こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

病理解剖をしなかったということ

2018年05月31日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨晩、叔父が病院で亡くなった。いったん家に帰ったところに、お袋からいよいよ危ないという連絡があり、東京に戻る格好で車で叔父が入院している病院に行った。気さくで明るい人で、私のことを気にかけてくれて随分可愛がってもらっていたので永遠の別れはとても悲しかった。道で転んだときに打ち所が悪く、手術まで受けたが、そのまま意識が戻ることはなかった。それほど高齢というほどでもなかったので、残念だ。一緒にいた親父は、病理解剖はどうするの?と言っていたが、担当医から解剖を行わせてほしいという依頼はなかったし、従兄弟たちも希望はしなかった。その病院に勤務している顔見知りの病理医の顔を思い浮かべつつも、私も敢えて従兄弟たちに勧めることはしなかった。

叔父の死に顔は眠っているようで、数日前に見舞いに行った時よりもむくみが消えてむしろスッキリしているようだった。臨床的な死因についての担当医の説明はそれなりに納得できるものだったけど、見てきたわけではないのでどこまで本当かはよくわからない。ただ、3ヶ月近くの闘病生活の後、さらに力を振り絞って剖検をしてもらうというのは大変なことであると、ボンヤリと考えた。

死亡確認をしている臨床医を見ていて、医者というのが死の瞬間からただの医療従事者の一人になってしまうということを感じた。それより、死後のケアをしてくれる看護師の方がよほどありがたく思えてしまったほどだ。その医者があえて剖検を希望しない理由というのもなんとなくわかる。彼らは次のまだ生きている患者に取り組まなくてはいけないし、検査技術の進歩によって”なんとなく”死因が推定できる患者の解剖を行うことに興味は持てないのだろう。

剖検を依頼しなかったことで、その病院の剖検率の低下を手助けしたことになるが、1日の仕事を終えて叔父の死に立ち会った遺族が(それがたとえ翌日のことであっても)病理解剖が終わるまで待つことは難しいことであるような気がする。剖検率の低下は忙しすぎる医療現場だけでなく、残された人たちの状況も多分にある。それは、剖検そのもの以外のところの問題でもある。

病理医として私ができることといえば、臨床医に新たな知見を与えることができるように、そして遺族が納得できる診断を下すためにベストを尽くして解剖を行うように努力するしかない。

難しい選択

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男子の地位低下の裏返し

2018年05月30日 | 日々思うこと、考えること

子育てについての議論がなんだか随分ヒステリックなまでになっている。私が今日この記事を書いたら、やっぱりそれを読んだ誰かは不愉快な思いをするだろう。考え方、置かれた立場は様々だから、どうしようもない。

でも、そこまで炎上させなきゃいけないかというようなこともあるけれど、世の顰蹙を買う発言をしているのはビジュアル的にはこの人子育ての苦労を知っているのかな?と思わせるようなおっさんで、そういう人の上から目線で女性に対してあれこれ言っているから大変なことになる。やれ、子供は3人、保育園より母親が育てたほうがいい、でも仕事はしろ、つべこべ言うな。はっきり言って女性への差別だ。

ジェンダー間の対立は常にあるからそれが現れているといえばまあそうなんだけど、コンピュータの技術革新によって男女間の能力格差が縮まっている現代で、そんな考え方はもう通用しなくなっている。日常生活の中で、重い荷物を持つことぐらいしか男にできることは残っていないように思える。子育ての場面でいうと肩車ぐらいか。でもペッパーが安定してどこでも立てるようになったら、家事買い物程度の力仕事は十分やってくれそうだ。肩車も子供にとっては同じことかもしれない。男性にとっては生きにくい時代に入っているのかもしれない。でも、それを女性蔑視と取られるような発言で覆い隠そうとするのはどうか。

敗色濃厚

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教育を産業にする人たちの自縄自縛

2018年05月29日 | 日々思うこと、考えること

結婚するしない、子供がいるいない、子育てはどうするかなどということについては色々な人が色々な考え方を持っている。

以前はこうだったけど、あとになって変わるということもある。

きわめて個人的な問題であって、こうあるべき、などということは無い。

このところ、少子化に業を煮やしたのかどうかわからないけど、これの打開策として、若い人に結婚しろ、子供を産めということを上から目線で言う人が目立つ。

保育園問題についてもよくわからないことをいう人がいるようだ。国会議員でもそういうことを平気で言う人がいるのには全く参る。

今の指導者層、というのはバブル景気の恩恵を最大に受けた人たちで、その人たちはバブルの遺産を何も残すことなく、ツケを今の若い人たちに回している世代だ。

あの頃、お金のことばかりにかまけていないで、少子化対策を行なっていたら今のような極端な人口減少社会にはならなかったかもしれない。

少子化の原因の一つは、子育てにかかるお金だ。学校を作ったり、学部を新設することがお金になる世の中、すなわち教育産業に群がる人がこれだけいるのだから、それにお金がかかるのは道理だ。

教育格差を作ることで、教育費を高騰させているけれど、そんなことしたら自縄自縛。

学校に進ませることのできる親なんてそのうちいなくなる。

なぜ、0歳の時から子供をあずけて仕事をしなくてはいけないのか?そう考えることもできない政治家は一体何を考えているのだろうかという思いもある。

保育園にしても、補助金は保育士に回ることなく経営者側に手厚いという話も聞く。

権力欲、金銭欲の強い人は教育産業に携わらないでほしいと思うけど、車窓から見える数々の看板はそういう人こそそれらを発展させる力があるのだと実感させられる。

それにしても、この手の話題となると絶望的な気持ちになるのはなんでだろう。

私自身が教育格差を利用してうまくやってきたという後ろめたさを感じているからかもしれない。

教育は競争の裏返しでもある

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不安に打ち克つにはとにかくやるしかない

2018年05月28日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

 病理学会の発表スライドがまだまとまらない。まとまらないといっても、仕上げができていない、というのではなくて、構想がまだまとまらない段階だ。色々と悩んでいるけど、下手の考え休むに似たりで、休んでばかり。

 それでも、時間ばかりは迫ってくる。

 土日も何も進まなかったし。夜中に目が覚めることも多くなっている。

 だがしかし、悩んでいるぐらいなら、やってみようと腹をくくることにした。

はじめの一歩はスライドのタイトル。

素材はバラバラでも、とにかく作ってみる。

自分自身が理解していないことは、しっかり勉強する。

まずは、ここから。今日中に、これだけのことは確認しよう。

今日は妻の誕生日

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もう、蛍の季節

2018年05月27日 | 日々思うこと、考えること

昨日、仕事のあと色々あり、おかげで今日は精神的にもヘトヘトになってしまった。

家で仕事をする気にはなれず、天気が良かったこともあって庭の手入れをしていたら1日終わった。

 

先日、近所の川に蛍が出たというので、夕方、ナイトと一緒に見に行った。

遠くの方までたくさん飛んでいるのがみえた。そのぶん、人出ももたくさんだった。

英気は養えたかな

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またまたイライラ

2018年05月26日 | 日々思うこと、考えること

気をつけなくてはいけないって、わかっていてもイライラしてしまう。こういうときに限って、ちょっとした忘れ物をしてしまったりもする。

ここが心の踏ん張りどころだと思って、ニッコリ笑って過ごさなくてはいけない。そういえば、さっき大船駅をすぎるときに撮り鉄がたくさんいるのが見えた。湘南新宿ラインの渋谷駅線路切換え工事があって大崎止まりになるから、行き先表示が変わったりするのだろうか?戸塚の先の跨線橋の上にも2、3人いて驚いた。今朝のニュースでは70万人以上の人に影響がある、なんていっていた。土日に埼玉方面から渋谷とか鎌倉に観光に行く人は困るかもしれないが仕方ない。

それはさておき、私のイライラ。理由は仕事の逼迫。大局的にみて停滞気味であることも相まって深刻だ。

今日一日で立て直しがきくわけではないけれど、そのきっかけにしたい。

頑張れコロ健

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病理医の当番日はてんてこ舞い

2018年05月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

”やってもうた!”というほどではないけど、昨日の記事をアップし忘れていた。アクセス数がやけに少ないので、おかしいと思って下書きを確認してわかった。日付は昨日のままで、内容も変えないでそのまま投稿した。あれこれのスキャンダルが日々刻々と明らかになっているので、追いつくのはほぼ不可能なので仕方ない。電車の中で大まかなことを書いて、昼休みか遅くとも帰宅時に簡単に推敲して投稿する。スマホが登場してから随分楽になったけど、基本的な記事の体裁はPC画面を想定しているので、PCで投稿するのを忘れるとこうなる。

昨日は忙しかった。忙しすぎるぐらい。昨日は、私が当番病理医。施設によってシステムや内容は異なるので、誤解の無いようにしておきたいが、私の勤務先の業務体制は全く問題ない。

でも、先週出張があってその振替がきたりしたものだから大変なこととなってしまった。

午前中は手術例、生検例の切り出し。虫眼鏡を使わないとよくわらかないぐらい小さな検体から、両手で抱えても滑り落ちそうになるような大きな検体まで様々ある。実習の医学生に説明しながらなので、注意が散漫にならないように気をつける。

迅速診断の当番でもあったのだけど、午前中は診断室で顕微鏡診断をしている同僚がいて代わりにやってくれて助かった。切り出しは病理医二人がかりで行う。それなりに熟練した病理医二人で半日かかるのだから、なかなかの検体量だ。

午後は、怒涛の迅速診断。迅速診断が必要になる手術のうち、採取が比較的容易な乳腺のセンチネルリンパ節生検は午前中の比較的早い時間から、出てくるが、そのほかは、午後、それも昼前後から検体が出てくる。

切り出しが終わって、やれやれというところからなので、昼食も急いで食べて、というか食べている途中にも入ってくるので、ずっと部屋に張り付いていることになる。昨日は診断に苦慮する症例が多くて参ったが、こういうとき、一緒に悩んでくれる同僚がいてくれると助かる。

ルーチンの診断当番もずれ込んでしまったので、迅速の合間に診断していたが、難しい迅速診断が続いたので、なかなか進まない。仕事が終わった、というか体力が尽きてこれ以上頭が働かなくなったのは、日もとっぷりと暮れてから。

結局、札幌での病理学会総会の準備は今日もできず。これは、焦る。

さらにはジムにも寄れず、家に帰ったらバタンキュー。

これじゃあ、さすがにブログのことは忘れるわな。

今日は忘れないように

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退場して、再出発を

2018年05月24日 | 日々思うこと、考えること

アメリカンフットボールの名門大学の危険プレーについての決着がつきそうだ。当の学生が機先を制して記者会見(悪質タックル問題 日大選手が会見 JIJI.com)で洗いざらい述べてしまったから、大学側も後追いのように翌日記者会見(日大・内田前監督「私の指示ではない」 悪質タックル 朝日新聞DIGITAL)を行った。昨晩の会見、ニュースで放送された部分をみると釈然としない点もあるけど、落とし所はこんなものだろう。大学の名士である監督は監督を辞めて、その腹心のコーチも辞めるそうだ。これ以上、彼らはテコでも動くつもりはない。下手をすると、今度はコーチがどうかなってしまいそうだ。前監督がその後も大学の要職にとどまるかとか、そういうことは大学内のことだから外からとやかくいう必要はない。ある意味、受験生が決めてくれる。アメフト部も対外試合がしばらく停止になるだろうけど、それもこれもそういう旧態然とした体質を保ってきたしっぺ返しだろう。指導者たる大人たちは猛省して再出発をはかるしかない。まだ若いコーチも、選手ともども立ち直って欲しいものだ。人生で一番若い今こそが再出発のチャンスだ。

政治の世界もそうだ。安倍首相は難病のために一度は総理大臣を辞めた(『責任を持った人生2007年09月)。でも、再度その激務に挑戦した(『たとえ病気を抱えていても2012年09月)。命がけで、この国を良くしようという志は今でも変わらずにあるに違いない。

でも、それだけではいけないのではないか。国民の先頭に立ってこの国を良くしていこうという人が、周りからたかってきた海千山千に利用されてしまい、その非を認めないままきてしまって、多くの取り巻きを犠牲にしている。取り巻きはなんとか生き延びているけれど、その末端では自殺者まで出ている。真実はいつか明らかになるし、もう無理なんじゃないか。財務省の中にだって、まともな考えをもっている人もいるだろう。

国の行く末を思う気持ちと、政治家としての行動は違うところもある。志を同じくする人に、思いを託することも、選択肢の一つとしてあってもいいのではないだろうか。不死鳥のようにそこから立ち上がってくればいいのではないか。

瓜田に履を納れず

李下に冠を正さず

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瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず(広辞苑 第6版より)

瓜畑の中では、脱げたくつを履(は)き直すためにかがむと、瓜を盗むかと疑われる。李(すもも)の木の下で冠の曲がっているのを直すと、李の実を盗むのかと疑われるということから、他人の嫌疑を受けやすい行為は避けるようにせよの意。


体調は心のバロメーター

2018年05月23日 | 日々思うこと、考えること

最近、イライラすることが多い。

あれこれ色々あって、どうしようもなくなっているのであって、誰か、例えば妻とか子供たちとか上司や同僚の誰かが悪いということなんて一つもなくて、全部(たぶん)私が原因。仕事でミスをしたとか、悪事が露見したとか、そんなのでもない。一つ一つのことが積み重なって、身も心も動きが取れなくなっている。

もしかすると、そればかりではなくて、最近マスコミを賑わしている私より少し上の世代の情けない大人たち、すなわち総理大臣とかその取り巻きの、今や金属疲労に陥った政治家とか、高級官僚、有名運動部の監督といった情けない面々たちにイライラしているのもあるかもしれない。

イライラすることが多いと気分が悪くなる。ここのところ血圧がちょっと高くて、今日はお腹の調子も今ひとつ。

今日の天気はこれから下り坂とかで、お腹も一緒に下ろうというわけでもあるまいに。ストレスが積み重なると、体にでてくる。体は心の状態を的確に反映するバロメーターだ。

そんなわけで、今日は1日心静かに仕事して、静かに過ごすことにします。

 

心の強さには限界がある

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そそのかされた魂を救うのは真実だけ

2018年05月22日 | 日々思うこと、考えること

嘘をついてしまうということは時としてある。その結果、全てが丸く収まり円滑に進んでいくこともある。でも、例えば愛していないのに愛していると言ったり、やったのにやっていない、とか逆にやってもいないのにやったなんて言っても、その嘘で誰か傷つく人がいたら、その嘘は良くなかったことになる。その嘘は明らかにして糾されなくてはいけない。

今の政治の世界は嘘がまかり通るようになってしまった。誰がみても、それは嘘だろう、ということを平気で言い通す。嘘(と思わざるを得ないこと)を平気で言うのには何かの信念があってのことだろうが、みているとまるでブラック企業で働く人と同じで、洗脳されているかのようにみえる。目の前の権力者だけが絶対で、公僕であるにもかかわらず、その嘘で傷ついた人たちに目はいかない。嘘をついた人は、墓場まで嘘を持っていくのだろうけど、その人の魂が救われることはない。

スポーツの世界でも、嘘やインチキは多い。ドーピングはわざとやるインチキの代表だけど、ラフプレーも紙一重だ。一発退場の反則なんて、全くわざとだ。私も、ライバルを蹴落とそうとラフプレーをしたことがある。これは厳しい当たりで、反則でなければそれでいいと。だけど、いまでもその時の嫌な気持ちは思い出され、私の心をチクチクと痛め、このまま死ぬまで続くだろう。私は相手に謝る機をそのまま逸してしまった。スポーツという、比較的厳密なルールのあることでそうなのだから、社会一般ではそういったことは数知れずある。

なんにしても、大切なのは常に真実を明らかにすること。自分でやったことは自分で責任を取る。でも、それが自分の意思でなく、誰かに唆(そそのか)されてやったのだったら、その唆した人物を明らかにするべきだ。これが人生の残り時間が半分を過ぎている人であればそのことを墓場まで持っていくことも考えるだろうが、若者であれば誰かにやらされたと言うことは、何も隠さず明らかにするべきだろう。ほとんどのことはきっといつか明らかになる。ならば今明らかにしてしまえばいい。人間関係なんて、自分のいま見えているところだけではない。世界は広い。人生、やり直しはいくらでもきく。

勇気を出して

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夢は記憶の再整理

2018年05月21日 | 日々思うこと、考えること

週末、おかしな、でもやけに整合性のとれている夢をみた。

私の母校は比較的都心にあるのだけど、広い校地を求めて少し郊外に移転した。その母校の体育祭に見物に行ったら、ちょうど昼のエールの交換が行われていた。エールの交換ではある組が歌を歌い、私が以前いた組は十数頭ものボルゾイが出てきて、芸をした。大きくて、そんなに人がいるところでおっかないところだが、やたらと躾のいい、犬たちでリーダー犬の元、とてもよく統率がとれていて驚いた。応援席の後ろにあるデコレーションは遠くてよく見えなかったけど、ちょっとだけ小ぶりだったようだ。続きはあったようだけど、これ以上は良く覚えていない。それでもある程度筋が書けたのは、目覚めてからすぐに妻に話したからだろう。

僕はフラット

この夢のキーワードはいくつかある。

そもそもは母校の体育祭である組が28年ぶりに優勝したというので、その組だった友人たちがFacebookにアップしたのが始まりだ。たぶんそのことが心に残って、母校のことを思い出したのだ。55歳にもなって、母校の、それも運動会の結果に一喜一憂、というより、運動会の結果が伝わってくる現実そのものが微笑ましいが、私の母校の運動会、すなわち体育祭好きは他所でも結構有名らしい(『運動会・・・残り物には福がある?2012年10月06日)。あとは、映画『かぐや姫の物語』(『かぐや姫の物語という平安時代の子育てのお話2018年05月19日)。ちょっと前に、所用で郊外に行ったということもあるけれど、映画の前半で竹取の翁らと田舎暮らしだったのが心に残っていたのだと思う。そしてボルゾイ。

これはちょっとわからなかったけど、多分、私の優秀な後輩に息子さんがいて、その子がわが母校に進学したと勝手に思い込んでいたのだと思う。その、私の優秀な後輩は昔ボルゾイを飼っていて、彼がまだ独身で実家住まいだった時にお伺いしたらボルゾイがいて、あまりの大きさに驚いたものだった。数日前に、牧羊犬の番組をみていたことも影響していたのだろう。

デコレーションの大きさは、先日同期数名で会った時に、ライバル組の団長だった男が、「(母校の)デコレーション、小さくなっちゃったんだよ」と嘆いていたのが心に残っていたからに違いない。学校側は最近は体育祭に入れ上げないで少しでも勉強してほしいらしい。

夢なんて、こんなことを書いているはたから忘れてしまうようなものだけど、こうやって記憶が固定化されて思い出となり、過去の思い出も呼び起こされるのだとわかると、随分興味深いものだと、今さらながら実感する。

嫌な奴は出てこなかった

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不動産屋の案内看板の鎌倉の地図

2018年05月20日 | 鎌倉暮らし

今日はいい天気だった。北からの乾燥した空気のおかげで、大型連休中のようだった。先週もあれこれあって忙しく、やっとほっと出来たのは嬉しかった。

そんな爽やかな空に誘われてナイトの散歩をしていたら、造成中の土地があって、案内の看板があった。

「コロ健先生の家、鎌倉のどこですか?」と聞かれることがある。相手によって、住所を言ったり、近くの有名な神社仏閣の名前を出したりして説明する。最近では、Googleマップがあるので、家の写真まで見せることができるが、なんとなくそれも味気ない。

せっかくなので、写真に撮った。誰かに案内するのに使うわけではないが、もしそんな話になった時には話のタネになるかもしれない。

鎌倉は小さな街で、街全体がテーマパークみたいなものだ(『鎌倉は街ごとおおきなテーマパーク2016年07月03日)。この地図はそのパンプレットのようで楽しい。

好天が続いてくれるといいけれど

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かぐや姫の物語という平安時代の子育てのお話

2018年05月19日 | 読書、映画、音楽、美術

昨晩、スタジオジブリの故高畑勲監督の追悼番組として映画、『かぐや姫の物語』が日本テレビで放映されていた。なんとなく観始め、コマーシャルの多さに閉口しながらも結局最後まで観てしまい、最後は涙してしまった。

もともと、おとぎ話というのは、いろいろな寓意が含まれていたり、それこそ実際あった話であったりする。このお話も、実際に平安時代にあった高貴なお姫様の話だったのかもしれない。観終わってから、妻が、”あんな素敵な音楽に囲まれて月に帰っていくなんて、いいわね”と言っていたけど。確かにそうだった。かぐや姫は美しく描かれていたし、音楽も素敵だった。

今のように平均余命が90歳に迫ろうという時代からは程遠く、平安時代の平均寿命は30歳前後だったから、せっかく子供を授かっても、20歳前後で失うなどということなんて、よくある話だったに違いない。

赤ん坊が、育つのも早かったろうし、女性は男性に比べてあっという間に大きくなる。10歳ぐらいで今の高校生ぐらい、そして初潮がくればもう立派な大人の女性。5人の公達にプロポーズされたのは、15、6歳だろうか?十八、九でミカドに見染められ、ほどなく月に帰っていく。今より、ずっと時間はゆっくり進んでいたから、そんなところでいいのではないか。

おじいさんおばあさんとの別れのシーンで、これって、親に先立つ悲しい子供の話なんだと、気がついた。こんな歳になるまで、ただの平安ファンタジーと思っていたのが恥ずかしくなる。高畑監督は大したものだと思い、この映画、劇場で観たかったなあなどと今更ながらに後悔した。公開当時、妻はぜひ観たいと主張していたのだが、私が女々しい映画だと別のを観た。DVDを買ってCM無しで観てみようかと思う。

昔々は、今でもおなじ

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ど根性ひまわり2018

2018年05月18日 | ガーデニング・菜園・花・緑

前庭のフラワーポッドには新築時からソヨゴが植わっていて、だいぶ育って大きくなった。ソヨゴの枝には小鳥用の餌台をぶら下げていて、朝は随分賑やかになる。

フラワーポッドの写真はよくアップしているけど、その中に、ヒョロッと伸びる草が3、4本ある。どうやら、餌台にのせていた食用ひまわりの種が下に落ち、鳥たちの目もかいくぐって育ったらしい。ひと月ほど前に双葉が出てきたのをみたときには小学校の時に育てたひまわりを思い出して、嬉しかった。以前の勤務先への通勤路の道路ぎわに育っていたひまわりがあっでど根性ひまわりと命名したことがあった(『ど根性ひまわり 20152015年07月07日)。今回、このひまわりたちも、食用ひまわりとして販売され、小鳥の餌台からこぼれ落ちて育ったなんてやっぱりある意味ど根性ひまわりだ。生育環境は道路ぎわに比べたら段違いに良くて、今や、7、80センチまで育っている。一体どこまで伸びるだろうかと心配になる。

ここには先住のキララやミリオンベルなんかが植わっていて、その子達への日照不足が大丈夫かと思えてしまう。ひまわりが小さいうちに抜いて移植しようかと思ったけど、かえって弱らせてしまうのでやめた。まあ、真南に向かっているので、多少日陰になったほうがいいだろう。キララなんかは負けじと背伸びしている。ひまわりはせいぜい8月までだから、秋以降は日照不足は解消されるはずだ。種ができたらそれを回収して、また餌台にのせることにする。

妻に、「”食用ひまわり”の花って、どんな花が咲くの?」と聞いたら、「普通のひまわりよ」といわれたが、本当だろうか。どんな花が咲くかとても楽しみだ。

肥料をたくさんやらないと

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多角点てなに?

2018年05月17日 | 日々思うこと、考えること

世の中知らないことは多い。

というか、世の中に事物が100あったとしたら、自分が知っていることはその一万分の一、いや一億分の一程度あるだろうか。

だから、こんなことはよく知られていることなのかもしれないけど、やっぱり知らないことだ。

鎌倉の荏柄天神の二の鳥居のたもとに、こんなものがある。

散歩のたびに気になっていたのだけど、自分には関係ないと思うと調べようという気にもならず、そのままにしていた。

”多角点  国 地理院”とあるのだけど、なんのことだかはもちろんわからない。

ググってみると、測量に関係するものらしい(下記参照)。

かすれて読めなかったけど、国土地理院と書いてあるようで、この蓋の下には金属製のピンのようなものがあるらしい。

もちろんそれを見たりはしなかった。

測量というと、ピタゴラスの定理からはじまり、土地の区分、財産、治水、いろんなことが思い浮かぶが、そんな大きな世界があって、これはその一部を成している、なんて考えると面白い。


世の中には知らないことばかり。

興味が無い、自分には関係ないからといって知らんぷりしていたら、知らないことはもっと増えてしまう。

それよりも、知らないことに興味をもって知ることが世界を広げるためにはとても大事だと、こんな小さなものを見ても思う。

いつも心に好奇心

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多角測量 たかくそくりょう traversing (コトバンク ブリタニカ国際百科事典小項目事典より)

トラバーズ測量,導線測量ともいう。多角点 (トラバーズ点) を結ぶ折れ線の連続を多角路線といい,1つの既知点Aから出発し,次々に折れ線の長さとその間の夾角をはかって,逐次に多角点の座標を求めていく測量。三角測量と並んで基準点測量の主要な方法とされ,三角測量の場合のように遠く離れた点の間の見通しがなくてもできるため,市街地内での測量や道路の中心線測量などに広く利用される。以前は距離の測定が角の測定に比べ精度が低く,そのため多角測量は三角測量に比べ精度が低かったが,最近は精度の高い電磁波測距儀の出現によって両者の差はほとんどなくなった。同じ原理で平板上で図解的に行うものは,導線法とか図解導線法と呼んで区別している。