照る日曇る日第791回
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私と歳の近いこの人がコンビニから帰ってすぐに誤嚥で急死したという報道はショックだった。私も最近誤嚥することが多くなっていたからである。
そこで故人の冥福を祈りつつ代表作を再読したのだが、命を削り心臓から流れ出す血を原稿用紙に擦り付けるようにして書かれた物語に胸打たれずにはいられなかった。
尼崎の安下宿につどうヤクザ、刺青師、元売春婦の遣り手婆、正体不明のいかがわしい男と女たちと孤独な子供の黒い影が点滅する陰画を舞台に、明けても暮れても腐肉に串を刺して日を送る迎える主人公だが、世捨て人のくせにハードボイルドのヒーローみたいでなんかかっこいい。
その濃密な空間を支配する異様な緊張と不安が、読む者をぐんぐん遠い世界に連れていくのだが、そのままで浮沈すればよいのにあろうことか主人公はそれが「わたくし小説」の主人公であることを忘れたかのように、かの“宿命の女”とのいきずりの情事に巻き込まれ、それが近松の曽根崎心中さながらの赤目四十八滝情死行へともつれてゆく。
このあたりは著者本来の小説世界からの思いがけない大きな逸脱であるが、物語はぐんぐん膨張して凄まじい勢いで驀進し、突然のカタストロフを迎え撃つようにして終わる。
これは恐らく著者にとっても想定外の展開ではなかったかと思うのだが、私たちの心の奥底では、消え去ったアルベルチーヌ、イームンヒョンの赤い唇がいつまでも闇に揺曳しているのである。
失せ物いずこ早田雄二さんが撮ってくれたわが20代の肖像写真 蝶人