額、そしてメールの文が剥き出しに現れている。
先日は身寄りのないところを寄り添っていただきありがとうございました。どこまでも遠く歩いて虚無を共感したり、どこまでも高く上がって静寂を共鳴させたり、あげくの果てには一喝されて転げ落ちしたことなど、今となっても微笑ましく思い出されてなりません。一生の内でそのような瞬間に出会えることはきっと数えるほどにしかないけれど、今後はこのアプリを私だと思って大事にしてください。心はいつもあなたと同じです。
(誰?)
長く触れていても消すことはできなかった。消せなければ、上書きするしかなさそうだ。しかしどうやってしよう。
ピピピピピとニュース速報が流れる。
200年振りにノコギリ引きの刑が執行されたとのことだ。
「焦げてしまうぞ!」
客に聞こえるように母に言った。
浅い皿の上にはドレッシングのたっぷりかかったキャベツ、その上にトーストだ。
(このキャベツいる?)
硝子の器に入ったサラダは、器に対してあまりにも少なすぎる。
「これでいいの」
「これ食べにくいよ!」
いいの、いいのと母が言うのでそのまま運んだ。
昨日の男はまだ席について固まったままだった。いつになったら今日が動き出すのだろうか。無法者たちの集落から煙が上がることはなく、相変わらず賑やかにモウリーニョやカンビアッソの話をしている。あの女は、どんな顔だったろうか。
僕は、あの女のことを考えている。
(もしかしたら……)
トーストとキャベツはいい感じで交じり合っているのかもしれない。
千切ったトーストをドレッシングのついた皿にこすり付けてはおいしそうに口へ運ぶ客の姿が、遥か屋根の上に浮かんで見えた。