(前回までのあらすじ;85歳の某高齢男性のS状結腸の上皮細胞沢田。限界集落と化した老いゆく肉体の若返りをもくろみ、癌化し再び若い活気ある肉体を手に入れようとした。ちなみにこの方の既往は、子供の頃に脛骨骨折、成人してからは高血圧、糖尿病があり、腎機能はCKD3で、67歳時に前壁梗塞でバイパス手術を受けている。既婚。こども二人。4年前から認知症の症状が出現している。「黄昏の街編」「癌化編」)
下山「沢田のやつ、S状結腸切除で取り切られちまったな。」
横路「そうだね、ラパ(腹腔鏡手術)であっという間だったね。僕ら、ほとんど気がつかなかった。それにしても左半結腸切除にならなくてよかったね。」
下山「まったくだ。そんなことになったらとんだとばっちりだったよ。でもあいつ、俺には迷惑をかけないと言っていたけど、その通りになったな。まずは、作戦成功というところか。」
横路「どういうこと?」
下山「沢田は、この時期に血便を発見させたら、比較的小さなオペになるってわかっていたんだろう。肺転移はまだ見つからないほどだからな。」
横路「そうか、それで、原発巣だけ切らせて、肺転移巣から目を逸らさせる。最初からインオペで化学療法をやられちゃ困るからね。」
下山「多分そうだ。どのみち QOLを上げるためにオペはすることになっただろうけど、それでも、肺の転移巣への備えは多少なりとも遅くなる。それが狙いだったに違いない。」
横路「この先どうなるんだろう」
下山「病理診断で高度の静脈侵襲が見つかるだろうから、担当医もびっくりしているんじゃないか。リンパ節が無事(Ly0)だったぶん余計だろう。これから抗がん剤が入るだろうな。分子標的薬も入るんじゃないのか?」
横路「そうすると、沢田の残した”モンスターの末裔”もだいぶやられるね。」
下山「どうだろう。そうなってくれればいいけど、そもそもこの国自体が老いているからな。体がもつかどうか。感染症もあるし。それに、沢田の言っていた肺に送り込んでいる連中が生き延びたらどうなるか。」
横路「全部を叩くのは難しいからね。あとは、放射線療法か。なかなか大変だね。」
下山「ああ、モグラ叩きだ。心臓の方も大変だっていう話だし、満身創痍だ。認知症もだいぶ進んできているしな。」
横路「治療適応をどう考えるかか。」
下山「これ以上、高額な医療費を投入するか。もう、医療費は国家予算の半分まできているっていう話だ。」
男性はその後、抗がん剤治療を1クール受け、その後5年生きた。最終的には呼吸不全で亡くなった。剖検時、結腸癌の局所再発はなかったが、肺と肝臓には転移が多数あった。癌の転移そのものが死因というよりは、もともと肺気腫があり呼吸機能が低下していたところに、誤嚥性肺炎が加わっての呼吸不全といえるようだった。心臓のバイパス手術のあとのところはとくに問題なく、新たな(心筋)梗塞は起こしていなかった。直接死因は呼吸不全となるが、もう、老衰といってもいい状態だった。少なくともモンスター(沢田)の末裔が死因に直接関わったとは言えなかった。
下山「おお、横路よ、長い間世話になったな。いよいよ、ダメそうだな。」
横路「そうだね。僕ももう疲れたよ。最近じゃあ、流動食の残りばかりで働き甲斐もなかったところだし、お役御免ということでいいよね。」
下山「90年か。沢田が癌化した時にはずいぶんと驚いたが、ああいうやつが出てもおかしくないのかもしれない。私たちみたいにただ死んでいくだけの運命を辿るのか、それともああいう風にもう一花咲かせようという生き方をとるのか。どちらがよかったのかな?
ほら、頭頸部で舌癌とか咽頭癌、食道癌になるやつらは、喫煙がきっかけで癌になるだろう?あいつらは、DNAに傷がつくから、なんて言っているけど、喫煙による攻撃から自分たちを守ろうとしているんだよ。生き延びようとしてかえっておかしなことになっちまうんじゃないのかと思うんだ。
だからさ、沢田も自分の肉体が滅びることを細胞分裂の回数で察知したんだろう。テロメアの長さを見たらすぐにわかるからな。それで、街全体、世界全体の再活性化をしたかったんじゃないのか、って思っていたんだ。まあ、今となっちゃあどうでもいいことだけどな。」
横路「そうか、そうかもしれないね。認知症が始まったころはまだ考える力も残っていたけど、もう今となってはよくわからない。あ、そういえば沢田さんが残したモンスター軍団はあのまま全部やられたのかな。」
下山「さあな。十人二十人は残っていたかもしれないけど、あいつら自身も最初の頃の増殖能はなくなっていたのかもしれない。」
横路「このところ、よく肺炎になるね。この前入り込んできた肺炎球菌は潰せたのかね?敗血症にならなくてよかったよ。」
下山「ああ、まったくだ。敗血症は嫌だな。この間も、変なのがこの辺りをうろついていた。抗がん剤治療の頃は好中球もずいぶん減っちまってもうダメかと思ったけど、よく回復してくれたよ。生き物っていうのはすごいね。」
横路「・・・。心臓が止まるみたいだね。もう、これ以上無理に動かさないでほしいけど。」
下山「延命措置を望んでいる家族がいるんじゃないのか?」
横路「僕自身としては、延命措置はして欲しくないな。静かに死なせてほしい。痛みが無いという条件付きだけど。まあ、粘膜固有層まで神経は来てないから関係ないか。」
下山「そもそも感覚神経が無いけどな。
私もこれ以上はもういい。
長生きすりゃあ、おめでたいと言われていた時代があったらしいが信じられないな。いまじゃあ、長生きこそが人生最大のリスクだなんていわれてるっていうじゃないか。なんかおかしくないか?」
横路「そう思うよ、それぞれの人の生き方と医療レベルが乖離して、治療が個々人の意思に優先されているからね。」
下山「・・・・、あ、心臓が止まったみたいだな。血液が来なくなった。いよいよ終わりか。」
横路「そうみたいだね。下山さん、90年間ありがとう。いろいろ話ができて楽しかったよ。」
下山「そうだな、沢田は切除されちまったけど、それ以外の大腸はみんな残ったからな。直木さんもいい人でよかったし。」
横路「・・・、ああ、そうだったね。・・・さよなら、下山さん。」
下山「ああ、さよなら。そういや、俺たちのクローンがいたはずだけど、どうしてるかな。」
横路「はは、見えないのかい?目の前にいて手を握ってくれているじゃないか。涙まで浮かべてるよ。」
下山「ほんとだ。孫もいる。・・・、幸せだったな、私たちは。」
横路「そう思う。いろいろあったけど、これまでのことを変えることはできないけど、今こうして幸せだと感じることができるということが何よりだよ。これまで、善く生きてきてよかったよ。」
下山「春か、外は花がたくさん咲いているのだろうな。いい季節に逝くことができてよかった。」
Fin
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