碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

衛星放送を見ながら、衛星放送について考えた

2012年03月21日 | テレビ・ラジオ・メディア
碓井
NHK・BS1「衛星放送が照らした未来」を見た。

案内役は、旧知の水越伸先生(東大大学院教授)でした。




衛星によって世界がつながるという発想は、「2001年宇宙の旅」の原作者であるSF作家、アーサー・C・クラークが最初だった。

いわゆる“地球村”ですね。

これを50年以上も前に考えていたんだから、すごい。




ベルリンの壁崩壊や東欧革命などで衛星放送が果たした役割は大きいし、現在も同様だ。

番組ではモロッコやドイツの現状をリポートしていた。





国内で衛星を使った遠隔医療の実験なども。



衛星放送の「これから」という意味で紹介されていたのは、ネット用
人工衛星「きずな」でした。




地デジ化によってデジタルテレビが普及したが、それで一番影響が出ているのは衛星放送(BS・CS)だ。

地上波との“横並び”で垣根が低くなり、確実にユーザーが増えている。

特に中高年のBS・CSファンは増殖中だ。

「日刊ゲンダイ」で長年、テレビ評を書いてきた作家の吉川潮さんは、今年から地上波ではなく、BS・CSだけを対象にしたコラムに切り替えてしまったほどです。

タイトルは、「もう地上波は見ない!」(笑)。

毎週月曜に掲載されているので、興味のある方はご覧ください。

信州児童文学会「はまみつを追悼」に寄稿

2012年03月21日 | 本・新聞・雑誌・活字

信州児童文学会が発行する「とうげの旗」の別冊として、「はまみつを追悼」が出た。

中学時代からの恩師である、はまみつを(浜光雄)先生が亡くなったのは昨年の2月。77歳だった。

この1冊には、先生の文学仲間や後輩、そして私のような教え子まで、さまざまな人たちの中にいる「はまみつを」が並んでいる。

知らなかったこともたくさんあり、あらためて先生の大きさを感じる。

私も原稿を求められ、長年にわたる先生との交流を、公開日記の形で載せていただきました。


“不肖の弟子”日記
―ただ感謝のみの44年―


永遠にアタマの上がらない相手がいることの幸せ
2008年08月12日

 信州の実家に来ている。お盆と正月、帰郷した際の楽しみは、親兄弟や甥・姪たちの顔を見ることもさることながら、中学時代の担任であり、現在に至るまでの恩師である浜光雄先生にお会いできることだ。
 浜先生は、童話作家の「はまみつを」でもある。『春よこい』で赤い鳥文学賞、『赤いヤッケの駅長さん』で産経児童出版文化賞を受賞。現在は信州児童文学会会長も務めておられる。
 そんな先生のお宅を年に2回訪問し、昼頃から夕方まで半日かけて語り合う。半年間どんなことをやっていたのか、何を考えてきたのか、互いに、めいっぱいの報告をし合う。これが中学を卒業して以来、高校時代、大学時代、そして社会人となってからも、延々38年も続いている。本当に、奇跡のような、有難い師弟関係なのだ。
 私からは、この春、北海道の大学から現在の東京工科大学に異動してきて以来の報告。先生からは新作童話集『ポンポン船』を頂戴し、作品にまつわるお話をうかがった。また、新作絵本『森の王 八面大王』も頂いた。
 75歳にして、この旺盛な執筆活動。その想像力と創造力に感心し、大いに刺激を受ける。自分など、まだまだこれからだとしみじみ思う。自分が何歳になっても、こころから「師」と呼べる人がいること。永遠にアタマの上がらない相手がいること。その幸せを、今回も思った。


2009年、開始
2009年01月01日

 信州の実家にて越年。例によって近所の神社にお参りをし、例によって恩師・はまみつを先生宅を訪問した。7時間におよぶ楽しい”さし飲み”である。半年分の近況報告をし合い、最後に先生と決めたのは、平成21年にちなみ、互いに21歳になったつもりで(?)今後10年のスタートとしよう、ということだ。
 先生のお宅からの帰り道、ひとり酔ったアタマで「いい仕事をするぞ!」と真剣に決意しているあたりがちょっと嬉しかったりする。師は永遠に師だ。


今年前半を締めくくる恩師との“祭り”
2009年08月30日

 信州は、晩夏というより、初秋の気配が強い。遅ればせながら、ようやく父の墓参りができた。墓石に水。母が庭から切ってきてくれた花。お線香。そして合掌。胸の中で前回の墓参以来のことをあれこれ報告する。自分の中では、これでようやくお盆が終わり、今年の前半が終了した感じだ。
 また、墓参りと共に、中学以来の恩師・はまみつを先生にお会いできたことも、その思いを強める。毎年、お盆とお正月に先生を訪ね、半年分のお話をうかがい、自分もこの半年のあれこれをお話をさせていただく。もう40年も続いている、いわば“祭り”であり、“儀式”のようなものだ。奥様の手料理を肴に、二人で延々と飲んで、話す、幸せな時間。これで今年の後半戦へと向うことができる。
 今回、先生からいただいたお土産は『宮口しづえ童話名作集』(一草舎)。はま先生の先生ともいえる童話作家で、「ミノスケのスキー帽」などで知られる宮口先生の作品集だ。生誕100年、没後15年を記念しての出版であり、はま先生が編者(選者)を務めた一冊である。ちなみに、宮口先生の先生は、あの島崎藤村。ということは、私は藤村の“曾孫弟子”? 大変な妄想だ。


今年の”読み納め”は『義民加助』
2009年12月31日

 年越しのため、信州の実家に来ている。昨夜は、お盆と暮れの恒例、恩師・浜光雄先生を訪問した。中学校時代の担任である浜先生と、こうして年に2回、互いの近況を語り合って、もう40年だ。
 浜先生は児童文学作家「はまみつを」として知られているが、70代半ばを過ぎた現在も、旺盛な執筆活動を続けている。40年にわたって、先生に会うたび「自分はまだまだ」と自覚・自戒し、「また半年がんばろう」と決意してきた。こういう”生涯の師”を持っていることは幸せだと思うし、また誇りでもある。
 今回、私からは秋に出版された『ニュースの大研究』を差し上げて、先生からは新著『義民加助』を頂戴した。加助は、江戸時代の人。信州松本領内の庄屋だったが、松本藩の重い年貢に苦しむ農民たちを救うべく一揆を起こす。その最期は刑場での磔(はりつけ)だったが、”義民”としての名は現在まで伝わっている。そんな加助の生き方を絵本としたのが本書。郷土出版社の「ふるさとの歴史人物絵本シリーズ」の1冊である。
 この後も、「大力権兵衛」や「保科五無斎」などが、”はまみつを”の筆により出版が予定されている。先生がこうして前を見て仕事をされている以上、不肖の弟子もまた、少しずつでも進歩せざるを得ない。「来年こそは」と、また思うのだ。


「はまみつを童話のせかい展」始まる
2010年06月01日

 赤い鳥文学賞作家・はまみつを先生の展覧会が開催される。題して「はまみつを童話のせかい展」。今日6月1日から7月25日まで。会場は、長野県朝日村の朝日美術館だ。
 はまみつを(浜光雄)先生は、私が中学生の時、3年間担任だった。12歳で出会って以来、40数年も師事し続けている、まさに恩師だ。中学を卒業してからは、毎年お正月とお盆にお会いして、半年間の報告をさせていただくのが恒例となっている。現在も旺盛な創作活動を続けている先生には、本当に頭が下がるし、刺激を受ける。
 この55年間の先生の歩みと、先生が生み出してきたものの一端を、たくさんの人に見てもらえるのは嬉しいことだ。開催、おめでとうございます!


「はまみつを童話のせかい展」に感激
2010年07月11日

 信州・朝日村の朝日美術館。「はまみつを童話のせかい展」は、ここで開かれている(今月25日まで)。館内1階をフルに使った展示物の数は予想以上だ。浜先生その人に関する文物だけでなく、「白樺教員」や「赤い鳥」など、浜光雄を“はまみつを”たらしめた様々なものも並んでいる。初めて見る生原稿が興味深い。特徴のある浜先生の書き文字も懐かしい。
 ずらりと並ぶ信州児童文学会が発行する「とうげの旗」。先生たちが生み出し育ててきた、その一冊一冊が信州児童文学の歩みであり歴史だ。
 先生の著作群。昭和39年発行の処女作「北をさす星」。お母さんへの思いが詰まった「わが母の肖像」は出たのが中学生の時で、1篇ごとに泣けた。「春よ こい」は、児童文学の芥川賞ともいうべき<赤い鳥文学賞>を受賞。<産経児童出版文化賞>を受けたのは「赤いヤッケの駅長さん」だ。
 会場を出ようとしたら、浜先生の旧制松本中学以来の親友であり、文学仲間であり、私が深志高校時代に薫陶を受けた小林俊樹先生(国語科、通称:コバシュン)と、嬉しい遭遇。中学で浜先生、高校で小林先生、お二人に出会わなかったら、私が(短い期間とはいえ)高校の国語教師になることはなかっただろう。
 児童文学者「はまみつを」の55年の軌跡を見て歩き、あらためて師匠の大きさ・深さを再認識。ありがとうございました。


はまみつを著『白樺教師 中谷勲』のこと
2010年09月05日

 中学校時代からの恩師・浜光雄先生を訪ねた。12歳で先生に出会い、師事すること、今年で43年になる。年に2回、恒例の報告会というか、話が肴の“ふたり飲み”である。飲みながら、半年間の出来事、してきたこと、思ったことを、互いに出し合っていく。昼12時から始めて夕方まで。なんとも愉快で、贅沢な時間だ。
 浜先生は、童話作家「はまみつを」である。先生の、児童文学界における師匠は大石真であり、大石先生の師匠は坪田譲治だ。滔々たる文学DNAの流れ・・。
 77歳になる先生は、現在も原稿用紙に向かい続けている。近著『白樺教師 中谷勲』(郷土出版社)は、信州白樺教育を代表する一人、中谷勲(なかやいさお)の生涯を描いた絵本だ。信州白樺教育は、武者小路実篤らの雑誌「白樺」が唱えた個性尊重の精神を教育の場にうつし、実践しようとしたものだ。だが、当時の社会では、白樺教師たちの行動は認められず、異端者、危険思想、非国民という扱いを受けた。ひたすら子どもたちのことを思う教師以上の教師などあり得ない。先生は、中谷勲を「愛の教師」と呼んでいる。
 現在の信州教育界に、どんな形であれ“白樺のDNA”が継承されているのか、いないのか、それはわからない。ただ、浜先生と向かい合っている時、「ここに一人の白樺教師がいる」と、いつも思う。やはり、愉快で贅沢な時間だ。


浜光雄(はまみつを)先生の逝去
2011年02月24日

 2月22日午後、浜光雄(児童文学者・はまみつを)先生がお亡くなりになった。中学の担任と生徒として出会ってから、40年以上にわたって師事してきた先生。文字通りの恩師である。
 最後にお会いしたのは、約1ヶ月前の1月21日だ。場所は、入院先である松本市の病院の一室。
年に2度、お盆と正月に、先生のお宅にお邪魔して互いの半年間の報告をするのが、この40年来の恒例行事だった。ところが、今年の正月は、先生の体調のこともあり、叶わなかった。この日、病室で二人が話したのも、いつものように「今」のこと、「これから」のことばかりだった。
 別れ際、先生は「次は夏に会おう、その時は冷たいビールで乾杯だ」と約束した。それが実現しないかもしれないことを、先生は知っていらしたのかもしれない。しかし、私を送り出す言葉は、この40年間と変わらず、「また来いよ。元気でな」だった。
 正直なところ、今はまだ、先生の“不在”を納得できていない。明日25日、信州で葬儀・告別式が行われる。納得できないままだが、先生の遺影の前に立たねばならない。不肖の弟子だが、不肖なりに、しっかりと先生を送らねばならない。これも無言の約束のような気がするからだ。


浜光雄(はまみつを)先生を送る
2011年02月26日

 25日、浜光雄(児童文学者・はまみつを)先生の葬儀・告別式が行われた。弔辞を読ませていただいた。いや、書きものにしなかったので、読み上げたのではなく、先生の遺影に向かって、ひたすら語りかけた。ざっと以下のようなことを・・・。

 中学の担任であり、国語の先生でした。宮沢賢治の詩「稲作挿話」1篇を、1週間にわたって授業で語る異色の先生。この頃、すでに第1作品集『北をさす星』を上梓していた先生。圧倒的な影響を受けました。
 中学卒業後も、「浜学校」「浜私塾」に入門するように、私淑。高校、大学、そして社会人になってからも、年に2回、先生にお会いし、延々と互いの「今」と「これから」を語り合うことを、40年にわたって続けてきました。
 この40年間いつも、そして最後まで書き続けていた先生。そんな先生と向かい合うことは、私にとって、「その時点の自分」を再確認する意味がありました。自分が進んでいる方向は間違っていないか。自分は怠けていないか。自分は本気で生きているか。先生は、いわば荒波に揺れる船に光を投げかけてくれる「灯台」のような存在。もしくは、山や森で道に迷った者に自分の位置を教えてくれる「北極星(北をさす星)」のような存在だったのです。
 先生はこうおっしゃっていました。「人の心は言葉が育てる」。先生の言葉は、100冊を超える著作の中にあふれており、私はこれからもその本を通じて先生から学び続けることが出来るはずです。だから、お別れの言葉は言いません。
 先生、長年ありがとうございました。そして、これからも、どうぞよろしくお願いします!

・・・先生は不肖の弟子の乱暴な弔辞を、きっと苦笑しながら聞いてくださったのではないか。
我が恩師。我が師匠。浜光雄(はまみつを)先生。
2011年2月22日逝去。享年77。合掌。


はまみつを先生の遺作『山と民の話』
2011年04月20日

 恩師である浜光雄(児童文学者・はまみつを)先生が亡くなったのは2月22日のことだ。もうすぐ2ヶ月になる。今も、ふとした瞬間に、先生のことを思う。一番多いのは、書いた原稿が活字になった時だ。「先生が読んだら、何て言うだろう」と、その顔を思い浮かべる。
 年に2回の“報告・飲み会”に、半年の間に書いたものを持参するのが習慣だった。いつも先生は、「ほほ~」と声をあげ、それらに目を通してくれた。感想や意見など訊く必要はなかった。先生の「ほほ~」のトーンで、文章の出来、不出来が嫌でもわかる。これ以上の修業はない。
 つい先日も、「ああ、先生に会いたいなあ」と思っていたら、先生の娘さんである、浜このみさん(クッキングコーディネーターとして活躍中)から小包が届いた。開けてみたら、先生の遺作『山と民の話 信州むかし語り2』(しなのき書房)だった。亡くなる前の数カ月、入院先でも執筆を続けていた本だ。「あとがき」まで、しっかり書き上げ、そして逝った先生。見事だった。
 和田春奈さんによる本の表紙の切り絵が、どこか先生の風貌に似ていて、嬉しい。「先生、お久しぶりです」と、声をかけたくなった。

ことばをのこすのは至難なことである。
が、さらに難しいのは、
そのことばが人びとの心にのこっていくことだろう。
心にやさしさをもつものは、孤独のいたみもふかい。
――はまみつを『山と民の話』