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ここ数日来、煮詰まりつつあった考え事を妻に相談した。鏡を見て自分の仏頂面と対話しても妙案が浮かばず、精神的にも限界に近づいていた。
「あのね、人と話す時は、相手の人を柔らかい心で包み込むようにするの。そうしたら、相手の人も安心してあなたのいうことに耳を傾けてくれるわよ。」
そうか、もし自分がそうしてもらったら、わかってあげよう、力になってあげよう、そういう気持ちになるかもしれない。すくなくとも喧嘩腰、対立するような状態で話をしてもお互いいいことは何一つない。
イソップ物語の中に「北風と太陽」という話がある。あの話は、北風の冷たさと太陽の暑さの対比で、暑ければそりゃあ上着を脱ぎたくもなるというものだ。
妻が私に教えてくれたのは、そういうことではなくて、もっと相手を思い、ともに幸せになる、そういったアプローチのやり方だった。
人に動いてもらおう、そう考えたら相手をinvolve(巻き込む)しなくてはいけない。そのためには、どうしたらいいか。
必要なのは薄っぺらな笑顔ではないし、おためごかしの誘い文句でもない。ましてやお情けちょうだいの苦しい顔でもない。誰だって、子供だってついてきやしない。
相手を柔らかく優しく包み込む優しく温かい気持ちがあれば、笑顔があふれ、相手の目を見て、心のレベルで話すことができる。
そして私は救われた
私の誕生日はもう少し先なのだけど、息子の都合で昨晩、妻と息子が私の誕生会をしてくれた。娘が留学中で不在なのは残念だが仕方がない。誕生会といっても、いまさら将来への抱負なんてことを話すことはなく、普段の夕食と同じように他愛のない会話をしながら妻の手料理を美味しくいただいた。食後、紅茶をいれ、ロウソクを5本だけ立てた、小さめの、それでも3人には多めのバースデイケーキを食べた。
ささやかな誕生会のあと、妻と二人になり、プレゼントのお礼を言いながら、ふと思ったことを尋ねた。
「いつもありがとう。ところで、僕には何を求めているの?」
すると妻は、「ありがとう、と言ってくれたらいいの」と答えた。「たとえば何かした時に、よく出来てたらよくやったね、とか、そんなことを言ってくれたらいいわ」と。続けて、「私には”お疲れさま”はいらないのよ。」と。
言われてハッとした。私は、いつも自分のことばかり。仕事が大変、体調が今ひとつ、そんなことばかりで、私はこれまでどれだけ妻が考えていること、思っていることにどれほど気を配ってきだだろう。妻の誕生日だとか結婚記念日だとか、その都度お祝いをするけれどそれらは、それらの行事そのものが目的化しているだけで、心から妻のこと、妻を含めた夫婦のことを祝っていただろうか。私は”そうすればいいだろう”とばかりに、本当に大切なことが何かわかっていなかった。
私はこれまでどれほど妻のことを思ってきただろうかと考えると、情けない気持ちになった。このブログでも、”妻の名言”などといって、妻があれこれ私を励ましてくれるたり、ねぎらってくれたりする言葉を残しているけど、私は言葉をかけてもらうばかりで、私から妻にそういう言葉をかけてあげたことがこれまでどれほどあったろう。
”あーあ、やっちまった”、どころではない。結婚して以来、ずっとそうだったのだから取り返しがつかない。よくこれまで愛想をつかされずにきたものだ。失われた夫婦の時間を取り返すことができないなら、この先どうしたらいいのだろうかと考えることはある意味浅はかなことだ。まずは、妻の希望通り、「ありがとう」という言葉を忘れずに毎日を過ごすことから始めよう。そして、それは家族にも、周りの人に対しても。
いつだって、今がスタート
先輩の先生たちが定年とかで第一線から退くようになって、だんだんとあちらこちらのあれこれの仕事が回ってくるようになった。
処理能力の有無にかかわらず、次の私たちの世代が対応しなくてはいけない。
同世代ではすでに教授とかに出世して活躍している人は何人もいて、そういう人がみんなで手分けしてやってくれたらいいと思うのだけどそうもいかないようだ。そういう人たちはもちろん教室の運営もあるし、外の仕事も大きな学会の運営とかに関わっていて、それより小さな、ずっと小さな仕事には手が回らず、そういったことが私のような末端のところに持ち込まれてくる。小さい仕事と言っても、数十から数百人は関わっているので、適当にうっちゃっておけばいいわけではない。どれももうしんどいからと断ってしまいたいのだけど、そうもできずに引き受けてしまう。その挙句、仕事がもうパンパンになっている。
「もう、あれもこれもでほんと、大変だよ。」と妻にこぼしたら。
「文句言ってもしょうがないでしょ!今までそれにぶら下がってやってきたんだから。今度はあなたがそれをもり立てていくのが筋っていうものでしょ?ついでに言っておくけど、そういう仕事をする時にイヤイヤオーラを出しちゃダメよ。あなたはそれがよくわかるんだから」
と、だめ押しまでされてしまった。
ぶら下がってきた、というかこれまで多くの先輩方のお世話になってやってきた。思い返せば、社会人になってから自分で頑張ったことなんてほとんどない。全て、素晴らしい先輩が、時には後輩が私がより良い方向に進むことができるようにお膳立てして、助けてきてくれた。そうしてくれた人のことは良く覚えているし、どうしてくれたかも良く覚えている。
ならば、今度は私がそれをする番。
それも、「いやいや」ではなくて、「喜んで」。
人生で起こる出来事の多くは人との関わりの中から生まれ、人との関わりの中からやるべきことが出てくる。そう考えてみたら、人間、自分でやっていることなんてほんの少ししかない。それら全てのことに対して自分は幸運な人間だと感謝の気持ちを持っていたら、嫌な顔一つしないでやっていけるはずだ。
感謝の気持ちを忘れずに
”私も(コロ)健ちゃんと一緒にそうしてあげようか?”
私が例によってまた、なんのために生きているのか?などと昨日から言い出したものだから、妻から、”じゃあ一緒に思い悩んで、ダークサイドに行ってあげようか?”というようなことを言われてしまったのだ。去年も同じようなことを言われたのに、また言われてしまった(『私の方が大変なのよ、だってそっちの方が楽だもの』2017年08月21日)。
それは私が困るからやめてくれと言ったら、
”マイナスとマイナスがくっつけば、プラスになるでしょ?それでいいんじゃない?”
などと追いうちをかけてくる。すごい考え方で、たしかにそれもありかもしれないが、もしもうまくいかなかったときのリスクが高い。
ということで、人生を暗めに悩み多きものとして考えることはやめた。
そうはいってもなー、人生悩ましいことは多い。悩みなど一切なく、毎日のことにがんばって精力を傾注していけたらいいのだけど、なんでそうならないのだろう?
でもとにかく、あんまり悩んでいると、妻もその悩みに付き合うと、おどされているのだか警告されているのかわからないことになってしまった。これからは、その辺りにも気をつけなくては。
あんまり妻に依存するのも考えものということか。
プラスマイナスゼロならいいか
仕事がどんどん増えて泣けてきそうだ。能力の高い人なら、パッパと片付けることもできるのだろうけど、私にはもういっぱいいっぱい。職場の同僚は、”先生が人気者だからですよ”と慰めてくれる。あちこち施設を移っても私のことを覚えてくれる人がいるということはありがたいことだし、この先も私がやれることがまだ残っているということは喜ぶべきことだ。それにも限度というものがある。
というようなわけで、(例によって)妻の前でため息をついついてしまう。妻からは以前にも「ため息は周りの人にうつるから」と、気をつけるように言われているのだけど、それでもあれとこれとと考えるとつい出てしまう。
「何と何がため息の原因なの?全部言ってみなさい。」と質され、昨日見舞った病気で入院している親戚のこと、仕事がどんどん溜まって行くばかりで、いっこうにはける気配がないこと、などなど言ったら、親戚の話は後日話すとして、仕事に関しては、
「それ、主婦だって一緒よ。毎日毎日、洗濯物は溜まるばかり、来る日も来る日も食事を作って、掃除だっていくらやってもキリがない。
私なんて、その都度、ありがとうも言ってもらえないのよ。」
と、諭された。
子供二人と同居しているということもあるけれど、家事はたくさんある。どれも手を抜いたら、あっという間にゴミ屋敷になってしまう。食事もただ炒め物を出したらいいというわけではなくて、栄養バランスを考えながら作ったら半日ぐらいあっという間にすぎてしまう。子育ても加わったら、健康管理、教育指導までも抱え込む。以前に書いたこともあるけど、プロの主婦というのは、上手下手は関係なく、本当に重労働だ(「主婦の仕事は重労働」)。内容は違うけど、私の仕事のプレッシャーとなんら変わることはない。どれひとつ、手を抜けず、代わりもいない。何かの免許があるわけでもない分、モチベーションを保つのも難しい。それを維持するのは家族への愛情しかない。
ため息をついているばかりでは家事は進まない。私の仕事も一緒、ため息をついているばかりでは何も進まない。
「あなたの仕事も私の仕事と一緒で、一つ一つ、片付けていくしかないでしょう?」
結局は、そうやってなんとかやり過ごしているけど、その都度ため息をつく必要はない。妻を見習って、目の前にあるあれこれをまとめて、なんだか大きなものにしてみることなく、一つ一つのことを片付けていくしかない。
自分だけが大そうな仕事をしているわけではない。
どんな仕事も全うできたら大したもの
仕事仕事と負荷が多いからか、日本の政治に呆れることが多いからか、なんとなく気の休まる間がなく、なんとなく気が重い。
妻にも心配されてしまったので、逆に、どうしたら(妻のように)ポジティブでいられるか、聞いてみた。
そうしたら「余計なことは考えないの、なるようにしかならないから。」と教えられた。
たしかに、夜中目が覚めてしまってから、あれこれ考え始めてしばらく眠れないことがあっても、何かが変わるわけではない。何も変わらない。寝て起きて、1日が始まり、物事はそれなりに進んで行く。どうしようもないことなどなく、全てはなるようにしかならない。因果応報、結果はすでにそこにあるのかもしれない。そしてその結果へのプロセスを自分で切り開いて行くだけのことだ。人間の悩みというのは頭の中で作り上げているだけのもの、心配してなにかがどうなるというものではない。一体なんのための悩みなのかすらよくわからなくなる。『杞憂』という言葉がある。取り越し苦労のことだけど、全ての悩みなんてそんなものだ。
さあ、新しい週が始まる。
今、自分ができることを、自分にも相手に対しても、誠実に真面目にやるしかない。
その先はなるようにしかならない。
みんなきっとうまくいく