これまでの通り魔事件の多くは、犯人自身の生い立ちなど個人的な状況に負うところがあったと思う。
けど、今回の秋葉原の事件で、最近のほかの事件も含め、原因がこの社会にあると認識した。
渡辺和博の金魂巻(1984年刊)が格差社会認識の最初だったように思う。◯金、◯び、ということばで、勝ち組と負け組がすでにはっきりと色分けされていた。でも、バブルまっただ中のあのころ、いつか自分も◯びから◯金に行けるという幻想を抱いていたのかもしれない。 バブルがはじけ、◯金だったひとも◯びになり、サラリーマンでやってきた団塊だけ生き残った。団塊は日本のありとあらゆるものを根こそぎ収奪しながら進んでいる。
バブル期は団塊が40前後、援助交際が問題となったのも団塊が40代半ば(ちょうど今の私の頃か!)、そして、団塊の人件費のために若い世代は就職できず、就職氷河期を招き、いよいよ大量退職の時期を迎え、彼らのための年金が私たち現役世代の両肩にどっしりとのしかかってくる。団塊世代による、昭和ヒトケタ世代の遺産食いつぶしについては、また別の日に。
団塊が終身雇用制度をしっかりと享受してきた一方で、今の若い人たちの多くが派遣など、不安定な立場に立たされ、希望を持てない人生を送っている。
たしかに、がんばっても出世できないのでは、人はくさって、何もやる気が起きなくなる。ある程度は終身雇用制度を復活させないと、不安定な人が世の中にあふれることになる。そうすると、世の中が不安定になる。
結局、団塊もここで頑張らないと、自分たちを食わせてくれる人手が足りなくなるわけで、団塊の中で、まだ現役の人は、是非最後の仕事として終身雇用制度を復活させて行く方向にもっていってほしい。
今回の事件で、もう一つ悲しいことは、教育ママのことだ。孟母三遷の教えを待つまでもなく、母親が子供の教育を熱心にするのは当たり前だ。だが、昨今の事情はこれとは異なるように思う。 大都市圏なら、とにかく中高一貫。ここをめざして、小学校1、2年生から猛勉強する。5年生くらいでみんなへとへとなんだが、なんとか、あと1年頑張り、なんとか入学。多くの子はここで力尽きてしまうのではなかろうか。
名門校、入ってみれば並の人。
地域の学校から、そこそこの私立に入ってみると、みんな同じ偏差値で輪切りにされているから、同じ程度、自分は並。さらに、みんな同じならまだましで、一流校になると「そこよりいい学校が無いから、ここにした」なんていうことまで起きる。そうするともう劣等感の固まりとなって、どうしようもなくなり、絶望する。私たちの世代はバブル期に学生時代を過ごしたので、楽しいことが将来待っているだろう、と期待することができた(実際は社会に出たらバブルは崩壊していた)ので、まだしも、私たちの下の世代はもっとダメ。バブルが崩壊したままで、競争することしか生き残るすべは無いと思い込まされ、日々勉強を押し付けられ、時間がもったいないからファミコンをあてがわれ、外遊びもせず・・・
どんな大人になるか、言わずもがなだ。
受験テクニックだけでのおかしな人間ばかりそだててしまったことを反省してか、最近、受験産業は”人間力”などという言葉をさかんに使うようになったが、金で買う「自然体験」といった類いのものとは全く違う。
人間力は親子の関係を大事にする温かい家庭にさずかるもので、親も子も成長することで身に付く。そして”人間力”を養うのに必要なのは、アクティブな親である必要は無く、ただ、子供のことを抱きしめてあげられる心と腕だけなのだと、私は思う。
情報化がこれだけ進むと、”最善の方法”は自ずと限られてくる。そうすると、人はみなそこへ集中し、画一化されたマニュアルどおりの行動をとる。そこからはずれることは許されず、外れてしまった人は社会から退場(自殺)、休場(引きこもり)を余儀なくされる。派遣のような不安定な立場(とくに男性)で、頑張っていても、明日が無いと、爆発してしまうことがおこるのかもしれない。