昨晩、叔父が病院で亡くなった。いったん家に帰ったところに、お袋からいよいよ危ないという連絡があり、東京に戻る格好で車で叔父が入院している病院に行った。気さくで明るい人で、私のことを気にかけてくれて随分可愛がってもらっていたので永遠の別れはとても悲しかった。道で転んだときに打ち所が悪く、手術まで受けたが、そのまま意識が戻ることはなかった。それほど高齢というほどでもなかったので、残念だ。一緒にいた親父は、病理解剖はどうするの?と言っていたが、担当医から解剖を行わせてほしいという依頼はなかったし、従兄弟たちも希望はしなかった。その病院に勤務している顔見知りの病理医の顔を思い浮かべつつも、私も敢えて従兄弟たちに勧めることはしなかった。
叔父の死に顔は眠っているようで、数日前に見舞いに行った時よりもむくみが消えてむしろスッキリしているようだった。臨床的な死因についての担当医の説明はそれなりに納得できるものだったけど、見てきたわけではないのでどこまで本当かはよくわからない。ただ、3ヶ月近くの闘病生活の後、さらに力を振り絞って剖検をしてもらうというのは大変なことであると、ボンヤリと考えた。
死亡確認をしている臨床医を見ていて、医者というのが死の瞬間からただの医療従事者の一人になってしまうということを感じた。それより、死後のケアをしてくれる看護師の方がよほどありがたく思えてしまったほどだ。その医者があえて剖検を希望しない理由というのもなんとなくわかる。彼らは次のまだ生きている患者に取り組まなくてはいけないし、検査技術の進歩によって”なんとなく”死因が推定できる患者の解剖を行うことに興味は持てないのだろう。
剖検を依頼しなかったことで、その病院の剖検率の低下を手助けしたことになるが、1日の仕事を終えて叔父の死に立ち会った遺族が(それがたとえ翌日のことであっても)病理解剖が終わるまで待つことは難しいことであるような気がする。剖検率の低下は忙しすぎる医療現場だけでなく、残された人たちの状況も多分にある。それは、剖検そのもの以外のところの問題でもある。
病理医として私ができることといえば、臨床医に新たな知見を与えることができるように、そして遺族が納得できる診断を下すためにベストを尽くして解剖を行うように努力するしかない。
難しい選択