こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

つけ込む隙、つけ込まれる隙

2012年05月31日 | 日々思うこと、考えること
いじめ、意地悪、嫌がらせ、といった類いのことは、人間として生まれたらそれはもう、程度の差こそあれ、物心ついた時から他人からやられるし、逆にやり返してもいる。
これらのことをするためには、相手に対してつけ込む隙があるか、もしくは、相手からつけ込まれる隙がないといけない。残念ながら人間、完璧にやっているつもりでも、生きていれば、所詮隙だらけだ。

私自身、隙だらけの人間なので、人につけ込まれることが多い。つけ込んでくる人の数がそれほど多くなかったおかげで、なんとかこれまで生き延びてくることができた。
この、”つけ込んでくる人”というものの存在が、問題だ。

世の中の、おそらく大部分の人は、わざわざ人の弱みにつけ込んでまで、いじめ、意地悪、嫌がらせをしようなどとは思っていない。
だが、生来、こういったことが好きな人、というのがいて困る。
昔、こういう人に目をつけられて、困ったことがあった。一体何が気に喰わないのか、嫌なことや、邪魔ばかりする。ほとほと嫌になって、なるべく、近づかないように距離を置いて、なんとか逃れることができたが、その人とのことは今でも嫌な思い出の一つだ。

「隙があった方も悪い」などと言う人もいるが、隙がある方が人間らしいと感じるし、つき合うのなら、隙のある人との方が気楽で楽しい。


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夜中に書いた手紙をそのまま出したりしないように

2012年05月30日 | 日々思うこと、考えること
物事には言っていいことと、悪いことがある。言って悪いことを言ってしまうと、取り返しがつかなくなる。ツイッター、フェイスブック、ブログに言うべきではないことを書いて、“炎上”ということがよくある。

自分では、これは絶対に正しい、という論をそういうところで主張するわけだが、客観性の無いこと、荒唐無稽なことを声高に主張しても、受け入れられることは無い。
自分の立ち位置があれば、それと反対の立ち位置があることを常に考えて表明しなくてはいけない。それができないのであれば、自分の主張は少し控えめにしておくといい。

自分のブログなりが炎上してしまった人は、なんで自分の意見が批判の対象となっているのか、よくわからないかもしれない。あらためて読み直しても、それほどおかしなことを言っているようには、自分では思えない。

夜中に書いた手紙は、そのまま出すな。

と言う言葉がある。私も昔は、気分に任せて一気に手紙を書て出したり、長文の説教じみたメールを出したりしたことがある。手紙もメールも一度出したら取り戻せない。夜中に書いた手紙、“出す前に”もう一度良く読んでみるといい。よくもまあ、これだけ書いたものだと思えるような悪文、汚文であることがほとんどのハズだ。二度と読みたくなくなる。メールを使いだした頃、いったん出したメールを取り戻したいと思ったことがどれほどあったことか。

手紙やメールですら、出したあと取り消したくなるのだから、不特定多数の人あてに発信した場合、それに対してどのような反応が来るかは火を見るより明らかだ。

考えを発信するということは、とても高度で責任を伴う作業である。
その行為自体を十分考えて実行しないととんでもないことになる。

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考え過ぎの人生か

2012年05月29日 | 日々思うこと、考えること
こうして毎日、ブログの更新、というか、日々考えたこと、思ったことを書き連ねていると、よくもまあ、毎日毎日、しょうがないことばかり思いつくものだと、我ながらあきれてしまう。

私はあれこれ、考え過ぎなのだろうか?

エセ哲学青年だった高校生時代から、何も変わっていない。

中途半端な理想論と、中途半端な正義感。
そして、その実、たいしたことのない、ウソばかりの実人生。

それらのギャップから生じる葛藤めいたものを、毎日ぼんやり考えている。

思考の柔軟性は、日々失われ、固定化した視点からでしか世の中を見ることができなくなりつつある。

つい先日も考えたことだが、身近に人生の良きロールモデルたる人がいればいいのだが、なかなか見当たらない。そんな人を探しているうちに、いつの間にか変わることができなくなっているのではないかと、不安を感じる。
それとも、いろいろな人の中に、良い部分を見つけながらも実感できないでいるのかもしれない。

答えを見つけ出すためには、人生はあまりにも短いが、答えなど探さずに生きれば、人生は案外ちょうどいい長さなのかもしれない。

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しまった!忘れてた。

2012年05月28日 | 家族のこと
朝、歩きながら小説を読んでいたら、新婚の主人公が仕事で忙しく、新妻の誕生日をろくに祝ってあげられなかったことを嘆いている場面があった。

そこで、思い出した。

しまった!今日は妻の誕生日だった。



その日になってから慌てなくてもいいように、誕生日プレゼントは先週から用意し、息子の部屋に隠していたのに、その誕生日当日の朝、今夜の食事の相談どころか、『誕生日おめでとう!』の一言も言わず、いつもの月曜日の朝通りに出てきてしまった。
自転車で自宅前の坂道を猛スピードで下っていく私の背中を見て、妻はどう思っただろう。
新婚でなくても、連れ合いの誕生日くらい、覚えていなくてはいけない。

なんで忘れたかって?おそらくはいつもより一時間も早く目が覚めてしまうほど気合いが入っていたせいだろうと思う。今週から、心機一転頑張ろうと思い、今日、仕事に行ったらどうしよう、こうしようなどと考えていた。そうしたら、肝心のことを忘れてしまった。
この小説、ちょっと、はずれだと思いながらも、なんとなく先も気になり、とにかく早いとこ読み終えようと、大切な朝のぼんやり歩きの時間に、ほめられたことではないが、歩きながらまでして読んでいたのだが、こんな形で私を助けてくれるとは思わなかった。
下手をすれば、昼ぐらいまで、いや一日中忘れていたかもしれない。

さてどうしたものか、と悩んだが、さっさと謝ったほうがいいだろうと思い、病院手前の公園まで来たところで、妻に電話をしてお祝いを伝え、忘れていたことを詫びた。
電話口で妻は笑っていた。


午後の大雨には驚いたが、帰る時分にはすっかりやんだ。

ネットで探した職場近くのケーキ屋に注文しておいたバースデイケーキも、帰りがけに無事受け取った。
カンファレンスが終わる時間を見越したかのように、娘から「ケーキ覚えてる?」の確認の電話がきた。もちろん、返事は「うん、大丈夫」だった。
あとは、横須賀線でケーキが潰されないよう、気をつけて帰りさえすればいい。ただ、隠し場所がわからないので、プレゼントは、息子が塾から帰ってくるまで渡すことはできない。



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独身ぽさ

2012年05月27日 | 日々思うこと、考えること
スーパーのレジに並んでいると、前の人の買っている品物が見える。その品物の内容から、その人の暮らしぶりを想像してしまうことがある。


妻と娘は女子バレーの応援、息子は朝から模試に行って、私は犬たちと留守番。
昼になって、逗子ハイランドの西友に買い物に出かけた。
そこで買ったのが、発泡酒、ノンアルコールビールに歯ブラシ、洗顔石鹸。
レジに並んでいて、ふと思ったのが、この品物たちのチョイス、独身ぽい買い物だなということ。最近はおひとり様用の品物も多いので、イコールおひとり様とすぐわかることが多いが、品物の偏りからも独身であることがうかがえることがある。

こういうのはある意味偏見だが、50がらみのオヤジが日曜日の昼に、歯ブラシやら、歯磨き粉を酒と一緒に買っているなどというのは、ちょっと物悲しい。

などと思っていたら、浄明寺に住んでいる子供達の同級生のお父さんが西友に入ってきた、声をかけたが、こちらには気がついてもらえなかった。彼は、何を買ったのだろう。

結局のところ、誰が何を買おうが、まあ、どうでもいい。

さて、5月は結局立ち直れず、土日の大部分は庭いじりと読書に使ってしまい、一度も(休日)出勤できなかった(平日は、もちろん、普通に仕事に行っています)。

来週末はもう6月。
明日から、再起動、といきたい。


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引き分けの論理

2012年05月26日 | 日本のこと、世界のこと
 柔道家の山下泰裕氏が、北方領土問題についてのロシアのプーチン大統領の「引き分け」発言を評価していた。
 この問題に関して、私なりの解決案などというものはない。私が生まれた時には既に存在していた問題で、「日本の領土だったけど、戦争に負けてソ連に占領された場所」という認識でこれまで過ごしてきた。アメリカが沖縄を返還したこともあって、ソ連も同様に返還してくれまいか、と思ったが、なかなかそうもいかない。それに、返還されたといっても、沖縄にも深刻な問題がいまだにある。北方領土問題にしても、沖縄問題にしてもそれぞれの問題の明確な解決策というのは、おそらくないだろう。アメリカにしても、ロシアにしても立場が違えば、ものごとの見方は日本とは真逆になる。

 そこで「引き分け」。何をもって「引き分け」とするかは、これまた難しいことだろうが、「引き分け」という決着があってもいいのではないかと、私も思う。

 山下氏は柔道を通じてプーチン大統領と知己であるようで、その「引き分け」発言を評価しているようだ。山下氏と言えば、1980年のモスクワオリンピック日本不参加の最大の被害者の一人であるといっていいだろう。当時、誰もが疑わない最強の柔道選手であり、その頃の日本国民の英雄であった。その英雄が、テレビで涙したのを高校生だった私はよく覚えている。

 だから、「引き分け」なのかもしれない。

 結局のところ、モスクワオリンピックに西側諸国が参加しなかった理由(ソ連のアフガン侵攻)も、いまでは多くの人が忘れているし、その効果もわからない。ロサンゼルスオリンピックに東側諸国が参加しなかったことと合わせ、少なくとも、オリンピックが多分に政治的なものであるということが世界中の人に認識されただけだ。外交上の勝ち負けということばかりにこだわっていたら、いつまでもケリがつかない。

 そろそろ、「決着を着ける」ということにこだわるのはやめてもいいのではないか。
 なんとなく、居心地が悪くても、それが、「引き分けのせい」とわかっていれば、居心地はよくなる。
 領土問題は、国家存続の最重要事項であるが、先の大戦の負の遺産からの脱却を目指すためには、一部「引き分け」という論理もあるのかと思う。

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クレンメルで指を切った

2012年05月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

 クレンメルで右手の薬指の腹を切ってしまった。

 病理医は手術で摘出された臓器の切り出しや病理解剖で、ほぼ毎日刃物を振り回しているので、針刺し事故のような事故を起こすことがまれにある。だが、私の”事故”はそういった刃物とは無縁の、意外なことだった。おそらく、配布された資料のプリントの紙で指を切るというよりも。

 顕微鏡で標本を観察する時の基本は、スライドガラスを汚さないように、中央の組織が載せられている部分を触らないことだ。さらには、ほかのガラス面もなるべく触らず、病理の番号やら、患者の氏名や識別番号が記載されている紙の部分を持って、顕微鏡のステージに置く。

 

 

 このとき、標本をおさえている蟹爪の様になっている銀色の器具をクレンメルという。クレンメルの名前は、病理医でも知らない人が多く、「標本をおさえるやつ/はさむやつ」とか、「ステージの上のアレ」とか、そんな呼び方をしている。そんなわけで、ちょっとえらそうにしている病理医がいるとわざとこの名前を出して試し、知らないと心の中でちょっと喜ぶ。

 で、どうやって、指の腹を切ってしまったかと言うと、こういう感じで、クレンメルを薬指でどかしながら標本をセットしたときに、切ってしまったようだ。

 

 

 切った時は、血も出ないような、わずかな傷であったのだが、どうも気になる。標本をセットする時はもとより、診断書を書くのにキーボードを叩く時もシクシクする。ほんの小さなとげが刺さったようで、それが抜けないという感じが続いて、うっとうしくなる。プリントの紙で手を切ったところが、たまたま標本をセットするときに使う指の場所だったという感じだ。

 その、肉眼的には見ることのできないほどの小さな傷がふたたびクレンメルに当たらないよう、右手で標本を持ってセットするのが面倒になってしまった。代わりに、左手で標本のラベルのところを持って、右手でクレンメルを押しのけてセットすればいいのだが、標本の向きが変わると上下が変わってしまうので、左手でガラスの端っこをつまむように持ち、スライドガラスでクレンメルを押し上げながらセットすることにした。ガラスが多少汚れるが、致し方ない。

 標本一枚用のクレンメルもあるのだが、これだと標本を一度に二枚載せられず、少々使い勝手が悪い。一枚用のクレンメルを使っていたこともあったが、追加の染色が多くなってきたので、いまではもっぱら二枚用しか使っていない。


 顕微鏡というのは性能が上がっている割に、スマホやテレビ・ビデオのように訳の分からない機能が付加されておらず、その目的は標本を観察するだけだという点で、興味深い製品である。

 

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自然な光

2012年05月24日 | 日々思うこと、考えること
なにをもって、自然な光というのか。
基本的には太陽光をもってそういうのであろうが、火の灯りは自然ではないのか、というと難しい。
人類は短期間のうちに沢山の種類の光を手に入れた。

勤務先の病院の医局の照明の入れ替えが行われている。従来の蛍光灯から、LED蛍光灯に変えるようだ。
私のいるブースの上はすでにLED蛍光灯に変わっている。変わった当初はなんだか、紫色っぽい白、というか、おかしな気分だったか、じきに慣れてしまい、今ではなんとも思わない。

医局はとても広く、半分はまだ従来の蛍光灯を使用している。まだ使えるので、そうしているのだろう。そちら半分はなんだか黄色っぽい。

手洗いはまだ従来の蛍光灯なのだろうか、色が黄色っぽい。
廊下もまだ、従来の蛍光灯のようだ。

こうなってくると、どういう光が“自然”であるのかよくわからなくなってくる。
現代の日本人の多くは分娩室で生まれるはずなので、はじめに見る光のほとんどは、人工灯の光であるはずだ。それも、蛍光灯。そのうち、LED蛍光灯になっていくのだろう。

私の仕事部屋である、病理診断科の照明は従来の蛍光灯が入っている。幸いにも外に面しているので、太陽光も入ってくるし、ちょっと離れたところにある、いつもの公園の緑も見える。

太陽光は朝、黄色がかっているが、昼間は真っ白、そして夕方赤くなって、沈む。
病理診断でも光量をいろいろに調節して診断することがある。そもそも色の着いていない組織に色を着けて、診断をするが、この場合、自然光というものを規定することは困難だ。
顕微鏡の光源にも近頃LEDが使われるようになってきた。真っ白すぎるような気がしたが、慣れれば、今使っている、白熱灯のものよりも視認性が上がるかもしれない。それで、診断能力も上がるのであれば、すぐにでも更新するのだが・・・(実際は、予算の都合上困難)。
それに、この程度(光源が白熱灯か、LEDであるか)の違いは、弘法筆を選ばずの範疇のようである。

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私の方こそ嫌なことをしている

2012年05月22日 | 通勤・交通・旅行
通勤途中、三度も嫌なことがあった。
”あった”というよりは、嫌なことを人にしてしまった、というほうが正しい。

一つは電車で座ろうとしていた人がいた席にそうとは気づかず、自分が座ってしまった。朝の椅子とリゲームで、タイミングが悪かったと言えばそれまでなのだが、さぞ嫌な気分がしただろう。その人も無事別の場所に座れたのでよかった。降り際にでも謝ればよかったが、最後まで会釈一つで着なかった。
もう一度はコンコースを歩いている時に、前を歩いている女子学生の靴のかかとを踏んでしまった。それほど、ちんたら歩いていたわけでもなく、私もちょっと急いでいただけだったのだが、軽く踏んでしまった。学生さんには一瞥されたが、謝るタイミングが掴めず、そのまま立ち去ってしまった。
最後は、道路を歩いているとき。制限速度30キロの道路を50キロくらいで走ってきた車がいたので、迷惑顔で運転手を睨みつけたら、病院の顔見知りの職員だった。相手も相手だが、目くじらを立てて睨みつける方も上品ではない。

あれ?何やっているんだろう?早く謝らなくちゃ!と思っているうちに何もできない。
気がついただけでこうなんだから、そうでなければこの10倍くらいは、なんだかんだで目障りなことをしているのではないだろうか。

世の中の身に降りかかることにあれこれ文句ばかり言っていていながら、実際のところはこんなもの。どうみても私の方こそ周りに迷惑をかけている。

いつも、穏やかで、優しい気持ちで過ごし、そして、周りに迷惑をかけず、静かに生きていけたらいいのだが、なかなか難しい。
一日中、そんなことばかり考えて過ごしてしまった。


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追い越し時にトラブルか=渋谷駅刺傷事件―警視庁
時事通信2012年5月22日(火)05:27
 東京都渋谷区の東京メトロ渋谷駅で、男性が男に脇腹などを刺され重傷を負った事件で、男がエスカレーター上で男性を追い越す際にトラブルになったとみられることが22日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁捜査1課は構内の防犯ビデオを解析するなどして逃走経路の割り出しを急いでいる。
 捜査関係者によると、男性は地下4階から同5階の副都心線ホームに下るエスカレーター上で、隣り合った男と言い合いになった後、いきなり殴られて刃物で脇腹などを刺された。
 男性がエスカレーター左側に乗った直後、男が後方から右側に乗り込んだといい、男が追い越す際にトラブルになったとみられる。
 男はホーム上を移動して階段などを使って上の階に逃走したとみられ、同課が行方を追っている。 

人間にあって、人間以外の動物にないもの

2012年05月21日 | 生き方について考える


乱暴な言い方だが、デカルト的自然観に立つと動物に感情は無いらしい。
だが、フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩好きは、見ればわかるし、夜、クレート(室内用の犬小屋)に入れられるのは嫌がる。
犬だって、好きなことは好きだし、嫌いなことは嫌い。
人間的な感情は無いが、動物なりの感情はある。

毎朝山から聞こえてくるシジュウカラ、ウグイスさらにはカラスの会話を聞けば、イルカでなくても動物同士が情報交換をしていることもわかる。

人間にわからない方法で行っているだけのこと。

この世で起きているありとあらゆる事象は人間が、人間の思考、言語で語っていることであり、人間がこの地球上での標準的な生物であるという前提で行っている。
そんな調子だから、自然破壊がおこり、結局はしっぺ返しが自身に来る。
話がそれたが、一面的な見方は、何が相手であっても厳に慎まなくてはならない。

人間にあって、人間以外の動物に無いものが一つだけある。
それは“好奇心”ではないか。

もちろん、人間以外の動物にも危険を回避するために、何らかの危険予知のための行動がある。
だが、犬が歩き回るのは、基本的には餌や安全な場所を探すためで、散歩もその延長であり、欲求がかなえられて犬は嬉しい。

人間の好奇心というのは、こういったものとは異質のものだ。
探検家は、領土拡大のためだけに世界各地をくまなく探したわけではないだろうし、多くの科学者は兵器を作るために研究をしているわけではない。
地球の成り立ちを知るために、ハヤブサをイトカワまで飛ばすのは、人間の好奇心のなせる技だ。

人間の好奇心こそが、人間以外の動物との違いを規定しているように思う。
それとも、結局のところ、好奇心も人の衣食住の安心を求めることの延長であり、突き詰めて言えば、人間以外の動物と変わるところは無いだろうか。

日食をみて、あれこれ考えるのは人間だけなのは、確かだと思うのだが。
それとも、日食メガネさえあれば、辺りが急に暗くなって不安になったら、ナイトも確認のために、太陽を見ただろうか。
日食に際し、動物の動きを観察する研究があったようだが、結果はどうなるだろう。

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鎌倉が世界遺産を目指すのであれば

2012年05月20日 | 鎌倉暮らし

今年の大型連休に関連して、鎌倉が世界遺産を目指しているのであれば、という意見がリンク先のブログにあったので、あらためて、鎌倉の世界遺産登録について私なりに考えてみた。

このブログ(こんきも)でも、4年前から鎌倉の世界遺産登録について考えていた。このときは、喫煙所の問題。このころよりは、喫煙に関する環境はずいぶん改善されたが、それでもまだまだ。禁煙の表示は誰にでもわかるように立看板にすべきだ。

次は、3年前。京都との比較。京都は、市全体で歴史を保存していることがよくわかる。
京都は古い建物を大切に残しているが、鎌倉はどうだろう。旧家の保存など、個人レベルの保存には限界がある。市、県、国レベルで歴史を残す努力をしなくてはいけない。
新しい建物にも気を使ってもらいたい。今度の鎌倉警察の建物はどうなるだろう。

日光とも比べているが、日光は本当に緑が豊かな町だ。そのなかに世界遺産の寺社が点在している。緑を守っているということがよくわかる。それに対して、鎌倉市には緑を守ろうという意識があるのか不安になる。新しい家ができるのは仕方がないとして、そういった家の緑化がほとんどされていない。鎌倉市には「鎌倉市緑の保全及び創造に関する条例(平成9年7月4日)」というのがあるが、きちんと遵守して緑を守り、増やしてほしい。
経済的理由で緑化ができない世帯には市が何らかの形で緑をあっせんしてもいいと思う。

次は、鎌倉の人口密集への危惧。休日の鎌倉(平日を知らないだけだが…)は人でごった返す。この記事を書こうと思ったきっかけになったブログの記事(コメント)に、鎌倉市の景観保存と観光客対策についての意見があった。鎌倉に住んでいると、景観保存にばかり目が行くが、観光客対策についても十分考えないとならない。
   

まず、休憩所が少ない。無料の休憩所を今の20倍くらい設置するべきだ。マナーの悪い人がいるのが常であり、残念だが、維持には市の内外から清掃のボランティアを集めるしかあるまい。災害時の対策も、もっと具体的にするべきだ。ある程度の高さがあって広い場所と言えば、附属(横浜国立大学人間教育科学部附属小学校、中学校)の校庭くらいしかない。あそこも、標高は15メートルほどなので、実際は、二小二中御成中まで上がらないといけないが、ああいった施設に観光客向けの備蓄物資はあるのだろうか。観光客で潤っている、JR、江ノ電、京急などと連携して対策を練ってほしい。

鎌倉育ちの妻に言わせると、鎌倉がいいところである証は、来ている人皆がにこにこしていることだそうだ。誰も、つまらないところに来て笑顔にはならない。その笑顔は必ず持ち帰ってもらわなくてはならない。

ほかにもまだまだたくさんあるし、ご意見も多くあろう。でも、今日はせっかくのいい天気。薄曇りで湿度も低い。オンコールだが、病院からの呼び出しもない。ナイトの朝の散歩だけではもったいないので、妻と出かけようと思うので、続きは、また別の記事で。



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空き家となった公務員宿舎

2012年05月19日 | 日々思うこと、考えること
通勤途中に、公務員宿舎がある。公務員バッシングが始まった数年前から、表札も無くなっているが、ここはたしかに公務員宿舎だった。

この4月に入り、あれ?なにかへんだな?と思っていたら、もぬけの殻になっていた。引っ越しなどしていたのだろうか。

この宿舎、広い敷地に立派な桜の木が、表通りと庭側とに、合わせて10本以上植わっている。今年の春も目を楽しませてくれた。


公務員宿舎といえば、安い賃料で入れるということでずいぶんと文句を言われていた。ここにしても、都内では環境のいい部類の場所に駐車場付きで安く入れてうらやましいと思っていた。小さい子供などもいたから、家族宿舎だったのだろうか。
それにしても、跡形もなく、人が消えた。
庭木の手入れをする人もなく、雑草がずいぶんと目立ってきた。

昔だったら、公務員宿舎と言えばステータスの象徴でもあったろう。まさか、イタズラ、ビラまきの被害に遭うからといって、表札までなくなるとは思いもよらなかったろう。

だが、埼玉朝霞の公務員宿舎の問題などは、結局のところ総理大臣が交代したらいつのまにか再開されるだろうし、代議士の宿舎はなんだかんだ言って、”超”優遇されている。
ああまでする必要があるのかと思う。

結局のところ、自分の目線からしか物事を考えない人が、国政を担ってきたつけが、さまざまな形で、私たちに押し付けられている。

私としては、来年の春も、あの桜をすべて見たいと思っているが、はたして、どうなるだろう。民間にでも譲渡されてすべて切り倒されでもしたらと思うと、気が気でない。


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薔薇(バラ)の季節 Season of roses

2012年05月18日 | 通勤・交通・旅行
「薔薇(バラ)の季節」といっても深い意味はない・・・。

花壇の話でも同じようなことを書いたが、これまで庭先の薔薇など意識してみたことなどなかった。だが、今年は薔薇の花がずいぶん気になる。涼風真世のファンというわけではないのだが、日曜朝の趣味の園芸(NHK)でも薔薇の育て方をやっているのを妻と一緒に観ていたというのもある。


気になって薔薇を探してみると、ずいぶんと多くの家で薔薇を美しく咲かせていることを知った。毎朝、駅から病院まで40分足らず歩くが、その間に綺麗な薔薇がたくさんある。

そもそも、鉢植えでこんなに綺麗に育てられるということ自体、知らなかった。というか、意識しないでいた。鉢植えならば、それほど場所をとることもないので、今度、私も挑戦してみたいと思った。そもそも、コンパクトでいい(始めだけ?)。
  

こんなふうに、生け垣として咲かせられるようになるには、何年くらいかかるのだろう。
”上手に咲かせる”というのは、さぞかし大変なことだ。

今朝は、明け方に降った雨のしずくが残り、しっとりしてとても美しかった。

病院の手前の公園の中にあるバラ園の薔薇は、今日も美しく咲いていた。深紅の薔薇、黄色い薔薇、香りが辺りに満ちている。
  

ここの薔薇は10月にも咲くが、今の時期の方が葉の量も多く、生き生きとしている。去年の写真を見ると、どうやら今年の方が美しい。
私がこのバラ園で一番気に入っているところは、薔薇の名前がなく(どこかにあるのかもしれないが、気がつくようなところにはない)、ただ、こういったお知らせがあるだけ、という渋いところである。さすが、プロと言うか、愛想がない。


ちなみに、わが家はモッコウバラを生け垣にしている。黄モッコウバラと、白モッコウバラが植わっている。今、たくさんの花がついていて、これはこれで美しい。


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花壇の植え替え

2012年05月17日 | 通勤・交通・旅行
勤務先の病院の手前の公園の花壇。冬の寒い間もずいぶん目を楽しませてくれた。

   

公園の花壇の手入れ、というのはとても楽しそうだ。自宅の猫の額ほどの花壇でも、手入れをしていると、他所のこういうものに興味がいくようになるのだろうか。それにしても、これほど大きな花壇の手入れ、仕事であってもさぞかし楽しかろう。
   

花の名前にしても以前は、パンジーと葉牡丹くらいしか知らなかったが(結婚前はパンジーしか知らなかった)、今年はムルチコーレを覚えた(すぐに忘れてしまいそうだけど・・・)。


花々も伸びきってしまったと思っていた矢先、一昨日、全部抜かれていた。
   

もう、綺麗さっぱり、何もない。こういうところは、プロの仕事であるとしか、いいようがない。こういう時は、こうするものなのだろう。

次は何を植えてくれるのかを楽しみにしたい。夏から秋は、どんな花なのだろう。
この年になって、新しいことに興味が湧くわけがないと思っていたが、もしかすると、コロ健、花好きになってきたのかもしれない。
そう思うと、とても嬉しい。

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嫌なことがあったときは、鏡に自分を映してみればいい。

2012年05月16日 | 生き方について考える
少し嫌なことがあった。
これまでの私(コロ健)であったら、例によってしばらくの間、クヨクヨして思い悩んでいただろう。
ところが、今回は違った。嫌なことがあったらどうすればいいのか、気がついた。

鏡に自分を映してみた。
鏡でなくても、体が映し出されるものであれば電車の窓、ショウウィンドウ、何でもいい。
ただ、全身が映し出されるものでないといけない。

そこには自分が映っている。そこに映し出されている自分と、嫌なことの起こる前の自分の間にどれほどの違いがあるだろうか。
そう、嫌なことがあったからといって、個体としての人間に、それほどの違いは生じないのだ。

そのことに、気がついたら、「嫌なこと」を考える自分がばかばかしくなった。
おそらく、これというのは自分を「客観視」する、という作業なのだろう。

これが、上手にできるようになれば、何も実際に映し出されるものがなくてもよく、頭の中で自分を遠くから眺めてみればいい。何があっても、少々のことで“自分”は変わったりしないのだ。

映画やドラマで、主人公が洗面所で顔を洗ったあと、「私(俺)、なにやってんだろう」みたいなシーンがあるが、顔のアップを自分でみるのはあまり効果がないように思う。顔だけだと結局のところ自分の目と目が合ってしまうので、客観視が上手にできない。上手くやるには、ほかの人も映り込んでいるくらいの方がいい。映画で言えば、主人公がBGMだけで街なかのいろいろなところを歩いているシーン、みたいな感じである。

そして、もちろん、主人公とは、私たち一人一人である。


ところで、こんなことを思い至るきっかけとなった「嫌なこと」とは何であったか。
私(コロ健)を鏡に映してみたら、すっかり忘れてしまった。

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