こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

いい加減変わりませんかね。

2021年03月31日 | 日々思うこと、考えること
ここ数日、夜明けの空は毎朝同じようで区別がつかないが、時間は徐々に早まっていて、実は少しずつ変化している。寒さは和らいで、少しだけひんやりした空気は体を気持ちよく目覚めさせてくれる。新聞を取りにでたついでに庭の草木の写真を少し撮って回った。すべてが少しずつ変わっている。
いつも思うが、モミジの葉は天ぷらにして食べてしまいたい可愛らしさ。ブルーベリーも小さな白い花をたくさんつけた。このあと実をつけるがあらかたリスに食われてしまうのだろうと思うとそれがちょっと残念だ。あいつら、少しは残しておけばいいものをことごとく食い尽くすので本当に困ってしまう。
新緑は新たな命を感じさせてくれるが、なんということはない、木々が夏にかけて一斉に成長していくための変化がまた始まったというだけと考えたら、当たり前のことだ。人間もそんなように劇的に姿を変えながら成長できたら面白いだろうに、それでも日々少しずつ変化していく。今日で退職、異動、そんな人が職場にも街にもたくさんいた。その一方で、油断して変わることを忘れ、旧態然とした姿勢のままでいたりする人もいる。

コロナ禍で劇的に世界が変貌しているのに変わろうとしない人たち、とくに政治家と官僚には本当に困ったものだ。彼らには自分たちの行動が社会に不利益を与えているかもしれないという謙虚さはないのだろうか。自分はそんなことに与してなどいないと言いはる人もいるだろうが、その集団の中にそういう人がいるということは自浄作用が働いていないということ。自分たちの社会的な責任を考え、特権意識を捨て去るというように変化して欲しい。
宴会やって更迭とは

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世界の未来は黄砂にまみれ

2021年03月30日 | 日本のこと、世界のこと
 黄砂がずいぶんやってくるようで、予報では関東地方を除いて日本中が黄色く塗られていた。鎌倉の空も春霞であるのか、やっぱり黄砂が混じっているのかよくわからなかった。昼間はずいぶん気温が上がったようだけど、帰りにはそこそこで、夜桜見物でもしていたらやっぱり寒かったのだろうか。

 昨晩、中国のGDPが2030年ごろには米国に追いつきやがては追い越すだろうというニュースを見た。そして、中国は台湾を国の一部にすることを急いでいるということも。日本経済が過去の栄光にあぐらをかいて停滞しているうちにあっという間に中国に追いつかれ追い越されてしまった。これは、その間何もしないでいた政治家、官僚の責任が大きいと思われるし、阪神淡路(平成7年)、東日本(平成23年)という二つの未曾有の大震災に見舞われたという不運も重なった。

 中国が躍進するのは大いに結構なことで、日本経済も中国に負うところが大きいので甘んじてその恩恵を受けるしかあるまい。というよりは、世界中が中国経済なくしては立ち行かなくなりつつある。しかしながら、中国の覇権主義は困る。チベット、香港の問題はおそらく報道されている以上に苛烈なものだろうから、もし日本が中国の支配下になったとしたら大変なことになる。国語は中国語となり、歴史は書き換えられ、同化政策がとられ、そして民主主義が失われる。そんなことになったらと考えるとゾッとする。これは荒唐無稽なことではないと考えられるほど中国の影響力は飛躍的に増大している。

 想定の範囲、なんて言葉はこちらの都合のいい考えでしかなくて、そんな人間が考えたら容易に超えられる。これからも最悪のことを想定しなくてはいけない。ミャンマーの軍事政権による弾圧も想像を絶するものだし、他の国々に起きている多くの内戦、虐殺もこの島国にいては実感として感じられないだけだ。では、中国が日本に戦争を仕掛けてきたらどうなるかと考えていなくてはなるまい。北条氏は元寇なんて考えていなかっただろうに、攻めてこられた。今の世の中、神風が吹くということなどありえない。米国はしょせん太平洋の遠くにあって、日本をどこまで助けてくれるかなどわからない。

 日本を取り巻く情勢は黄砂の嵐の中にあって、今見えているものが本当のものなのかも不確かだ。この国は、国民はそんな覚悟を持って生きていく必要がある。
危機意識を持とう

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それぞれの人のそれぞれの人の言い分

2021年03月29日 | 自然災害・事故・感染症
昨日の朝と同じような空模様だが、この雲は夜中の大雨のもので、この雲は出かける頃には取れて青空となった。
昼間の気温は20度を軽く超えたようで、温暖化はとどまるところを知らず、この夏のことを考えると恐ろしくなる。
東京2020は強行突破で行うだろうが、屋外競技の選手たちは気の毒だ。
テレビをつけたら、一足先といった感じで朝の顔のいくつかが変わっていた。
新しい人生があちこちで動き始めている。

関東圏より前に緊急事態宣言を解除した大阪で新型コロナウイルス感染症の再拡大、すなわちリバウンドが起きている。
東京神奈川も早晩これを追うことになるだろう。
ワクチン接種が進んでも感染拡大の歯止めに追いつかないという研究報告も報道されていた。

昨日息子のところに行く前に商業施設で2、3買い物をし、昼食を食べた。
商業施設の人出はものすごく、昼食を食べたレストランは仕切りはあるものの、テーブルの配置は以前と同じ。
そしてアルコールの入った人の大きな話し声が背中越しに聞こえてきた。
困った人たちだと思いながらも、こういうところに出てきている私たち夫婦も感染拡大に寄与しているのだから何も言えないと反省。

私が息子の引越しの手伝いに行くのがいいのか悪いのかわからないが、”手伝いぐらい”、”ちょっと買い物”、こういったところが、どこまで良くてどこからかがいけないのかの線引きは不可能に近い。
自分自身については自己責任で済むかもしれないが、感染症の場合社会的責任も発生してくる。
お年寄りが昼間のカラオケでクラスターを発生させているが、それは寂しいから。
感染したときのことなど想像できないので、カラオケに行く。
飲食店にしても、感染対策はそれなりにしているが、感染者がやってきてウイルスをばらまくのがいけないわけで、食事を作って、飲食をする場を提供しているだけと考えたら今の状況は理不尽なものだ。

政府としては、このままゆるやかに感染拡大させて経済を回していこうということなのだろうか。
休業補償もそんなに続けることはできないからそれも致しかたない。
結局のところ、感染拡大防止を人に頼っていてはダメで、自分がかからないように注意深く生活するしかないということか。
電車も混んでるし

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大雨と引越しの手伝い

2021年03月28日 | 鎌倉暮らし
昼前から大雨になるというので、朝のうちに花見の散歩。
朝の8時過ぎというのに、鎌倉は結構な人出で驚いた。近所の人が多いのだろうけど、けっこう遠くからやってきたような格好の人も少なくないようだった。
鶴岡八幡宮の参道である段葛の桜はもう、ずいぶん育って花でアーチができるようになった。源平池の桜はいつも通り見事なもので、小さな花筏ができ始めている。
午後は、息子夫婦の引越しの手伝い。新婚1年間別居だったがやっと一緒に暮らせるようになった。2人がIKEAで選んだ洋服ダンスの組み立てを手伝ってくれというので、ドライブがてら昼から降り出した大雨の中、都内へ。
部屋の電気がついていなくて、最後の方は暗闇の中でスマホのライトを頼みにやった。少々目が疲れたが、久しぶりに親子でこういうことをするというのもいいものだ。
忙しくなるみたい

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ウェブ会議、ウェブ学会

2021年03月27日 | 電脳化社会
朝からいい天気で鎌倉はたいへんな人出。妻が息子の引越しの手伝いにいくのを駅まで車で送ったついでに段葛を走ったら、桜は満開。明日は大雨とのことなので、少し散歩したかったが、その時間はなかった。
というのもお昼からウェビナーを使っての学会。自宅からの参加で夕刻までしっかり勉強。人が集まる学会が相変わらずできないので、こういう形がしばらく続くだろう。今日は出番もなくドキドキしないで落ち着いていい勉強ができた。
ところで昨日はこの学会の世話人会というのがあって、それはズームでのウェブ会議。1時間の予定と聞いていたのだが、あれこれ話が出てきて2時間半。遠距離通勤の身としては少々辛い延長だった。このウェブ会議、いろいろなところから参加できるのはいいのだけど、まったりしている人もいれば昨夜の私のように時間に余裕のない人もいる。対面で行えば、集合解散はある程度きちんとできるが、ウェブだとそうもいかない、一長一短だ。とはいえ、今の所ベネフィットが上回っていると思う。
というのも、自宅から参加できるというのは経済的にはもちろん助かるし、体も休まる。講演をリラックスして聞くことができるというのもいいものだ。この流れは加速していくだろうし、もっと慣れていかなくてはなるまい。
今のところあったことのある人同士なのでいいが、そのうちウェブでしかあったことのない人というのが出てくる。そうなった時に信頼関係を作ることができるか。そして、会ったことのある人でもだんだん顔を忘れ始めている。それに顔を出さない人もいる。さすがに2、3年会わないでいたら浦島太郎のようなことになってしまいそうで、ちょっと心配だ。
ある意味タイムトラベル

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変わらない私の周りの世界が変わってきた

2021年03月26日 | 生き方について考える
異動のお知らせがあちこちの部署から回ってくる季節になった。見たことのない名前の方ばかりだが、こんなにも多くの人が人生の転機を迎えるのかと思うと感慨深い。テレビでもアナウンサーやお天気キャスターが”卒業”という言葉で辞めていく。当たり前のように同じ時間に見ていたこの顔が来週からは消えてなくなるのかと思うと不思議な思いがする。

卒業とは基本的に学校の過程の修了を意味するから、いい大人の人事異動をこのように使うのは誤用で違和感は拭えないが、NHKですらこの言葉を使うようになったということを考えるとそのうち、”卒業”にたいして、

「転じて、それまでの役割を終えること、または異動・退職すること」

などという意味が与えられるかもしれない。
それにしても、「4月からは〇〇を担当します」なんていう、配置換えとしての正社員のアナウンサーの卒業はいいとして、4月からどこへ行くのかわからないような方のお別れの言葉は寂しい。

50代になって配置換えや3度の転職をしたということを思い返すと自分もそこそこ転職慣れしているほうだろう。この歳になると、若手が修行として数年単位であちこち動くのとはワケが違う。まあ、転職といってもある意味小さな世界で所属が変わるというだけのことで、たとえばプロ野球選手の所属球団が変わるのとあまり違いはないのかもしれない。

私(コロ健)自身は全く同じ人間であるのはこのブログを日々書き連ねていることから明白だ。その私が外の世界で置かれている環境が変化していく、ということはとても興味深いことだ。全てが変わったようでいて、実は自分は変わっていない。そう考えると異動などということが本当の意味で人間そのものに影響を与えることではないと解る。だから、居場所が変わるということぐらいで一喜一憂する必要はない。確固とした自分の存在を確認するのに、このブログというのはいいものだ。

今の自分があるのは長らくいた職場での実績に負うところが大きいが、その職場を退職した時は送別会などなかった。だからなんだったというのだろう、その日のエントリーを読むと新たな希望を胸に一歩を踏み出していた。何歳になってもスタートはできる。そののちお世話になった2施設での経験はある意味それまでよりもよほど貴重なもので、それらの施設の上司や同僚には感謝の念しか出てこない。自分の幸運に感謝する。
その前の施設をやめた日のエントリーのタイトルは”人生に正解はない、でも不正解はある”。いったいどのような気持ちで書いたのだろう。今となってはもう忘れてしまった。

私は私

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私が悩みを打ち明ける人

2021年03月25日 | 生き方について考える
山の桜が満開となった。木々の梢には緑が芽吹き始め、小鳥たちのさえずりも急に賑やかになったようだ。電車からは線路沿いに1本だけ取り残されたように咲く桜が一生懸命に咲いている。その手前の群生する菜の花の黄色も美しい。多くの命が春の訪れとともに新たに動き出す。

1日が始まる。

日課となっているブログのエントリー、今日は何を書こうか考える。いろいろな思いが浮かんでは消える。このことを書こう、あんなことを書こう、とあれこれテーマは出てくるが、このことを書いたらこのことがあるからダメ、あのことを書こうと思ってもこれが妨げ、そんなこんなで思いつくことのほとんどは没となる。まあ、どれもこれもしょうもないことだということだ。多少洒落たことを書こうと思っても、インスタじゃあるまいし、そんな歳かと今度は自分が邪魔になる。ならば、プライベートのこと仕事のことも写真も一切書かなきゃいいし載せなきゃいい、となったらそれこそ何も無くなってしまう。

今の悩みを吐露したとして、私にとってそれは露悪趣味であり、読む人の共感を得ることはかえって難しい。それでも毎日たくさんの悩みが浮かんでくる。コロナ禍で他人と感情を共有する機会が極端に減り、私が悩みを打ち明けることができる相手は限られている。

その相手とはもちろん妻、そして、このブログを読んでくださっている方。妻はほぼ素の私と相対してくれるが、逆に私という実在を前にすることでかえって目が曇ることもあるだろう。ブログを読んでくださっている方は私の姿形を知らないことでそれぞれが有形無形のイメージを持ってくださっているだろう。私もその方達のことはほとんど知らない。ブロ友さんであれば、その方のブログを読み、どのような考え方の持ち主であるかをなんとなく思うことができるが、ブロ友でもないと何もわからない。そういう方たちに向かっても私は愚にもつかない悩みを打ち明けているということになる。

そもそも、悩みとは一体なんなのだろうか。私の悩みとは私の中で生み出され、解決できないがために身体症状として出現するもので、自分で生み出さなければ悩みとはならない。ならば何も考えずにじっとしていたらそれで済むのかというとそんなことはなくて、生きていると次から次へとそれを遮ろうとする障壁が出現してくる。生きるということは全く思い通りにいかないものだ。

ありがたいのは、こうやって生きることに煮詰まってくると、誰かが救いの手を差し伸べてくださるということがこれまで何度もあった。

「またコロ健のやつ、煮詰まってるよ、しょうがないコメント入れて元気出してあげるか。」

ぐらいに思っている方がほとんどかもしれないが、私としてはともに考えているぐらいのつもりでいる。何はともあれ、そんな多くの方につまらない悩みを日々打ち明けながら今日も生きる。
明日も悩む?

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ワクチンロスは絶対起こすな

2021年03月24日 | 自然災害・事故・感染症
少し肌寒いが、穏やかな朝だった。昼は春本番の暖かさになったらしい。仕事を終えて病院を出ると、ほんの少し暖かさが残っていた。ほんの2、3日でも、いい天気が続くと、そのありがたみを忘れてしまう。そんなことのないように、今日の陽光、今日の健康に感謝して過ごしたい。

今日の朝刊の投書欄に、新型コロナウイルスワクチン接種に関する考え方を集めたものがあった。ワクチンに対する不安、”接種”という行為そのものについての考え方など様々で、多くの人がいろいろな考え方を持っているのだなとわかった。そもそも、ワクチンを打たれたとしても、はたしてそれがどれほどの効果のあるものかもわからないのに、あっという間に承認された薬を体に入れることに抵抗のある人は少なくないだろう。それに、アレルギー体質の人は副反応を起こす可能性が高いかもしれないので、余計にナーバスになるのは当然だ。最終的には個々人の判断に委ねられることとなるが、自分で判断できかねるという人は、最も信頼できる人の意見を参考にするしかない。私はそう考える。

ワクチンを接種するかしないかは個々人の問題だが、それより問題となるのは、新型コロナワクチンのワクチンは有り余っているものではないということだ。世界中で接種を希望している人がいる中で、日本がワクチンを余らせるわけにはいかない。作った分はすべてきっちり使い切るつもりでいなくてはいけない。それが国際社会への責任であり、その点は情報公開をきっちりしてほしい。したがって、接種希望調査が来た時点で、接種を見送るとした人は後になって”やっぱり受けたい”というのは基本的にはダメだろう。接種のサイクルが軌道に乗れば、1回目の接種を済ませた人の2回目の接種が始まる。高齢者の中で接種を見送る人がいたら、それだけ下の世代に打つことができる。日本で使わなければ、その分よその国のが増える。1回目の接種を見送った人は、2周目以降の接種となるのを受け入れなくてはなるまい。食品ロスならぬワクチンロスを起こしてはいけないのだ。

昨日の午前、ワクチンを打った。午後になって接種部位(左の肩)の周りに違和感を感じるようになり、夜にはそこそこの痛みとなった。左を下にして眠ることが多いので無事眠れるか心配したが、いつの間にか寝入っていた。今朝、起きたら痛みはずいぶん消えていた。発熱する人がいるということだが、それはなくてよかった。このエントリーは夜になって手直ししているが、接種したところを押すと痛みがある程度で、あと1日ぐらいですっかりおさまるだろう。病院からの副反応の観察期間は7日とされているが、これ以上は何も起こらないでほしいものだ。
ワクチンを打ったからといってマスク生活から解放されるわけではない。そもそも抗体が無事作られるかわからないし、変異株に対しての効果は不明だ。昨日までの生活をまた今日から送るだけのことだ。
ワクチン貧国の自覚をもって

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生きるとは思い通りにならないことばかり

2021年03月23日 | 生き方について考える
久しぶりに美しい夜明けの空をみることができた。いつもこんな風に穏やかな朝がやってきてくれたらいいけれど、そんなことはむしろ少ない。生きていて自分の思い通りに行くことなどまずない、それともこれはただのわがままか。
勇気を奮って行動を起こしても、ほんの次の瞬間にはそれを邪魔することが出現する。永遠に平坦な道など無い。それでも、人間は次の一歩を踏み出さねばならない。生きるとはそういうこと。

  足るを知る

これまでなんども繰り返してきたこの言葉、すぐ忘れてしまう。いつも自覚していたいのに、忘れずにいることは難しい。こうありたい、こうしていたい、といつも心がけているのだが。人間の心というものはとても貧弱で脆い。面倒なこと、余計なことはしたがらない。そしてそれを支えてやることができるのは、最後は自らの心しかない。

遠くの歩道橋を、たくさんの人が渡っている。みなそれぞれ様々のことを考えながら生きているのだろうけど、何を考えているのかは見えない。それでも皆それぞれ生きていく。
生きることは決して楽なことではないけれど、自分に必要なこと、必要なものを知ることで、少しでも楽しいことになるかもしれない。

生きているだけで十分

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ぐるっと回って・・・

2021年03月22日 | 日々思うこと、考えること
 夜来の嵐。朝起きたら雨は降っていなかったが、風はそこそこ吹いていて、今夜はまた雨になるそう。春は天気がめまぐるしく変わる。雨が花粉の飛散を抑えてくれるとありがたいのだけど、効果はわずかで、くしゃみが出る。電車内でくしゃみをするときにはマスクを手で押さえて極力音が出ないようにしているが、自分が期待しているほどの消音効果が得られず、周囲の目が気になる。もうしばらくつらい時期が続く。

 朝食を食べていたら、キッチンで弁当の用意をしてくれていた妻が、

「あら、双子だわ。 ひさしぶり。」

 と嬉しそうに声を上げた。
 
「たまご?」

「そう」

 箸を置いて、妻の持つボウルを覗き込んだら黄身が4個。このうちすこし小ぶりの2個が双子。

 1つの卵からなので、受精していたら1卵性双胎となったかもしれない。ヒトの場合、双胎の頻度は分娩100につきおおよそ1組だが、卵を100個割って1個は双子ということはないので、ニワトリの方が双胎の頻度は低そうだ。ただ、受精したとして卵1個からひよこ2羽は生まれることは可能だろうか。
 
 何はともあれ、茶柱が立ったようで、なんとなく嬉しかった。もちろん、弁当にはその卵を使った玉子焼きが入った。

 昨日、新型コロナウイルス感染症対策の2度目の緊急事態宣言が解除された。テレビニュースでは多くの飲食店が営業を再開するということを盛んに流している。感染症予防対策を行なった上で、というお店の話が取り上げられているものの、十分な対応をしているお店が、どれほどあるのだろうか、心配になる。

 昨日行われた千葉など各地の首長選挙での当選祝いの場面で大声をだして万歳をしているのをみれば、感染対策が形骸化しているのがよくわかる。万歳の映像に続いて、当選した新首長が感染対策がどうのこうのと言うのを聞くと虚しいのを通り越してなんだか可笑しい。花見や歓送迎会は控えてくれと言っているが、果たしてどうなるだろうか。去年はずいぶんいろいろな有名人が花見で非難されていたが、今年はどうなるか。

 1日終わって振り返ってみると、いいことも残念なこともあった。帰りの電車は混んでいた。けっきょくのところ、人生プラスマイナスゼロ。最初出たところに戻ってくるだけのはなし。猫の目と同じ。
夜は眠って、朝また起きる

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東京は厳戒態勢

2021年03月21日 | 日々思うこと、考えること
朝から晩まで大嵐。
東の空の写真を撮るのもためらわれ、定点観察、今日はお休み。
お彼岸のお墓詣りにも行けず。

東京の母に所用があって久しぶりに会った。お昼を一緒に食べて土日は人と話すことがほとんどないというのだが、今日は妻と3人で久しぶりに話しをしたと喜んでいた。

用事を済ませてから、買い物をしようと都心に出かけ、首都高を降りたら、出口で検問をやっている、その外には警察車両がたくさん集まっていた。

妻に「今日はサリンの日?」と言われて、そうだと思い出した。
今日は地下鉄サリン事件が起こってから26年。再度のテロを警戒してのことだろう。
多くの警察車両を目の当たりにしてあの日の恐怖が蘇る。
天変地異はもちろん恐ろしいが、人間はもっと恐ろしい。

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りします。
夜半まで大雨

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1日いろいろあって・・・コロちゃんの足の怪我

2021年03月20日 | 犬との暮らし
マルチーズのコロを抱きながらリードを外そうとしたら嫌がられて指を噛まれてしまった。痛くて落としてしまったら左足を痛そうにしている。慌てて抱き上げて足の後ろを触ったら腱を触れない。アキレス腱でもが切れたかと心配した。
犬猫病院に連れて行って診ていただいたら、骨は折れていなくて、捻挫とのこと。しばらく安静、で様子見。
他にも色々あったのだが、そんなわけで疲れてしまったので、今日のところは失礼します。
コロ、大丈夫?

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怒りの闇がまた爆発・・・まったくダメな私

2021年03月19日 | 生き方について考える
仮に新型コロナウイルスから逃げおおせたとしても、自分の命はそう長くないと思うことがある。このブログでも時々報告してきたことだが、昨日の帰宅時にもトラブルを起こしそうになった。

ホームを歩いていたら歩きながらスマホをいじっていた中年男性が私にぶつかりそうになってきて、邪魔そうに私を一瞥したものだから睨み返した。その御仁、自分の分が悪いと瞬時に悟り、決まりが悪かったのかすぐに視線を逸らせた。それで終わればよかったのだが、次の瞬間今度は目の前に両手でゲームをやりながらチンタラ並んで歩く少年が二人。スポーツクラブの帰りらしく、とても大きな荷物を背負っているものだから通路が塞がり追い越せない。"危ないよ"と後ろから声をかけたら驚いたような、注意されたことがとても意外だという顔をして私の方を振り向いた。少し隙間ができたので、構わずその間を抜けて前に出たら、別(同じグループ)の少年が、やはり同様にゲーム機をいじりながら歩いていて、今度は"ゲームやってんじゃないよ"と言った。その少年も同様に驚いた顔をして私を見上げたがが構わず追い越した。

彼らにしてみたら変なおっさんに文句を言われたという程度でおそらく次の瞬間にはゲームの世界に戻っただけだろう。そうすると、私が言ったこと、行ったことは一見ホーム上でのスマホ操作、ゲーム機操作ということが危険行為とされていることを背景とした怒りの発散ということにすぎなかったのではないかと自己嫌悪に陥ってしまった。怒りの発散とは、自分の邪魔なことに対する気持ちの表れでしかなく、さらに怒るということは気持ちの良いことであり、そんなことをするための行動だったということになるからだ。

スマホの御仁に対しても、スポーツ教室帰りのゲーム少年達に対しても、怒りなど発散せず、ただ単に視線をそらし、ゲーム少年達の後ろを従者よろしく黙々とついていくべきだったのかもしれない。なによりその御仁に殴り返されていたかもしれないし、少年達のオヤジ狩りの対象にされたかもしれない。そもそも私だって、ホームで歩きスマホを一度もやったことなどないとは言えない。まったくダメだ。

後悔先立たずではあるけど、一度口から出たものを引き戻すことはできない。そんなわけで、下手をしたら命が短くなってしまうようなことをしているのだと改めて自覚して、注意深く生きていきたいと、反省する。
マナーの悪い人が多いのも事実かと

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怒りのコントロールは私にとってとても深刻な問題で、これまでにも何度も考えてきましたが、結局こんなでなかなか上手になりません。
ご参考までに。

コロナ禍は裏も表もないために

2021年03月18日 | 自然災害・事故・感染症
 2度目の緊急事態宣言が3月21日に解除される見通しとの発表があり、そのことを見越してのせいか、今朝の電車は混んでいた。感染状況のどの点が好転したから、解除するのかがわからないがとにかくそういうことなのだ。

 緊急事態宣言を解除したら、ただでさえ下げ止まりというよりむしろ増えてきている感染者数に歯止めはかからず、早晩1、000人越えとなる。そうなるといよいよオリンピック・パラリンピックの開催は難しくなる。女性蔑視に感染拡大、そんな国に誰が自国の大事な選手を送ろうとするだろうか。オリンピック・パラリンピック開催に向けて、世界で最も男女同権、差別が無くて、コロナ清浄国、というような国にしようという発想がないこと自体、開催する資格がないというか、そういう当たり前のことがアピールできない政治家たちは馬鹿じゃなかろうかと思う。

 コロナ禍には事実しかないのだ。有効な施策を実行できなければ感染は拡大し、基礎疾患のある人や高齢者は重篤な症状を呈し、亡くなることも少なくない。そういう人を切り捨てたらいいというのは間違っていて、重症患者の治療は、当然行うしか、それが病床の逼迫につながる。やがては国民すべての医療が逼迫することとなって、医療の安全そのものが脅かされる。新型コロナウイルスの感染拡大は抑え込まなくてはならないのだ。

 コロナ禍にはそういった事実しかなく、裏も表もない。機密だのなんだのなどない。あるのは感染者数と死亡者数とベッド数だけで、とても評価しやすい。政治家を評価するにはその結果を持って点数をつけたらいい。現時点での判断が正しいのかどうかはあと2ヶ月後ぐらい、大型連休の頃にはわかるだろう。医療者側も政治家による数のごまかし許さないでほしい。

 医療者と違って政治家はただ単に感染コントロールをどうするかということではなく、そんな中で生活に困窮する人をどうするかということまで行わなくてはならない。そしてこれでまた失敗となったら、現政権の政権担当能力が疑われる。まあ、自民党政権がやってダメなものを、野党がやったところで、大したことはできないだろうから、同じことか。

 コロナ禍は今の世界の矛盾を、洗いざらい掘り返しつつある。それに対してなんとか抗おうとしている人もいないわけではないが、そんなところにはクラスターを発生させて潰していく。ワクチンに生き延びる道を見出そうとしているのかもしれないが、ウイルスの方も変異して生き延びる。理想としては、新型コロナウイルスが感染力を強めることと引き換えに、毒性を弱めてくれるといいのだが、そうそう虫のいい話はないのが世の常だ。

 おととしまでのような世界が戻ってくるということは、少なくとも今回この免疫を獲得する子供たちが大人になるまでの、数十年間はない。コロナ前の生活様式に固執し続ける人はいるだろうが、そういう人たちは感染源としてのグループを形成することとなる。そして、”感染したくない”と当たり前のように口にすることができるようになった人たちと別の世界で生きていかなくてはならなくなり、新たな二極化が進んでいくことになる。
そこに貴賎はなく

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なんのために書くブログ

2021年03月17日 | 電脳化社会
霞みのかかった夜明けの空が気持ちいい。今日は彼岸の入り。妻がお墓の掃除に行ってくれた。週末は天気が崩れるという予報なのがちょっと残念。
3月も半分を過ぎ、学校も休みとなり学生が減り、通勤は多少楽になった。身の回りでも異動が始まり医局にも空席が目立つようになってきた。新型コロナウイルス感染症対策として、入職前2週間の段階で転任先のチェックを受けなくてはならないというところもあるそうで、早い段階で離任した先生もいた。そんなこともあるのか、といったようなことがどんどん増えている。

昨日のようにジェンダーについて書くと色々批判を浴びるのではないかとちょっと心配したが、1日経って、炎上するようなこともなくホッとしている。そんなことが心配ならなにもブログなんて毎日せっせと書く必要はないのかもしれないが、不思議なもので日々飽きもせずに書いている。

誰もいない山奥で木から雪が落ちたときに発生する空気の振動は、聴く人がいなくても音といえるかという問題がある。では、誰にも読んでもらわないブログの記事に意味などあるだろうか。いや、仮に読んでもらったとしても読んだ人の心にほんの小さなさざ波を起こすことすらできないような記事に意味などないのではないか。

ブログでの自分の考えの発信とは、無人島で誰にも読んでもらえないとわかっていても何か記録を残すのとたいして変わらないのではないだろうか。無人島の著者は、それでもいつの日か誰かに読んでもらえると思って書くのだろうか。私が書いているこのブログの記事にしても誰かの目に触れてほしい、そのうちの誰か1人でもいいからその心の琴線に触れてほしい、と思って書いているのだろうか。

人間とは、なぜ、自分の考えたことが人の目に止まってほしいと思うのか、共感してほしいと思うからか。それは、大昔、地上で最も弱い存在であった頃から培われた、自己防衛のための情報共有という本能に由来しているのかもしれない。そしてそれが今や動画サイト、ブログ、SNSその他もろもろのツールをもった電脳化社会で爆発的に開花している、そんな時代私たちは生きているのだなあと思う。
ある意味どうでもいいことを

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