こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

幸せな時とはいつのことをいうのだろう

2020年09月30日 | 生き方について考える
あの時はよかった、あの頃に戻りたい、そう思うことが少なからずある。ただ、今になって思い返すとよかったなと思うあの時あの頃、自分は幸せだなどと思っていただろうか。今までの人生で一番良かった時に戻ったとして、自分が自分のことを幸せだと思うかなどわからない。
人生でいいことなど一つもなく、それでもあの時に戻ったら巻き返すことができるから戻りたいと考えることもできる。でも、戻ったところでの新たな選択は果たして必ず今に幸せをもたらしてくれるだろうか。

幸せ、とは一体なんなのだろう。その瞬間のことを指して言うのか、それともその前後のことか。例えばスポーツ選手が世界一を取った時がそれなのか、それともそれからしばらく続く余韻を指すのか。私が医学部の小さな大会で勝利したときのことを思い返すと、その瞬間よりも、そのあとにつづいたその勝利の余韻のほうが幸せだったのかもしれない。勝利は具体的な目的ではあったけど、勝利がもたらすものが幸せの実体だったということになる。そうだとすれば幸せとはなんなのかわからなってしまう。その時の思い出を抽出すれば、その思い出は私に幸せな気持ちを思い起こさせてくれるが、その時に戻りたいとは思わない。スポーツに例えてみたが、学生が入試で合格した時、俳優がオーディションに通った時、大きな仕事を成功させた時、勲章をもらった時、愛する人と結婚した時、幸せの瞬間はそれこそ数えきれないほどある。だが、どれだけの人が、その瞬間に戻りたいと思うだろうか。その時に戻って再スタートしたいと思うだろうか。

幸せを掴んだ瞬間に戻ることができたとしたら、その後の人生をうまくコントロールしなくてはならない。でも、その時よりもより幸せになることはできるのか。そんな保証はまったくない。そして幸せの絶頂、ということはその頂きを過ぎたあとは下っていくしかない。人はその幸せで稼いだ余禄で生きていくのだ。そうすると、幸せとは、その後の人生を含めた絶頂であって、どの時点であるかを特定することはできない。

幸せというのは、あまりにも漠然とした言葉であって、一体何が生み出すものなのか、私にはわからない。心というものがあって、そう感じるものなのか、それともただ単に、勝利とか合格とか出世とか具体的に言語化されたものにすぎないのか。ただ、この世に生まれてこなければ、幸せになることはできない、かといって幸せを知ることもできなかったのは確かだ。
人生のうちでいつが幸せな時なのだろう。それは、今なのではないか。命あり、生きている今。軽々しいことを言ってはいけない時節であることはよくわかっている。だが、これまで生きてきたからこそ、幸せを感じることができたのは確かだし、生きていればこそ、この先幸せを感じることができる機会もあるというものだ。
楽しく生きる

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こんなときこそ自己点検と感謝の気持ちを

2020年09月29日 | 日々思うこと、考えること
日々の生活、ふと肩の力の抜けてしまうときがある。たとえば、先週末のオンライン学会を無事終えてーーー終えてというか、自分の発表を見届けてーーーホッとしている今のような状態。こんな緊張感が緩んでいるときに、気をつけなくてならないのは、自分の仕事のチョンボ、他人への配慮の欠如、そういったものだ。油断大敵、好事魔多し。

病理診断だったら、大切な所見を見落としているとか、鑑別診断が抜けているとか。病理診断科、病院の業務であれば大事な仕事の約束を丸ごと忘れてしまって、メールの返事を出さないでいるとか。そんなことをしてしまったらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。再度点検をしよう。

他人への配慮もそう。これでいいや、みたいな感じになると検査技師のようなコメディカルの人や、事務の人への対応が乱暴になってしまう。そんなことは絶対にあってはならない。私が、こうして気持ちよく仕事をさせてもらっているのは、そういう人たちのおかげ以外の何物でもない。今の職場はそういう点で、とても大事にしてもらっている。こういうときこそ、周囲で私の仕事を助けてくれる人たちへの感謝の気持ちをより一層持つ必要がある。

調子に乗って、浮かれているときというのは自分が一体何をしているのかわかっていない。そういうときの記憶は稀薄で人生の足しになることは少ない。もちろん、そうなるために努力し、その成果を得たところーーー今の私の場合、この間の発表(たかだか小さな学会での講演)ーーーまでは記憶に残るし、努力の成果だ。だが、そうして得たものはその時点で終わっていて、そのことにーーーささやかではあるがーーー安寧し、それがあたかも持続しているような錯覚に陥ってはいけない。自己点検をすべきときだ。

この間の発表での反省点をもう一度見直し、コメディカルの人への感謝の気持ちを今一度新たにして次なるスタートを切る。そんなことを繰り返すことが自らの人生を豊かにしていくに違いない。
妻への感謝も忘れずに

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時は経ち、季節は移る、すべてはやがて消えていく

2020年09月28日 | 日々思うこと、考えること
夜明けと出勤時間が近くなってきた。爽やかな秋晴れ、所用があって久しぶりに背広を着て出てきたがちょうどいい。車窓から見える富士山の上の方はすっかり白い。時とともに全てのものが動いている。時間の流れを認識する者がいなくても時間は過ぎていく。遠い将来、地球が無くなり、太陽も無くなっても。全てが無に帰した時、それでも時間は流れていくのだろうか。それとも全ての存在が無くなったところで時間も無くなるのだろうか。その場に立ち会うことのできる人はおそらくいないので、結局それは誰にもわからない。

昨日のエントリーが腰砕けに終わってしまったのには訳がある。それは腰砕けならぬぎっくり腰をまたやってしまったから。なかなか意欲的なタイトルで始めたまでは良かったが、書いている途中でいったん手を休め、妻と一緒にベランダの掃除を始めた。その時、ちょうど下に置いてあった鉢を持ち上げようとしたらまたグキッと。せっかく治りかけていたのに元の木阿弥。元々のタイトルが大き過ぎたのと、痛みのせいか、過去に考えたこと以上の言葉は出てこなかった。これまでの繰り返しのようなことを書き始めてしまったので格闘することはあきらめ、相撲とドラマ(大河と半沢)のため、早々に切り上げた。

世の中は今、未曾有の不安の中にある。不安の原因は新型コロナウイルス感染症そのものではなく、それによってもたらされたものに移ってきている。ただでさえ景気が悪かったところに感染症の大打撃が追い討ちをかけ、”不要不急”に区別される人や社会が浮き彫りとなってしまった。私自身、病理医という生き方が、医療者として必要なものであるのかを自問した。今は、自らの立ち位置を再確認することができ、職責を全うすべく、(働き過ぎずに)日々奮闘している。そう、時間はほとんどのことを解決してくれるのだ。

3万人には達していないとはいえ、毎日何十人という人が自殺をしている。私が自殺を考えた時は30代だった。子供たちはまだ幼かったが、そんなことは関係なかった。今ある苦しみから逃れたい、その一心で命を絶っていたかもしれない。何かがそれを押しとどめてくれ、今は何食わぬ顔をして生きているが、それはその後の時間が解決してくれたもの。いや、解決されていないことはそれこそ山ほどあるが、それもやがて時間が解決してくれるだろう。人間には時間に加えて老いとか忘却もある。そのことに気がつかず、自殺していく人が後を絶たないのはとても、とてもとても残念なことだ。自殺しようとしている人に直接手を差し伸べ、助けてあげることは私にはできない。わかったような口を利くなと言われたらそれまでだということはよくわかっている。ただそれでも、時の流れに命を任せてみるのは、自殺よりはいい判断ではないかと思う。死ぬ勇気がなかったからかもしれないが、生きる勇気を大切にしてよかったと今は思う。
辛い時間は永遠に続くものと感じられるだろうが、この国には色々なセーフティネットもある。どうしても死ぬしかない、生きるのが面倒臭くなったとなったと思った時でも、その前にそれらにすがってみてはいかがだろうか。
生きよう

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平準化されていく世界

2020年09月27日 | 日々思うこと、考えること
私のような昭和中葉(38年生まれ)世代の感覚ではマスメディアの強者といえばテレビ、新聞、週刊誌といったところか。平成世代の息子は、新聞を取っていないし、テレビもない。週刊誌を手に取ったことはあるだろうか。ニュースソースはネットニュースにSNS、テレビの代わりはYou tubeだろう。次の世代、公的な情報は皆同じ、あっという間に世の中は変わってしまった。

そして、新型コロナウイルス感染症。私の周りだと学会・研究会の様相がガラッと変わった。会議では皆の顔が同じ画面の中に、同じサイズで横並び。画面の上にいたら偉いとか、そんなことは関係なくなっている。もちろん、個々の職場では命令系統が必要だから、上司部下という関係は引き続き存在していくが、それはどんどん希薄なものとなっていく。
一方で、格差もある。情報強者と弱者。マスクをする人のグループとそうでない人のグループ。共有される情報は互いの興味が一致するものだけとなる。これまでの価値観はもう通用しない。通用しない、というよりは世界はフラット、かつセクト化してしまっているということを理解し、それに適応しなくてはならない。
ちょっとまとまりのない文章になってしまった。それも時代の変化するスピードが猛烈で、どこまでついていくことができるかわからず、全く読めないからだろうか。それとも、ある程度のところまで行ったら、機械が全部お膳立てしてくれ、情弱という言葉もなくなっていくかもしれない。そういう点で世界がより平準化していくことで、格差が無くなることを期待したい。
しっかり考えて生きる

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泥縄その後、Web学会での講演で考えたこと

2020年09月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
中ぐらいの大きさの学会が今日から開催された。Webを利用しての開催なので、もちろん自宅から参加。10日ほど前に何とかかんとか仕上げた発表スライドが流された。他の講演を聴いて勉強しようと思ったので、PCをテレビに繋いで観たら、なんだか、テレビで講演をしているような錯覚に陥った。考えてみれば
学会がauthorize(承認)した講演なのだから、これはこれでそう感じてもおかしくないのだろう。昔は情報発信はテレビ局だけだったが、いまやそれぞれのソサエティがauthorizeする時代な訳だし、もう何年も前からYou tubeはそんなことになっている。

必死にやっただけのことはあって出来はそれなりのものだった。ちょっと声は暗くて小さかったが、それぞれのスライドではちゃんと話していた。次、こう言う機会があったときには、もうちょっと元気よくやろう。こうしてみると、テレビでリモートで喋っている人というのは大したものだ。新型コロナ感染症関連の専門家の先生方などは随分上手に話しているものだと感心した。

予め提出しておいたビデオが流されるリモート開催で、いくつか困ったことがあった。まず、前後の演題の演者のつながりを持つことができないことが困った。ライブで行う場合だと、私の話したいと思っていた内容が、先に話す人と被った時、”先ほどお話がありましたが”、などといって、そこを端折って他のところを大きくして話を伸び縮みさせるのだが、そういったことができなかった。あとは、別のセッションでの話だが、スライドと音声がずれていたのに、それを調整することができないということもあった。

それにしても、これまで人海戦術でやっていた学会屋さんというのは不要になるのではないかと心配になった。YouTubeとか、ズームとかの会議アプリを運営するところも参入が学会業務に参入することが起こってくるのではないだろうか。
ここでも新様式が

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羽田空港でドッキリ!?

2020年09月25日 | 家族のこと
途上国支援に関する勉強をするため、娘がイギリスへの留学に出かけた。オンライン授業ばかりの大学が多いが、娘の選んだところは通常通り秋入学がかなった。新型コロナウイルス感染症の再拡大が心配だが、日本にいての座学では学ぶことに限度がある。修士課程だけのことはあり、ずいぶん難しいことを勉強するようだ。将来、社会に貢献することのできる人間になってほしい。
その娘を羽田まで送りに行った。出国ロビーは空いていて、働いている人が気の毒になる。1つおきに座るように促すSocial Distancingの赤いラベルがベンチに貼ってあったが、そもそも座る人がほとんどいなかった。
駐車場に戻る途中、案内カウンターがあり、そこに、案内ロボットがいた。わからないことがあればお聞きくださいということが書いてあった。周りには誰もいないので、ちょっと試してみようかと声をかけた。
「駐車場にはどうやったら戻れますか?」
と聞いたら、スピーカーからは
「はい、どのようなご用件でしょうか?」
とどう聞いても人間の女性の声が聞こえてきた。てっきり案内ロボットのAIが抑揚に乏しい電子音声で応答してくれるものと思っていたので、こっちは驚いてしまった。
「あ、すみません、大丈夫です。ちょっと聞いてみただけですから。」と返事をした。横にいた妻は大笑い。
ドッキリカメラのようで、久しぶりに大笑いした。
これで1年、会えないかと思うとちょっと寂しい思いもしたが、困っている人のために働くために勉強をしに行くというのだから、こちらもしっかり応援しよう。それに、昨日14歳の誕生日を迎えたコロは、見送りもできず、もっと寂しいと思っているだろう。
体に気をつけて

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複雑系(complex system)から考えること

2020年09月24日 | 自然災害・事故・感染症
涼しいを通り越し、肌寒い。霧雨のような細かい雨が強い風に乗って斜めに降ってくる。関東地方へまっすぐに進んできていた台風12号は本州の手前で、踵を返すかのように回れ右と太平洋上を北東に進んでいる。この台風12号、ドルフィン(DOLPHIN)と命名されているそうだが、まさしくそんな身軽さで動いているようにも見える。この冷たい空気は台風が東を通っているせいだということは素人の私でもわかる。
複雑系(complex system)という言葉がある。ウィキペディアによれば、『相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう。』ということで、”風が吹けば桶屋が儲かる”と同じようなことだと思っているが、もう少し要因は多そうだ。ただ、具体的にどんなことを言うのだろうと思っていたが、この前到来した台風9号、10号の話がまさしくそうだった。
最大級の2個の台風が九州を包囲し、大変なことになるだろうと備えていたところで、いずれも直撃を免れた。とくに台風10号は未曾有の勢力を持って九州に襲いかかると思われたが、台風9号が海水面をかき混ぜ、海面の温度を下げた結果、その発達が抑えられたらしい。自然というのはダイナミックな、それこそいくつもの要因が重なったのだと考えざるを得ない、ちっぽけな人間からみたら、想像もつかないほど大きな変化がおこったのだ。
こういうのがまさに”複雑系”というのだろう。そして、すべては偶然ではなく、必然。台風9号の発生にしても、その前段階としての海水温の上昇があり、地球温暖化もある。地球温暖化の原因は未だよくわかっていないが、やがては明らかになっていくだろう。それらが明らかになったところで、われわれ人間にできることが何かなどわかりはしないが、生きている以上、何かをしなくてはいけない。生きている以上、何もしないということはあり得ない。私たち一人一人も複雑系の一部なのだから。全ては入れ子のようであり、どんなに小さな存在も存在する意義がある。
複雑系はマトリョーシカ

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感謝の気持ちを素直に言葉にする

2020年09月23日 | 生き方について考える
久しぶりのギックリ腰昨日は1日自宅で静養。外出しようにもどうしようもなく、義父の墓参りは妻に任せた。義父にも妻にも申し訳ないことをした。一晩寝たら腰の痛みはようやく少し治まった。一旦座ると、手すりを掴まなくては立ち上がれなかったが、なんとか電車を乗り継ぎ出勤。迅速診断は無難にこなすことができた。

昨日、墓参を終え、帰ってきた妻が昼を用意してくれた。その時にこうしてくれることをありがたいと感じた。それは、私の体が動かず往生していたからではなく、腰痛で延びている私のことを思いながらスーパーで食材を選び、用意してくれたのだと思うと嬉しく、感謝したのだ。その思いを妻に伝えようとしたのだが、うまく言葉にできないでいる。そして、日々当たり前のようにしてくれている家事一般を、私は当たり前のことと片付けてしまってきたのだと、身動きが取れなくなって初めて気がついた。ふざけた話だ。

この思いというもの、妻に対するものだけで十分だろうか。そんなことはない。職場で、通勤途中で、様々な人が私のことに気をつけてくれている。職場であれば同僚医師や臨床検査技師。秘書にしても事務方にしても皆、私のことを気にかけてくれる。それぞれが仕事といえばそうなのだが、それだけで片付けてしまうことはできない。”仕事”と割り切ってしまったら、その時点で質はもっと低下してしまうだろうが、そうならないのは人間としての感情が、心が挟まっているからだと思う。人間とAI(人工知能)の違いはそこにある。

この先の時代、人間のAIへの依存度はますます高まり、仕事の中でAIが占める割合は9割を超えるだろう。だが、残りの1割弱は、人間同士の感情、愛情が占めるものであり、それを排除して仕事とか何かの業務をすることは難しいと思う。そういう、”言葉にできない”、”実体化することのできない”、”数値化することのできない”ものが、仕事の効率にどれほどの影響をもたらすかは不明だが、その部分をいかに高めていくかが今後の人間生活の質の差異をもたらすに違いない。誰もがスマホを持ち、同じような効率で仕事をすることが可能となればそこにしか差は生じないということも厳然たる事実だ。クイズ番組は不要になりつつある。

そう考えると、この先、人間にとって感謝の気持ち、思いやりの気持ちというものを素直に感じ、表現することというのはとても大切なこととなる。そこでしか差異はないのだから。
思いを後から文章にするのは容易だが、それよりもその都度そのときの気持ちを表現できるよう努めたい。AIが感情や愛情を持ちうる存在となるかは明らかではないが、人間の持つ”それ”を持つようになることはないだろう。なぜならAIはそれ自身が望むなら死ぬことはないが、人間は必ず死ぬからだ。
人間らしさを考える

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病牀6尺というわけではないが

2020年09月22日 | ガーデニング・菜園・花・緑
タオルケット1枚では寒かったので、薄手の布団をかぶって寝たらちょうどよかった。目が覚めたら腰痛はすっかり良くなっている、と期待していたが、全くダメ。
連休最終日。こんなに休んでいいのだろうかと思うが、腰を痛めては仕方ない。明日は迅速診断があるので、それこそ這ってでも(仕事をしに)病院に行かなくてはならないので、今日は一日静養。なり手が少なく、人手不足の日本の病理医、”代わりができる人”はいるが、”代わってくれる人”はいない。彼らは病理医がいなくても相当な確度で手術を成功させるだろうが、”え?コロ健がギックリ腰でいない?”と、オペ室で残念そうな顔をさせてしまうのは私の本意では無い。

卒塔婆ができるからと、今日予定していた義父のお墓へのお参りは妻と娘に託して留守番。家事の手伝いもできず、役ただずとはまさにこのことと思っていたが、幸い国勢調査の入力があり、スマホで入力した。それにしても、これほどの厖大な個人情報、セキュリティは大丈夫かと心配になった。何かで漏れたら、数万、数十万の単位となってしまう。

立っていると楽なので、ベランダをウロウロしながら、趣向を変えて葉っぱの写真を撮ってみた。1枚目はウンベラータ。妻がよく通る道にある花屋の店先にセールで置いてあったもの。最初はおかしな樹形だったが、近頃は立派になってきた。梅雨明けからベランダに出していたら、どんどんいい葉っぱが育っている。2枚目はフランスゴムの木。新職場の医局のデスクの横に置いていたら、葉っぱから冷や汗のような樹液が出るわ、カイガラムシはつくわで、もうだめになってしまうかと、家に持ち帰ってベランダでたくさん水浴びさせてやっていたら、あっという間に元気になって新芽も出てきた。今朝はひこばえも出ているのを見つけ、嬉しい。もうあそこには連れて行かないから安心してくれ。
次は、スズカケノキ。ヒポクラテスの木ともいわれるもので、父の別荘に植わっていたものだが、もう行けなくなるからと手放すことになった時にわが家に移植した。ぐんぐん大きく育っていて、落葉するものがある一方で、新芽もでるという、なんとも元気な木。どこまで育つだろう。
ハイビスカスの葉っぱというのは縁のギザギザが鋸の刃のようだ。時々変異を起こして丸い葉となったりもするようだが、明らかな丸葉はなさそう。日本の夏の気候はぴったりのようだ。花は10月末まで楽しめる。
立っている方が腰には楽なので、ちょっと歩きまわっていたものの、だんだん疲れてきたので、エントリーは座って書くことにした。空も曇ってきたので、エントリーを書くのを切り上げ、部屋に入った。病牀六尺というわけではないが、家からは一歩も外に出ることはなかった。
家の中は少し歩けた

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久しぶりにぎっくり腰。

2020年09月21日 | スポーツ・健康・ダイエット
刀鍛冶の正宗さん(正宗工芸美術製作所)のところに包丁の研ぎを出しに行ったついでに小町通りのうどん屋みよしで昼を食べようと、順番待ちの用紙に名前を書いたのが運の尽き、1時間半も待たされることになった。

小町通りはすっかりコロナ前の人出で、待たされることがわかっている地元の人間が何を好き好んでと言われそうだが、みよしは別。そこいらの観光客相手の店とは違う。

今日は朝から土いじりをしていて、家に帰ったらその続きを始めたのだが、ものの5分もしないうちに、下に置いてあった肥料を拾い上げようとしたらぎっくり腰になった。

今回のは久しぶりだ。前回やったのは昨年10月。コロナ禍のあいだ、やっていなかったということか。それはそれで驚く。

それにしてもほとんど身動きが取れない。安静よりも動いた方がいいというのだが、結局のところほとんど動けない。
痛み止めを飲んで、一晩ゆっくりしていよう。

腰が痛いと、文句だ愚痴だという事をいっている場合ではなくなるので、かえって笑ってしまう。午前中には、園芸バサミで血豆を作ってしまった。気をつけて過ごさなくてはいけないいちにちだったのかもしれない。
後片付けは妻にお願い

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閑話二題、ハイビスカス

2020年09月20日 | ガーデニング・菜園・花・緑
暑さ寒さも彼岸まで。
毎年毎年夏の終わりは驚くほどきっちり来る。気持ちがよくて窓を開けたまま寝たら、朝起きた時少し肌寒いほどだった。これからは朝晩の寒暖差が大きくなるらしい。
今日は最近あったハイビスカスの話題2つ。
『もう、夏も終わったので引き取って』
妻の誕生日にプレゼントしたハイビスカス。この先もまだまだ咲いてくれそうだ。ハイビスカスの花といったら、夏、というイメージ。それはそれでいいのだが、そうもいかないところもあるようだ。
今日も妻とハイビスカスが元気に咲いているのを喜んでいたら、「昨日、(ハイビスカスを買った)花屋さんに言われたんだけど、あの鉢植え、全部売れたんだけど、今になって、買い戻してくれって言われるんですって」。
どういうことか教えてもらったら、店舗で買ったような場合は季節感が大事で、夏が終わると不要になるそうだ。不要だから、引き取ってというのも花がかわいそうだが、置き場所がなくては仕方ない。世の中いろいろだ。
『ハイビスカスの写真だけのブログ』
毎日読ませていただいているブログでハイビスカスの話題があり、読ませていただいた。”「なるほど。ハイビスカスか。」と読み始めたら、”
その方が、ハイビスカスの話題が載っているからと読んだブログが、ハイビスカスの写真だけだった、という話。
それだけの話なのだが、ハイビスカスだけでもいろいろな人がいろいろと関わりを持っているものだ。
明日は晴れ?

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マスクをしてまで出かけるのは億劫

2020年09月19日 | 日々思うこと、考えること
秋の連休、雨の予報も幸い外れ、鎌倉はいい天気。街中は観光客で賑わっているだろう。まあまあ天気なので散歩に出かけてもいいのだが、いざマスクをつけてまで出かけるとなると、そのハードルは途端に高くなる。
歩いていて苦しいし、喉がヒリヒリするし、暑い。つけたり外したりも面倒だ。

夕方になって、車でコストコまで出かけた。少々混んでいたが、店内が広いのでゆったり買い物ができた。それにしてもコストコ、子供達が小さかった頃は肉だのなんだのもっぱら食料品を買っていたが、もう量が多いと感じるようになってきた。
まあ車だと

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どちらが悪いかわからなくても、まず謝った

2020年09月18日 | 日々思うこと、考えること
私が悪かったのだろうと思ったので、私も謝った。

昨日、むちゃくちゃ集中した仕事を技師と一緒にしているところに某科の女性医師がふらりとやってきて、「あのー、先生、*?!XO+#$」と何やら話しかけてくる。こっちは、それどころではない。ちょっとでも対応したら、作業を中断するどころか、一からやり直すことになりかねない。少なくとも、15分ぐらいのロスになる。至急の用件でもなかったので、「なに(私が仕事しているの見えないの)?」と聞き返した。
それでもKY、「あのー、●X△%&:*」と話し続けるので、「なに?その件は%&*#@だから、〇〇先生(その女性医師の上長)に聞いて!」と乱暴に言い返した。キョトンとした顔でまだ何か言いたそうだったので、「仕事しているのが見えないの?」と、まあ、声を荒げて言ってしまった。もちろん、顔など見ないで言い放った。これでやっとわかったらしく、「あ、すみませんでした。」と謝りつつ部屋から出ていった。

なんとか仕事は続けたが、嫌な気分は残る。仕事の補助をしてくれていた技師に向かって「あーあ、ああ言う言い方をするとこっちの方が結局悪かったような気になるんですよね」とこぼした。「そうですね、こんなに仕事があるっていうのに、参りますよね」と相槌を打ってはくれたが、医者同士のことにそれほどあれこれ口を挟むことはない。最後まで嫌な気分のままなんとか仕事を終わらせた。

ちょっとだけ躊躇したが、こちらから謝りの電話をすることにした。事情はどうであれ、大きな声を出したということは私が悪い。どんな時でも(?)我慢しなくてはいけない。少なくとも無視するか、いや、丁重に断るかしなくてはいけなかった。でも、そんなことしたら、仕事でミスをしていたかもしれない。患者が目の前にでもいたら臨床医は遠慮してくれるが、病理医に対してはそういうことはしない。気がつかないのだ。まあ、これも仕方ない。

「あ、先生、さっきはあんな言い方してごめんね。わざわざ部屋まで来てくれたのに。あの件は、今朝〇〇先生が来てくれて、段取りはきめておいたから」と伝えた。「すみません、何かお手伝いできることがないかと思って行っただけだったんです。お邪魔してしまってすみませんでした」というようなやり取りとなった。

理由はいろいろあるから、それらをいちいち検証することが大事とか、そういうことではない。まず謝ることができて、よかった。夫婦喧嘩でもそうだが、なにか、諍いがあり、怒るようなことがあったら、”怒った事”については謝らなくてはいけない。そのことに気がつくことができて、ちょっとだけ進歩したかな、と思った。
どっちもどっち

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文の上手い人の文

2020年09月17日 | 読書、映画、音楽、美術
 新聞とか雑誌に載っているエッセイーーー小説ではなくーーーを読むとき、こういうところに文章を書く人というのはどんな書き方をするのだろう、組み立てとか、導入とか、主題(タイトル)への移行とか、文章に隠されているそういったもろもろのテクニックを少しでも学んで自分のブログ書きに役立てたいと、日々駄文を書き連ねている身としてはそんなことを考えながら読むことがある。

 そんな文章の書き手が俳優、タレント、元アイドルだったりすると、お手並み拝見と少々上から目線で読み始めることもあるのだが、さすが皆さんお金を取っているだけの事はある。お金を取ってというよりは、新聞にしても、雑誌(多くはカード会社が出しているカタログとか何かの会社の広報誌の類)にしても、私が金を払ってまで読ませていただいているだけのことはある。とにかく皆さん文が上手い。当然のことながら、私のように毎日の往復の時間で書きなぐって、推敲もそこそこにアップしている訳ではなく、それなりの時間をとって書き、編集者がチェックを入れ、”商品”としての文章に磨き上げてから世に出すのだろうから、良質なものであるのは当然だが、そういったこと以上に”才能”のようなものを感じる。

 そんな上質な文章に接すると、才能のない私なんぞはせめてテクニックを学ぼう(盗んでやろう)と思って読み始めたはずなのに、読んでいるうち、そんなことはすっかり忘れ、その内容に取り込まれている。読み終わってから”しまったこんなはずでは”と思ったところで時すでに遅し、文章術などよりも、その人が感じたこと、考えたこと、提供された話題などの方が、私の中ではよほど大事なこととなっていて、文章を読み直すにしても観点はすでに異なっている。まんまとやられた。まるきりミイラ取りがミイラ。
 上手な文章を書くことができるようになるのには、文章術なりなんなり、そういったものを学ぶといいのだろうが、そういう時間はなかなか取れない。学問するのに早い遅いはないといっても、日々ぶち当たる難症例についての勉強すらおぼつかず、また、往復の時間で哲学書を読むようになって頭の中がこんがらかっている状態では、文章術の勉強までは手が回らない。人間それぞれに与えられた時間は同じなわけで、これまでの人生、時間をどう使ってきたかを思い直して反省したところで遅いのだ。今の私にとって文章が上手に書けるようになるかは、病理、哲学の次あたりの位置づけなので、そのテクニックを勉強するのはもうしばらく先になるだろう。結局、新聞雑誌のエッセイや、文の上手いブロガーさんのエントリーなどをこまめに読み、それらの視点や切り口、表現方法を学んでいくしかないだろう。

 実践的といえば実践的なのかもしれないが、私の理解力にも問題があるので、日々の駄文が劇的に改善する日はまだ先のことになりそうだ。
起承転結それとも序破急

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けっきょく泥縄

2020年09月16日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
今月末にWeb形式で開催される学会があり、そこから依頼された講演が1つあって、その締め切りが昨晩だった。準備は講演の直前までできるからと、たかをくくっていたら、2週間ほど前に講演形式が変わって、あらかじめ音声を録音したパワポのスライドを提出することになった。会長は意欲的な人で与えられたお題が凝っていて、そのタイトルに合わせるとなると発表内容に工夫が必要となっていた。

学会での講演といっても教育講演的なものなので、目新しい研究成果でもを発表する必要はないものの、十年一昔の内容では陳腐化してしまう。私がよく演者に選ばれるのは、何よりも専門病院に勤務しているからで、その専門性と経験を買われているからだ。あちこち渡り歩いたものの、専門性だけは手放さなずにいてよかった。幸い、この前書いた原稿は結構新規の情報を入れていたので、そこからあれこれ引っ張ってきてなんとかスライドは完成させた。だが、問題は録音だった。
会場でべらべらしゃべっているのならいいのだが、録音となると話が違うのだ。滑舌悪く口ごもったり、言い澱んだり、噛んだり、間違いがあったりすると、スライドごといちいち入力し直さなくてはいけない。25分という時間制限にしても、時計を見ながら、緩急をつけることもできず厳しいものがある。ニューヨークの国連本部で昨日、第75期の国連総会が開幕したそうだが、今回は各国首脳は集まらず、あらかじめ撮っておいたビデオを放映するそうだ。ああいう画像にも結構苦労があるのだと実感した。それとも政治家は喋るのが商売だから大丈夫か。

何はともあれ悪戦苦闘、21時前まで文章の手直しと音声の入れ直しを繰り返してなんとか25分3秒で終わらせた。夕方には学会事務局から催促のメールが来ていたりして全くヒヤヒヤものだったが、今朝、お礼のメールが来ていたのでことなきを得たのだろう。まあ、提出してしまえばこっちのものだが、一晩経っていざ落ち着くと、”ああ、あそこの言い回しはこうしておけば”とか、”やっぱり全部通しで聴き直しておくべきだった”とか。けっきょくいつも通りの泥縄講演ではないかと、不安とともに後悔の念が沸き起こる。

そんなこんなで病理診断科の部屋で遅くまでおっさん病理医一人、スライドを作っていたら、大きな手術を終えた外科医が「先生、遅くまでお疲れ様です。よろしくお願いします。」と診断の難しい検体を置いていった。診断のことを思って、少々やれやれと思ったが、一緒に検体を診て、「先生たちもお疲れ様」と労った。
国連総会では握手は厳禁だそう

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