今回は、昨日夕方の5時頃に撮影した画像を使おう(白旗神社の話の3枚だけは別で、数年前の画像だ)。
鎌倉鶴岡八幡宮の三の鳥居からすぐ近くのところに太鼓橋がある。

「若宮大路や源平池が出来てすぐに木製の朱塗りの橋(赤橋)が出来たが、それが太鼓橋の前身だ」とあちこちの解説に書いてある。
しかし太鼓橋に関するほとんどの解説が、その話の続きをいきなり20世紀に飛ばしてしまう。
「関東大震災で太鼓橋が崩落し、その後橋桁を鉄筋コンクリートにして現在の太鼓橋が作られた」と誰もが知るその話に、いきなり飛び移ってしまうのだ。

じゃあその二つの話の間、700年以上にわたり、最初の木製の赤橋がずっと残っていたわけ?
そんなはずないよね。しかしそれを語る鎌倉の解説って見かけない。

マニアックな話になるので、ご関心ない方はどうぞ、飛ばしてくださいね(笑)。
少なくとも江戸時代(元禄10年 / 1697年)から関東大震災(1923年)までは、石で出来た太鼓橋が存在したのである。
話が逸れるけど、関東大震災で崩れたと言えば白旗神社の鳥居があるよね。
この東京生命と書いたのがそれだ。

鶴岡八幡宮内の白旗神社の鳥居は、関東大震災で崩れた。その笠木が上の画像だ。これは白旗神社からすぐのところに置かれてある。
話がそれるが、石製の鳥居で笠木というのも変だけどね。
ちなみに門柱や塀の上に載せる水平な板状のものも笠木と言うよ。
すべてこうしたものが木製だった時代の呼称がそのまま残っているのだろうね。

我が家の門柱の上に載っているものも笠木だ。
材質はコンクリートで、木じゃないよ(笑)。
話を戻す。
白旗神社の現在の鳥居はこちらだ。震災後新たに建てられたものである。

その奥が白旗神社ね。

で、話を最初の太鼓橋に戻すと、江戸時代に造られ関東大震災で崩れた石製の太鼓橋の遺材って、今もどこかにあるのか?
さっきの白旗神社の東京生命と書かれた鳥居の笠木みたいなのが、太鼓橋についてもあるのか?
それがあるんだなーー。あるんですよーー。
どこにあるか? どんどんマニアックな話になるよ。

八幡宮の脇を北鎌倉・大船方面に抜ける道沿いに、クルマのお祓い所があるでしょ。
そのお祓い所の南側の脇に境内へと続く細い道がある。

そこを入るといい。

まっすぐまっすぐ行こう。

それが左手に現れるから。

これ(↓)だよ。

これが江戸時代に造られ、関東大震災で崩れた太鼓橋の橋桁の遺材だ。
今はなんと植栽の土留めとして使われているのだ。
しかも一部土に埋もれて(笑)。

何か彫られているのがわかりますか?
遠くからでも「元禄」はわかるね。

もっと近づきましょう。
右端に「元禄十(1697年)」とあるのは判るよね?

左端には「鎌倉材木座 石由 庄兵(衛)」とある。

ただし「衛」は埋もれてしまっている。
鎌倉の名門石材店石長(いしちょう)の四代目庄兵衛の名がここに残っている。
この太鼓橋を担当したのも、400年前の石長だったのだ。ただし当時は石長とは名乗っていない。
石長本店ビル(下の画像)は今も若宮大路沿いにある。

その前には石燈篭もあって、「下に石長」と書いてある。近年造り直された段葛に多数建ってる新しい石灯篭を担当したのも石長だよ。
江戸中期以降長く、この名門石屋さんの家長が「石工の長次郎」を名乗っていたらから「石長」。
というかなりマニアックなお話でした。
繰り返しになるが、江戸時代に造られた太鼓橋の橋桁の遺材の設置場所は、クルマのお祓い所の南側の脇の細い道を奥へ入った左手だ。興味ある人は行ってみましょう。
現場に行って八幡宮の職員さんに尋ねても「何言ってんだ、この人???」って顔をされるだろうから、事前に場所はしっかり把握しておいた方が無難だ。
植栽の土留めに使われていて一部土に埋もれているが、他の石よりはるかに大きいのですぐにわかりますよ。