こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

この1年

2020年12月31日 | 日々思うこと、考えること
大晦日。
いい天気。大掃除は窓磨き。家中の窓と鏡を拭いて磨いて、玄関を雑巾掛けしてとやっていたら、あっという間にお昼。窓越しに曇りがないと嬉しいものだ。
年越しそばを食べてから、寄せ植えを作ったり、庭に苗を植えたりしていたら、いつの間にか3時。西の山にお日様が入ってしまうとあっという間に寒くなる。時間がなくて、写真を撮り損ねてしまったのは残念。
4時過ぎには風花が舞った。雲が少し多かったが今年最後の夕焼けは美しかった。
この1年は新型コロナに明けて、新型コロナで終わった。これは来年から数年続くことだろうから、今日はその通過点に過ぎない。東京の新規感染者がいよいよ1000人を超えてしまった。感染力の強い変異株が出てきたのが、弱毒化して生き延びようとする変異であるという、朗報であってほしいと思うが、2月ごろには状況がわかるだろう。
6月には父を見送った。私もああいう死に方をしたいと思わせてくれる立派な逝き方だった。
来年もよろしくお願いします

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今年のボツ記事 2020年

2020年12月30日 | あの頃のこと…思い出話
朝からの大雨が昼前にはすっかりやみ、青空が広がりいいお墓参り日和となった。多くのお墓にお花が供えてあって華やかだった。
さて、12月30日は恒例の今年のボツ記事特集。まあ、エントリーの供養のようなもの。古い順にタイトルと書きかけの文章。
『』内がタイトル、続く文章が記事(もちろん書きかけ)。・・・以下は一言コメント。

『こんな考えの人っているんだ』・・・鎌倉であった、傍若無人なおっさんのことを書いたのだが、もし知っている人だったりしたら嫌な目に合わせられるかもしれないと妻が心配するので一旦公開したけどボツに。ほんと、あの時は嫌だったな。コメントまでいただいたiminaineさん、すみません。

『備えあれば憂いなし』
「ああ、今日はちょっと仕事に余裕ができたな」なんて幸運な日があったら、ぼんやりしていないで、自己研鑽に励む。
私のように一人でやっていると、そんな日は気が緩んでしまいがちだが、そんな日こそ気を引き締めて、勉強する。勉強の種は山ほどある。
・・・まだ、2月のエントリー。のんびりしていた。

『反省すべきか、結果オーライか』
先週末、新宿で飲んだ。大恩ある先輩に誘われ、とっておいてくれた店が新宿三丁目の居酒屋の、それも奥の方の席。
新宿の飲み屋街に行くなんて数年ぶりだったし、新型コロナウイルス感染症のせいで人ではないと思っていたらあに計らんや、すごい人出。末広亭の前には並んでいる人がいて、入った店も結構混んでいる。隣の席にはコロナウイルスなんて全然へっちゃらという風態の20代の若いサラリーマンが口角泡を飛ばしながら大声で話し、タバコをガンガン吸っている。これはまずいなと思ったがどうしようもない。
その先輩もマスクを外して店に入ってきた私を見て、「あれ?マスクしないの?僕はまったく気にしてないから」って、たしかにあなたは私からみたらむちゃくちゃ強運の人です。なんて思いながら、数時間楽しい時間を過ごした。そして、十日ほど経ってなんの症状もでなかったのでこの記事を出している。
もし、私が高熱でも出しているようだったらそれは新宿の裏町の飲み屋がクラスター形成をしたというわけだけど、そうならなくてよかった。
・・・3月23日に書いている。少しずつ緊迫してきた頃。

『心の中でお別れを』
先日、今の私を育ててくれた先輩の先生が亡くなられた。コロナのせいではない。
10年ほど前に体調を崩し、それ以来の療養生活ののちのことだった。
・・・今でもしょっちゅう思い出す。

『ストレスがブログの原動力?』
家でじっとしていると、ブログを書く気がなかなか起きてこない。
ストレスを感じているときの不平不満がブログを書く原動力になるのだろうか。
・・・5月1日。緊急事態宣言中。ある意味コロナ鬱の始まりとも言える?

『この先、政治家とは必要なのか』
今では読まなくなったが、さいとうたかおのゴルゴ13に、実は東西の緊張はそれぞれのスパイが作り出していた、というような話(『色あせた紋章』)があった。新型コロナウイルス感染症による人類の危機を目の当たりにして、政治家という人たちの役割というのを改めてかんがえるうちに、その話を思い出した。
人間にとって必要なのは命であって、その次は平和だ。命は健全な肉体と平和で豊かな世の中によって紡ぎ出されるものであるが、健康は医療従事者が担っている。豊かな世の中というのは、生産者消費者の間で行われる経済活動が基盤となって
・・・5月28日の書きかけ。もう、政治家不要感が出始めていたみたい。

『緑、あれこれ』
冬青(ソヨゴ)の木をシンボルツリーにしている家は多い。我が家のソヨゴも12年目、しっかり根付いて2階の屋根と同じくらいの高さとなってきた。そのソヨゴに花がつき始めた。小さな花で新芽のようにもみえてしまう。

以下はシリーズだったが続かず。
『言語を手放しつつある日本人(1)はじめに』
日本という国の凄いところは開国に際して猛烈な量の外国語を日本語に翻訳してしまったということだと思う。そうしたことで西洋からの文化的浸潤を食い止めることができた。独自の言語を持ち、それを使う文化があるからこそ外国人からも興味を持たれる。とても誇らしいことだ。
その、日本の文化が失われてしまうのではないかと、最近各方面で言われている。もう、日本語に直すという努力をせず、なんでもそのまま使っている。
それももともとの発音で正しく使っているのならばいいが元の意味もわからずに略語を使っているのを見聞きすると絶望感に包まれる。
『言語を手放しつつある日本人(2)カタカナ言葉の氾濫』
数年前から言われていることだが、使われても意味がよくわからない言葉が増えている。サステイナブルとか・・・とか、
こういう言葉を使うことが悪いというわけではないけれど、使っている当の本人もこの人本当にわかっているのかな?と思う様なことがある。
『言語を手放しつつある日本人(3)医学の世界での状況』
病理学、という言葉に相当する表現があるかというのを、ある発展途上国の病理の先生に尋ねたら、そういうものはないと言われた。そもそもそういう概念が無いということだった。
日本でも病理学という概念はなかっただろうが、言い得て妙の字を当てることでpathologyを表現することに成功した。
『言語を手放しつつある日本人(4)病理の世界での状況』
病理の世界でも、外国語がよくわからない入り込み方が始まっている。がんゲノム医療が開始され、病理医はそのただ中に立たされる様になった。
『言語を手放しつつある日本人(5)日本語を手放すことは哲学を手放すこと』
開国の時、日本人が外国語を徹底的に日本語化したことで、日本人は固有の文化、考え方、哲学をまもった。
・・・グローバル化の中で日本人はどうやって日本語を守っていかなくてはならないか。改めて考えてみたい。

『価値観の転換・・・”新しい生活様式のもたらす新しい時代”(3)』
金の価格が高騰しているそうだ。30年前に金持ちの友人に金を買うことをすすめられたことがあったが、あの頃はまだ千円台だった。その7倍となると、100万円分購入していたら、今頃700万円。もうすこし頑張ったら1000万円にもなるだろう。残念ながらその頃金を買う余裕などなかった。その話は別として、確かに金はあればあるだけ資産として有用なものだろうが、金それ自体は何もしない。ただ眩く光るばかりの金属だ。
金に囲まれたミダス王は決して幸せになることはなかった。
電子マネー化が進むことによって、貨幣の価値というものを裏付けるものは一体何になっていくのだろうか。中国が強力に推し進めているからには、世界中で元が使われるようになり、基軸通貨をとってかわるかもしれない。やがて世界は元という単一の電子マネーによって統一されてしまうのかもしれない。
・・・これ、なんでやめたのだろう。(1)(2)がマスク関連話で、これが別の話題だったからか。

『私の哲学』
哲学者になりたかった。
以前はそのことを自己紹介にも書いていたが、みっともないのである時からそれはやめた。ただ、哲学者であることと哲学することは同じではない。哲学は哲学者のものではなく、アマチュアであっても哲学しながら生きることはできる。
・・・このこと、いつまでこだわるだろう。それがいやでボツにしたか。

『私にそんな資格はない』
日曜にクチナシの鉢植えの手入れをしてたら、大きな蜂が飛んできてびっくりした。だが、蜂にしては羽音があまりせず、よくみるとどうも蜂ではないようだ。
とりあえず、部屋に逃げ込んでから“蜂のような虫”と”クチナシ”で検索をかけたら、オオスカシバ(https://www.insects.jp/kon-gaoosukasiba.htm)というスズメガの仲間だそうで、さされる心配はなさそうだ。ほっとして、作業を続けた。
土いじりをしていると、いろいろな昆虫にお目にかかるが、そのほとんどの名前は知らない。テントウムシやカミキリムシはわかるがそれぞれの正式な名前は知らない。
そんな虫たちは、葉っぱをかじって、ひどいときには丸裸にしてしまうほどで、駆除の対象となる。蚊やダンゴムシ、ムカデも害虫呼ばわりして駆除する。だが、それぞれの昆虫を見ると、それはよくできていて、美しい。
そんな昆虫を、たたき殺したり、薬を撒いたりして駆除しているがそんなこと、私はやってもいいのだろうか。
・・・全ての生き物に生きる権利が。

『過去の栄光に満足するな!』
過去の栄光にすがって生きるようになるのは、認知症の第1歩という話をどこかで聞いた。
iPS細胞でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥先生は、日本最高の科学者として、この国の科学技術の発展を牽引している。iPS研究はその後、他の未分化細胞の開発に伴って一頭地を抜くほどのものではなくなりつつあるが、その発想自体が色褪せることはない。

『ソクラテスの弁明は単なる事実か謙遜か』
先日読んだ小説に、”文字で表すことはできるけど、実際には存在しないもの”が主題として提示されていた。
私は知らないことを知っている
私だってそんなこと百も承知で毎日ヒイヒイ言いながら病理診断の仕事をしている。
・・・話が大きくなりそうで撤退。

『仕事が遅いと相手に無礼に』
締め切りまじかの仕事をなんとか仕上げて、メールに添付して送る。
その時のメールを読むと、つくづく無愛想な文面だと思う。礼を欠くようなものではないが、首を長くして待っていた相手に用件と簡単なお詫びだけというのもどうだかと思うが、こっちも切羽詰まっているのでとにかく送ってしまえとやってこうなる。
一応、先方が依頼してきたことだからなんとなくこっちのほうが仕事をしてあげた、というような感じになるのだが、引き受けた時点ではそうでも、ちょっと遅れたという状況ではこっちのほうに非がある。
・・・今となってはなんの話か。

『私の混乱』
今、私がしなくてはいけないことはなにか?
病理医としての医学の研鑽か、より良い世界を手に入れるために自分にできることを考え、そのための勉強か。
過去の偉人も、現代の他の巨匠にしてもそのためのアドバイスは示唆してくれるが、その答えは与えてくれない。
・・・どうしたことか。

『自分が死ぬときのこと』
叔母のお兄様という方が亡くなった。叔母といっても母の弟の連れ合いなので、私と血のつながりはなく、遠い親戚だ。82歳で、がんだったものの、つい数日前まで仕事していたのに、急に容態が悪くなり、そのまま帰らぬ人となったそうだ。
私はどんなふうに死ぬのだろうかと考える。

『中高年男性VSその他 という』
駅のホームに若者の集まりがいた。夏休み中なら当たり前の光景だ
この先の私が降りる駅よりずっと先の観光地に向かうのだろう。みんなお行儀よくマスクをつけているが、帰ってくるときまでにどのぐらいがつけているかはわからない。ちなみに鎌倉駅に帰り着いた時、海から帰ってくる若者の中でマスクをつけている人は少ない。まあ、鎌倉の場合マスクをつけていない不良を気取っている大人も多勢いるので、比較は難しいか。それはさておき、彼ら若者は活動的で、未熟で多くのことを知らない。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)さえなければ彼らはずっと自由に、たくさんの人と関わり言葉を交わすことができただろうに、それができない。それどころか彼らは感染の媒体として大人からは目の敵にされている。重症化のリスクの高い年寄りなどいないところで彼らはのびのびしたいだろうし、彼らにとってはちょっとした風邪程度でこれほどの不自由な生活を強いられているのは我慢できないことに違いない。私が彼らの立場だったならそんな世界を恨むことだろう。
中世で大流行して多くの人の命を奪ったペストは老若男女分け隔てなく襲って中世ヨーロッパを席巻した。だが、COVID-19の標的は中高年男性だ。私にしても、かつての喫煙者で、血圧も高い。感染したら死なないまでも、随分苦労するだろうと思う。結局のところ、私たちの世代以上の持病持ちの男性を守るために他のグループの人たちに犠牲を強いているとも言える。中高年男性>中高年女性>若年男女の3グループに分けた場合、3分の2が割を食っていることになる。
前々から言っていることだがーーーよその国のことは別としてーーーこの国は若者を食い物にして生きている。とんでもない若者もいるにはいるが、そういう輩は目立ちたいから目立つような行動をするので、目立って目につくだけだ。多くの若者は冒頭に挙げたような、未熟で不用意な行動を取ってしまうことのあるおとなしい者がほとんどだと思う。
・・・8月17日のエントリー、もう完成していたのに。

『隷属的服従 という概念』
先日書いた”自発的隷従論”に基づいたエントリー『自発的隷従が今日の私の改造マスク』で、当初私が勘違いして編み出した”隷属的服従”という考え方、案外今の世の中に起こっていることではないかと思って、考えてみることにした。
・・・もっと考えてもよかったのに。

『おこもり生活によるルサンチマンからの解放』
家にいる時間が長くなると、考え方も狭くなってしまう可能性はあるが、かといってこれまでーコロナ前ーのように他人と関わり過ぎてストレスを感じることも少なくなった。
私自身、やるべき仕事は明確になったし、どこそこの誰が教授になったなどということが気にならなくなった。多くの人との関係性がネットを通じて等間隔となったからかもしれない。
もちろんコロナをものともせず、人と人との距離をつめてマウントしてこようとする人がいなくなるわけではないものの、新しい生活様式が提示されたことでそれらの人のプレッシャーは断末魔の叫びのようにも聞こえる。
インターネットの普及した今の社会に降ってきた新型コロナウイルスcovid19はルサンチマンの構造?を大きく転換させていくのかもしれない。
・・・ルサンチマンとは、弱者が強者に対して「憤り、怨恨、憎悪、非難」の感情を持つこと。

『新型コロナと無縁の人っている?』
全世界を大混乱に陥れている今回の新型コロナウイルス感染症、これから無縁の人、というのはいるのだろうか。
全ての存在は関係を持っている統一体だから、皆んな関係しているなんて当たり前だなどというのはナンセンスだ。それよりはもう少しはっきりした、実体としての新型コロナとの直接の関わりという意味で、無縁の人はいるか、おそらくいないだろう。
これってすごいことだ。
いくらキリスト教の宣教師が世界中で布教をしたって、世界中の人に関係を持たせることはできなかったがコロナは違う。南米の先住民の間にもコロナが持ち込まれたため、大変なことになっているというニュースがあったほどだ。
・・・新型コロナは全ての人に襲いかかる。

『ギムザ染色を乾かすときに使うドライヤー』
この前、病理医がたくさんいる病院の病理診断科の部屋で、剖検から戻ってきた若い病理の先生に、少し年長(とはいっても若い)の病理の先生(これも若い)にむかって、
「髪の毛もう乾かしたんですか?早いですね、もしかしてギムザ染色を乾かすときに使うドライヤーを使ったとか。」と冗談を言っているのが聞こえてきて思わず笑ってしまった。
その先生の言い方も面白かったのだが、なんというかそういうなんてことない家庭用のドライヤーをギムザ染色のための乾燥固定標本作成に使っていて、でも、それが命にかかわる診断に結びついているというのが”いかにも病理”という感じがして、面白かった。
なぜって、高価な医療機器を駆使して診断とか治療をする臨床と違って、病理ってホルマリンとかHE染色とか安上がりなものばかり使っていて、本当にコストパフォーマンスがいいと考えると、なんとなくいい気分になった。
・・・内輪話でイマイチと考えたか。書き始めは面白いと思ったのだが。

『顔が覚えられなくなってきた』
この前、女性医師の顔がよくわからないと書いたが、男も40歳前後だとわからないということが判明した。
あの服のせいだと思うが、それにしても区別がつかない。
・・・年のせい。

『私がやってていいのかな』
この前、急ぎの診断をするために、夏休みを一日早く切り上げて出勤したのは臨床的には大いに役立ったみたいで、感謝の言葉をいただいた。私としては病理医として当たり前のことをしたまでで、たまたま息子の結婚式がそう遠くないところで行われ、そのままその地にとどまっていただけだったのでそんなことができただけなので、あまり言われると、患者さんのために夜を日に継いで仕事をしている臨床医に申し訳なくなってしまう。もちろん、彼らは数人の医師団であって私は病院に一人しかいないという違いはあるが。
曲がりなりにも病理医として仕事をさせてもらっているが、それはこのような専門的な医療を行う病院であるからなんとかなっているような気がする。ある意味つぶしがきかない参入者の少ない領域なので、30年近くやっていたら自然と専門家面してやっていることが出来る。これが、ありふれた癌の診断でもをやっていたら、そう目立つこともない。
医者になるには、医学部に入らなくてはならず、昔から狭き門といわれている。したがって、優秀な人材はたくさんいて、天井知らずだ。筑駒開成灘の卒業生はもうそれだけで優秀だし、二番手高校の卒業生でも難関医学部出身者もとても優秀だ。そんな中で私が同じ医者を名乗っていいのだろうかと疑問に思うことがある。決して学歴とか偏差値のことを言っているのではない。当然のことながら、優秀なだけで人間的に使えない医者も少なくないが、それはせいぜい3割ぐらいだろう。1学年100人中の30人が使い物にならなければ、それはさすがに目立つが、製品の歩留まりなんてそれでも十分だ。優秀な人の残り7割ぐらいは普通のコミュニケーションがとれるし、その半分ぐらいはコミュニケーション能力も高いので、どうやっても追いつくことは難しくなる。
もう60が見えてきたところで、こんなことを言っているのもおかしいが、天賦の才とはそんなもの、だれもが同じように与えられるものではない。
・・・若年人口が減ると医学部のハードルも低くなる。

『変に偏差値の高いところを目指したばっかりに』
私はなぜ哲学を勉強する道に進むことが出来なかったのか。今でもそのことを考える。その理由の一つが大学入試だったとしたら、それはバカバカしいことだろうか。
文系の科目は得意だったが、東大の文学部に余裕で入れるような成績ではなかった。そこで、文理どちらに進むかを決めるとき、私は父の勧めに従って”転んだ”わけだが、親に勧められるまま医学部にすすむため、理系にすすみ、そこそこの私立医大にもぐりこみ、何とか病理医となり、現在に至る。ただ、あの時、東大もしくは京大に固執することなく、どこの大学でもいいから哲学を勉強したいと考えるほどの切迫感はもっていなかった。
・・・夢を実現するには、現実的になるべきだったかも。

『学問する意欲』
先日、専門領域仲間の病理医からのメールに、親の介護と専門分野の診断業務だけで毎日が過ぎてしまい、研究はほとんどやっていません、というようなことが書いてあった。
私なんぞ一人病理医で、コロナ禍で切磋琢磨する相手もおらず勉強しに出かける意欲も機会もなく全くダメダメで過ごしている。
最後に勤め上げようと転職してきた病院にももうすぐ1年、
・・・意欲がないのはコロナのせいか。

『病気とはいつから病気なのか』
ぎっくり腰の痛みは治ることなくまだまだ続いている。こうしょっちゅう痛めてしまうということは、痛めやすい状態になっているということであり、その部分の神経が傷害されているということだろう。そういう意味では私の腰痛は慢性化しているといえるだろう。
病気とはどのような状態を指すのだろう。カンギレムという人は病気はその状態を指していうとしたが、果たしてそうだろうか。たしかに新型のような感染症は感染した時点で病気の状態が始まるからわかりやすい。だががんはどうか。発癌のメカニズムはいまだ不明な点が多いが、多段階発癌という考え方に従えば、癌は一発で癌なるわけではない。
・・・これも難しい話題、もう少し考えないと。

『ガラスの天井』
男女雇用機会均等法により女性の社会進出は一定の結果を見ることができたように思う。少なくとも医者の世界では男女比は半々に近づきつつある。通勤途中にすれ違うのも男女比は6:4といった感じだ。今後はガラスの天井をどう打破していくか、男女間の競争が公平になされるようにするのはまだまだ難しいだろうから、クオーター制など男女の固有枠を設けての登用を考えなくてはならないだろう。男性にしても女性にしても働きたい人は働く、子育てをしたい人は子育てと、そんな社会が実現してくれるといいのだが、まだそれには時間がかかりそうだ。
・・・女性の地位向上は喫緊の問題。

『社会規範のハードルの高さの低下』
いろいろな考え方があることが明らかになってきて、自分と同じような考え方をしている人が他にもいるということを知り、そのことで自分を正当化することが昔よりも容易になってきている。社会規範のハードルが、いい意味でさがってきているわけだが、屁理屈、自己正当化にもつながってしまうわけで、考え方は難しい。
・・・お手本となる大人のいない社会。

『休日って、』
朝の空模様にはがっかりしたが、昼前からやっと晴れた。

『妻の弁当』
今の職場に移ってから1年以上経つ。食堂の昼食のシステムがよくわからず、食べたいと思っているのにありつけないとか、孤食よりも技師さん達と一緒に食べてコミュニケーションをとったらいいのではと、妻に弁当を作ってくれるように頼んだ。
それからかれこれ1年がたつ。毎朝私だけのために作ってくれている。
・・・1週間後に別に”毎日のお弁当に感謝”というタイトルで書きました。

『人間だけがわがままで』
夜、ヴェランダに出てみると静か。
自分の存在を感じる。
昼間、あたりをウロチョロしているリスも雀もいない。
ふと思う、彼らはこんな家も何もなく野山で暮らしている。ほんの小さな巣とけもの道さえあれば十分だ。人間だけが自分の体の何倍ものスペースを使って生きている。
・・・もっと謙虚に生きよう。

『”老いては子に従え”って、いつの間にやら自分が老いてた』
何でも知っているような気でいたが、実はもうそんなこと全くなくなっていた。最近、病理診断を取り巻く環境も急速に変化していて、ただ、標本を診て形態像から診断していたらいいという時代ではなくなった。
・・・年のことが多い。

『ご本人はどうだったのかわからないが』
新型コロナウイルスに感染し、2日に退院した歌舞伎俳優・片岡孝太郎(52)が3日、ブログを更新。医療従事者への感謝を記した。  孝太郎は11月22日未明に微熱があり、PCR検査を受けたところ、陽性が確認された。2日のブログでは「当時軽度との診断でしたが入院を希望しそのまま減圧隔離病棟へ入らせて頂きました」と説明していた。約1週間は発熱を繰り返し、平熱状態を72時間経過したため、2日午前に退院できたという。  3日夜に更新したブログでは、「減圧隔離病棟の四人部屋」に入院していたこと、シャワー以外は部屋から基本的に1歩も出ることができなかったこと、部屋に入る度に看護師さんが防護服を着脱していたことを伝えた。  「正直四人部屋で窓も開けられず皆んな咳込み 夜になると皆体温が上昇し自然と咳も出ますし 朝まで咳込み続ける患者さんも」いたという。  さらに「隣の患者さん」が「あんな飲み会でうつるくらいならヤバイよ」「俺死にかけたけどレムデシビルで助かったよな アレいくら?」と話していたことを明かし、「正直腹わたが煮えくりかえりました」と告白。「看護師さん医師の方が命懸けで働いてくれているのにコイツは…、と」いう思いだったという。  世話になった看護師さんが、食堂で「うつるからこないで」と差別を受けていること、クルーズ船の感染者から対応をしている看護師さんがいたこと、などを伝え、「一番お世話になった身で恐縮ですが是非皆さん一緒に医医療現場の方に感謝しこの日本を守って頂けたらと改めて考えさせられる今日この頃です」とつづった。  なお孝太郎は後日、この投稿を削除している。(※一部加筆しました)。
・・・真相がよくわからないので。

『政治家が先導する新型コロナ感染拡大』
・・・タイトルだけ
ボツ記事、39もあったか。世に出すことはできなかったけど、この先のブログ作成の糧にはなるでしょう。
あと1日

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この程度ならいいのでは?

2020年12月29日 | 日々思うこと、考えること
床屋に行くのに鎌倉駅の近くを通ったら、けっこうな人出。若い人が多いのは新型コロナウイルスに感染しても重症化のリスクがほとんどないという安心感のせいだろう。将来、二人で一人の老人を支えなくてはいけなくなるならばこれを機に減ってくれたほうがいいと思う人もいるだろう。世代間格差は世代間闘争を生む。まあ、仕方がない。中高年者はせいぜい自己防衛するしかない。

(東京国際フォーラム・・・有楽町は閑散としてた)
ガラガラポンで、世の中の仕組みが変わりつつあることを自覚しない人が感染し、ある人は重症化し、さらには死ぬ。それでも生還した人は抗体があるからとまた、元のような生活に"安心して"戻ってしまうだろう。これは残念なこと。犯罪に近い。

(ホームから見た新橋駅前はガラガラ)
昔からの床屋は都内にあって、片道1時間かけて行く。繁華街はそこそこの人出だけど、昼間この程度ならいいのではないだろうか。やっぱり問題なのは夜になって宴会やって、クラスター起こして病床を占領するおっさんなわけで、若い人に責任はないように思う。

(東京前もパラパラ)
今夜から明日午前は雨になるということで、天気は下り坂とのこと。
やらなくてはいけないことはいろいろあるが、明日はどうしよう。
お墓まいり

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1年なんとかやりおえた

2020年12月28日 | 日々思うこと、考えること
仕事納めの朝は曇天。
日中は雨が降るかもしれないとのことだったけど、帰りには綺麗なお月様が出ていた。

多くの人が先週いっぱいで仕事は終わっているようで、電車の混雑は先週末の半分ほど。
緊急事態宣言が出されていた時は、このまた半分以下だったのだから、通勤も楽だった。
私の通常勤務は今日でおしまい。
緊急手術があったらよろしくと、外科の医長が年末の挨拶にきてくれた。
気のいい礼儀正しい人で、私は気に入っている。
去年の忘年会は楽しかったですね、などと今となっては懐かしい話をした。
何はともあれ1年、誤診らしい誤診なく過ごすことができてよかった。

そう、結局、12月も会食なしだった。
今年1年で、家族以外との外食は5回もなかった。
複数人以上での会食は息子の結婚式ぐらい。
あの時は隣のテーブルの声がやっと聞き取れるぐらいの距離をとっていたから問題はなかった。
父の葬儀では精進落としはおろか弔問のお客様にはお茶も出さなかった。
親族だけで行った叔母の葬儀でも早々に帰ってきたし。
GoToも、移動そのものよりも行った先での会食のほうが問題らしい。
本質的なことを考えずに行動するから、あるいはさせてしまうから、かえって自分たちの首を絞めることになる。

ひと月ほど前に、”日本はGoogle予測に負けてしまうかそれとも勝つか”、というタイトルのエントリーを書いたが、その結果は果たしてどうなったか。
Googleによると、予測期間11月25日から12月22日の28日間で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)により新たに亡くなる人が771人、予測される新規陽性者数が94,910人とのことだった。
11月26日での新規感染者数は1,848人で、感染者累計は135,787人、累計の死亡者数は2,021人だった。
これが、12月27日の新規感染者数は3,756人、感染者累計は215,461人
累計の死亡者数は3,212人だった。
この期間の新規陽性患者数は79,674人となったが、新たな死亡者数は1,191人と予測を上回った。

Googleとは引きわけか。
今後の予測をみると死亡者数の増加ペースは同じようだが、新規感染者数は横ばいになるような感じだ。
総理大臣以下、強弁ばかりのみっともない政治家があとを絶たないが、国民の多く(私の感覚では8割ぐらい)は踏ん張っている。
年末年始も、マスク、手洗い、三密回避を心がけて過ごしたい。

休暇に入ると、エントリーを書く時間が減ってしまい。
年末年始体制でつまらなくなるテレビ番組のようになってしまうのは恥ずかしいのだけど、毎日ちょっとずつは書こうと思うので、のぞいてやってください。
静かに過ごそう

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ポカポカ陽気で土作り

2020年12月27日 | ガーデニング・菜園・花・緑
朝からポカポカ陽気。
プタンターの土をふるいにかけて1日過ごした。
今日はふるいにかけただけだけど、年内に土作りの準備を終わらせたい。
夕方からは、Zoomで同窓会。9人しか集まらなかったが、1人はヨーロッパからの参加。Zoomを通してだと、洋の東西も関係なく面白い。久しぶりに会えた奴もいて懐かしかった。
ちょっと腰が・・・

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すっかり年の瀬

2020年12月26日 | 日々思うこと、考えること
クリスマスも終わり、天気はいいけれど陽の光はいかにも弱くすっかり冬の空。
藤沢まで車で往復したら、道路はそこそこ混んでいて、商店街にはずいぶん人が出ていた。鎌倉に戻ってきたら思っていたより観光客が多く、ちょっと驚いた。
街の雰囲気はすっかり年の瀬。店先には正月飾りが並んでいたが、わが家は喪中、今年は門松を立てることはないし、おせち料理も作らない。
今年の年末は掃除と、いくつか溜まっている原稿にある程度形ができたらいいと思っている。
来週も仕事があるから、とりあえず、この土日はいつもの週末。
ぼんやりしてもいられない

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若い人たちへ何をしたらいいかを考えたい

2020年12月25日 | 人間関係
 こんなに美しい朝焼けだと、天気が崩れるのではないかと心配になるが、天気予報どおり好天となった。
 昨日、今日あたりから冬休みが始まったのか、駅のホームから学生の姿が消えた。電車が空くのは嬉しいが、少し寂しくもなる。学生さんの半分ぐらいはスマホをいじっているが、熱心に勉強している子、大きな口を開けて寝ている子、ぼうっとしている子、スケベそうな男子と口説かれている女子など様々。そんなのを見ているとそれなりに面白い。小学生など人間関係がわかりやすく、これまた面白い。都内の小学生はたいていは私立に通っている子なので、そういうアッパークラスの子女というのがどういうものなのかを知る機会にもなる。

 毎週日曜日に近くの小学校の校庭を借りて練習している少年野球チームがある。子供の声は悪くはないが、まあ、よく毎週毎週朝から午後遅くまでよくこれだけできるものだというほど猛練習を積んでいる。野球が好きなのかどうかは別としてスポーツに熱心に取り組むことは大切だ。野球がなければもしかしたら朝から晩までゲームで、あとは塾に行くぐらいとなってしまうかもしれない。そのまま大人になってしまうのもどうかとは思う。

 その野球チームを見ていて思うのは、指導者の質。最近は減ったが、子供のことを大きな声で貶すコーチがいて、そのことが気になってしまう。まるきりパワハラで子供達の甲高い声よりも、そのコーチの罵声の方がよほどの騒音で毎週嫌な思いをしている。ある時、散歩の途中、準備体操を行なっているのを見たが、そのやり方がいい加減。子供に任せきりでコーチは保護者とおしゃべりしていて見ていない。準備体操をおろそかにするようなダメコーチに指導されている少年たちが不憫に思える。この時期に、理論的にアップの重要さを教え、常に意識して行えば一生の宝になるのに残念だ。少年スポーツの指導者の質があれこれ言われているが、それぞれのグループによりやり方があるので、いちいちそれに口を出すことはできない。強ければいいというわけでもないし、難しい。高校野球の世界だってそうだ。

 若い人たち、というのをどう大成させていくかというのは少子化高齢化に直面しているこの国にとって重要な課題。社会全体で守り育て上げるという意識がなくてはいけないのに、そういう雰囲気は乏しい。せめて大人が率先垂範して立派に生きることだと思うが、格差の拡大はそうすることも難しくさせつつあって、大人は自分たちのことで精一杯。手本になるべく政治家の権威は地に墜ちている。
私自身、若い医師にどれほどのものを与えているかというと自信はない。AIの発達により、どの分野においても技術的なことの継承というのは徐々に減っていくだろうから、それ以外の点で何を伝え、何をサポートしてあげることができるかということを考えていきたい。
みんなでそうしなくては

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コロナでわかった要不要(下)

2020年12月24日 | 日々思うこと、考えること
新聞を取りに玄関を開けたら暖かい。南寄りの強めの風が吹いているけど、そのおかげで気温が上がり、体も今日はホッと一息。いつの間にかクリスマスイブ。昨晩、東横線を使うのに渋谷駅で乗り換えようと思ったら、少し迷ってしまった。渋谷の場合、学生時代通学で利用した記憶があるのが邪魔をするのと、東横線が地下に入って以来、地上も地下も動線がどんどん変わってしまうので仕方がない。渋谷では山手線から東横線に乗り換えるには一旦外に出なくてはならなく、ハチ公口から乗り換えようとしたらものすごい人出。これでも、かつての賑わいからは程遠いが、こんなではもう感染爆発は抑えようもない。なにより若い人が多く、彼らにとってはたかだか風邪の一つの新型コロナなど恐るるに足らない。中高年男性の重症化などよりもクリスマスの方がよほど大事と彼らが考えるのは当然だ。結局のところわれわれ中高年者自身が感染拡大を防ぐしか手立てはあるまい。それなのに、どこかの市議会ではコンパニオン付きの忘年会をやったとか(”宴会”した議員らが謝罪「コンパニオンはコロナ感染対策のため」と説明 愛知県西尾市)。

昨日は、社会で必要な人としてエッセンシャルワーカーと言われる人について考えてみた。今日は、不要と考えられる職業について。不要といっても、これまでには必要だったから現在存在するようになっているので、正しくはその価値観を見直す必要がある存在といえる。いま現在苦境に立たされている各種の職業が必ずしも不要なものとはいえない。スポーツにしても音楽にしても飲食業にしても、不要なわけがない。ただ単に、これまでとは違った形で提供しなくてはならなくなったということ。”これで稼ぐ”という人が生き残るのは難しくなるかもしれないが、”これがしたい”という人はそれぞれの分野で生き残っていけるのではないか。

私が一番不要というか見直しが必要だと考えるのは結局のところ議員と呼ばれる人たち。コミュニティーでの話し合いを代表して行う、決まり事を作る、そういったことを、行なってくれる人すなわち議員は必要な存在だ。ただ、こんなに高い給料を払う必要はあるのかと思う。高そうな布地の背広を着ている代議士がテレビに映っているのをみると、この人にこんな服を着てもらうために高い税金を払っているわけではないのにと思う。高級料理店での食事の話を聞いてもそうだ。この人たちにそうさせてあげるだけの価値があるとはとても思えないのだ。
政治家一般に言えることだろうが、”主導権を握ること”で存在感を出そうというのも、今回のコロナ禍を悪化させている原因となっている。医学的知識など全くないにも関わらず、専門家委員会を”分科会”に切り替え、東大出の担当大臣をつけて、主導権をコントロールしようとしているが、医療というのは人間の体について十分訓練した人間でなくては理解できないものだから、コロナのコントロールをしようなんて土台無理な話だ。そもそも医者は主導権を握ろうなどとは思っておらず、皆が健康になってくれることばかりを願っているのに、政治家にはそれがわからないのはとても残念。

議員が不要などという気は全くないが、その働き方は見直さなくてはならない。先日も書いたことだが、会議の大半はオンラインで行えるだろうから、すぐにでも切り替えるべきだし、そうしたら各種経費が大幅に削減されるはず。私の知る限りでも、給料にあたる議員歳費が2000万円で、文書通信費は月100万。あわせて3000万円以上のお金を税金で賄っている。こんなもの、国会休会中はズーム会議でやれば、月100万も要らないはずだ。国家存亡の危機にいったい何を考えているのか。少しでも生活の苦しい人に分けようと思わないのだろうか。そんなわけで、不要なことの一番、というか変えなくてはいけないこととして、議員の働き方、経費削減が最大のものだと思う。与野党ともにそうなのだからたまらない。議員の経費削減が無理だというなら、議員定数の削減か。
コロナ禍はもう、待ったなしの状況。今、多くの”不要”を見直さなくてはならない。菅さんも縦割り行政の解消を訴えているが、いかにもスピードが遅い。トランプさんが大統領令を次々と出したのを見習い、抵抗勢力を突破し、断行してほしいものだ。
そうでなくては今の政治不信、自身の支持率低下を防ぐことはできない。
起死回生はこれじゃない?

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コロナでわかった要不要(上)

2020年12月23日 | 日々思うこと、考えること
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は”不要不急”という言葉を再確認させることとなった。何が必要で、何が不要かと簡単に決めることは難しいが、エッセンシャルワーカーと言われる人たちが就いている職種が必要であることはある程度はっきりしている。そんなわけで、今日は必要な人について。

私の周りを見回しての話だが、一番ありがたいのは清掃局の人、病院の清掃業務を行なっている人。ゴミの回収の時に会うようなことがあったり、トイレを使う時にちょうど掃除をしていたりしたら、”お疲れ様です”と声をかけるようにしている。元はと言えば妻に促されて始めたことだが、コロナ禍で本当にありがたいと思うようになっている。声がけのタイミングが合うと、皆さん喜んで返事を返してくれる。
スーパーのレジの方もありがたい。何十、何百人という客と接し、たまには愛想の一つも言ってなどというのは随分と大変なことだと思う。ビニールシート越しだと声が聞こえないことがあって、聞き返すこともあるが、仕方ない。この前、テレビでビニールシートに文句を言って、レジ係を困らせている人の映像が流れていたが、そんなことしたって仕方ない、ストレスの吐け口にしないでほしい。

離職する看護師さんが増えていることが深刻化している。実際、感染のリスクを抱えながらコロナ患者を相手にしている上に、家族がハイリスクグループとして扱われていてはたまったものではない。心が折れるのもわかる。看護師さんだけでなく、医療従事者およびその家族は大なり小なりそういう扱いを受けている。病院に出入りしているというだけで、リスクはあるので仕方ないのだろう。

他にも多くのエッセンシャルワーカーがいて、それぞれのところで奮闘している。ただ、どの人も新型コロナウイルス感染の危険と背中合わせで、そのことはすなわち、世間からの差別に繋がる。誰もが感染のリスクにさらされている今、差別をしたところで、では自分がかかったらどうする?と想像力を働かせてほしい。何もできなくなった時、頼るのはそういったエッセンシャルワーカーの人たちだということを思ってほしい。
明日は"不要"

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気がついたらもう5時

2020年12月22日 | 自然災害・事故・感染症
昨日休んだのがよかったのか、今日の調子、悪くはなかった。コロナ禍の中、毎日東京まで出かけて、仕事をするというのがストレスになっているのだろうか。いずれにせよ、昨日の休みのおかげで年内いっぱい、ラストスパートができそうだと意気込んでいったら、いきなり臨床の医師がやってきて迅速診断をどうしようとか言ってきて、ディスカッション。昼過ぎに別の迅速診断を終えたところで、別の科が飛び込みで迅速診断を依頼してきて、てんてこ舞い。病理医は一人しかいないんだから、飛込とかはなしにしてくれないと困る。困るのは臨床医だけど、困らせたのが私となるといい気分はしないものだ。
(中略)
ということで、結局今日も気がついたら5時。昨日と同じでなんでも集中してやっていると、というかやらざるを得ないでいると時間はあっという間に過ぎるということか。

東京都の小池都知事は休みも関係なく連日登庁してる様だが、決断の連続であるこの緊張する局面の中たいしたものだ。尾身先生もそうだが、代わりがいないリーダーの方々の体調も心配になる。無理のないようにしていただきたい。
その小池都知事が”年末年始は自宅で過ごしてほしい”、尾身先生も”忘年会、新年会はやめてほしい”と明言した。具体的に禁止事項を言うしかない状況になっているということだ。それでも宴会をやる人はいるかもしれないが、これでだいぶ収まって、医療供給体制の立て直しを図ることができるのを期待している。医師、看護師の逼迫状況が連日報じられているが、それよりよほど少ない人数で回している臨床検査技師だって大変なのだ。

イギリスでは感染力が倍近い新型コロナウイルス(COVID-19)の変異株が出現したらしい。ロックダウンをはじめとする封じ込め策をくぐり抜けて、感染能の高い株が生き残ったということか。
変異株の出現は好材料となるか、脅威となるのかはまだわからない。
好材料というのは、新型コロナが感染力と引き換えに弱毒化している可能性があるのではないかということ。ウイルスとしては、感染した宿主を殺すのが目的ではないから、そういう駆除される型でいるよりも人間と共存できる型でいた方がいい。そうであってくれたら、いわゆる風邪の一つとなって、人間と共存してもいいことになる。
脅威というのは新型コロナウイルスの血管内皮細胞傷害という特性は保持されて多数の人に感染する上、次々と重症化させるというシナリオ。この場合、宿主数がある程度減るまでウイルスは暴れるだろうから、多数の命が奪われることとなる。

家にこもっているのが一番だが、どこから誰がもってくるかなどわからない。用心するに越したことはない。さて、年末はどうやって過ごすか今から少しずつ考えていこう。
掃除と断捨離

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あっという間の1日

2020年12月21日 | 日々思うこと、考えること
妻に所用があり私は年休を取って留守番。年休がたくさんあまっていたのと、このところ体調がイマイチだったので、ちょうどよかった。
いつもとは逆に駅まで妻を送る。気温は0.5度寒い。まずはゴミ出し。今日は燃やすゴミの日。次は、コロの散歩。
幸いいい天気だったので、スチーム洗浄機で玄関周りを掃除することにした。温度が上がるまでに、掃き掃除。気がつくともう10時。布団を干してから、庭の草木に水遣り。昨日植田球根などにたっぷり水をやった。そのあと、玄関の掃除。他にも汚れているところがあったので、それらをやり始めたらいつのまにか1時過ぎ。
昼を食べたら、もう2時で、日が傾いてきている。
そう、今日は冬至、陽の出ている時間が一番短い。家の西には山があり、日が陰ったら布団はあっという間に冷たくなるので、急いで取り込んだ。
ちょっと、散歩して、帰ってからは・・・中略。

柚子湯の準備をしてから妻を駅まで迎えに行った時には気温は3度。寒い。
主婦というのは忙しい、そのことを実感した1日だった。
仕事はまったく

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今日はステイホーム

2020年12月20日 | ガーデニング・菜園・花・緑
最高気温が10度。昼前後は日差しが暖かく感じられるたが、3時を過ぎたらもう寒い。真冬の寒さ。今日は1日ステイホーム。妻と一緒に花壇の手入れや、寄せ植え作り。あっという間に時間が過ぎた。
匍匐性のビオラ。先週ハンギングに仕立てたのを気に入った妻のリクエストで今度は大きめの鉢に寄せ植え。これからの寒い季節、頑張って乗り越え楽しませてほしい。
久しぶりに挑戦した壁掛けハンギグは、土の入れ方でちょっと失敗し、ビオラを2株ほど枯らしてしまった。土が少し抜けているところがあったので、外から小さなシャベルと指で押し込んで埋めた。面白い形のハボタンを植えたものはしっかり育っている。
妻の花壇。色合いとか上手で、センスにはいつも感心させられる。どこがどうというわけではなく、完成した時点でのまとまり。この下にはチューリップの球根が植えてある。チューリップが咲いた時点で完成となる。
夜はワインで

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外出

2020年12月19日 | 日々思うこと、考えること
年越しの準備、といっても来年の正月は喪中なので、これといったことはしないのだけど、少しはということで都内のデパートに。結構な人出だったが、ほとんど全ての人がマスクをしていたし、出入りの手指消毒もしっかりやっていた。
新型コロナウイルスは空気感染ではないので、これなら大丈夫だろうと思う。
これもまあ、正常化バイアスかも知れないけれど、やっぱり、感染は3密&大人数の会食だろう。
寒い1日

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12月ー忘年会=安全+健康+お金±人間関係

2020年12月18日 | 人間関係
 気温が0度の中に出て行くと、さすがに寒い。マスクから漏れでる息で眼鏡が曇って仕方ない。おかしな動悸もして嫌な感じ。年齢を自覚し、少しゆとりをもたないと。雪国から来た貨物車が落としていったのか、新川崎の操車場には雪の塊が落ちていた。

 この暮れは忘年会がない。もちろん新型コロナウイルス感染症のせいだが、こんなこと、社会人になって初めてのことだ。そこで、12月から忘年会を取ったら何が残るか考えてみた。

『安全』
 遠距離通勤者である私にとって、忘年会は時間との戦いでもある。一次会で切り上げれば電車に乗るのも9時台だからとくに問題はないが、二次会に行くとなると終電の時間をにらみながら、カラオケの画面と時計を交互に見ながらとなる。楽しいのだか、酔っているのか、そんなことなら一次会で切り上げたらいのにと思いもする。これはまあ仕方ないとして、問題はそのあとだ。終電間際の混雑した電車は自分を含め酔っ払いだらけ。でも、そんなとき気をつけないといけないのが、乗客同士の喧嘩と居眠り。一度、ひどく酔っ払った中年男性を睨んだら喧嘩を売られて困ったことがあった。その時は慌てて逃げた。若い頃は、寝過ごして終点で起こされることも何度かあった。これまで、置き引きに遭わずにきたことが嘘の様だ。置き引きに注意する様にというコメントをある時いただき、それ以来注意はしているが、いざ飲んだらどうなるかなどわからない。そんなわけで、まずは安全が出てきた。

『健康』
 二つ目はいうまでもなく健康。午前様で帰宅して、2時近くに寝て6時前に起きるなんてことをしたら、それは睡眠不足で体をこわす。酒も抜けきらないうちに寒さの中に出たら心臓にも負担がかかる。もちろん仕事にも差し支えが出る。遠距離通勤の人には、忘年会の日は職場の近くに泊まるなんていう人もいるが、そうまですることか。あと、カラオケで喉もすっかりやられてしまう。
当然のことながら、新型コロナ感染のリスクは低くなる。病院で忘年会をやってクラスターを発生させたらさぞや凄いニュースになるだろうが、そんなことはもちろんしない。それなのに、どうして政治家だとかのお偉いさんは忘年会などやるのだろう。

『お金』
 例年この時期、どこの飲み屋もその店の前も混んでいるのに、今年は駅前の飲み屋の中をガラス戸越しに覗くとどこもガラガラだ。今夜など忘年会のピークの日だろうが、普段とあまり変わらない、というか普段以上に空いている。帰宅の電車に乗る人は、皆東京から逃げ出そうとしているかの様にみえる。まるで蜘蛛の子を散らすかの様だ。忘年会の無い年末を過ごしている人は思いのほか多いに違いない。飲食店にはお気の毒だが、感染症が相手ではしかたない。そして、結果として飲食店に払うお金はまるまる手元に残っている。立場上、会費はすこしばかり多く払うから、3度4度となるとバカにならない。経済を回すというのはこういうことだとわからないでもないが、もともと飲まない人もいるので、一概にはいえないかもしれない。
『人間関係』
 さて、±として最後に付け加えた人間関係。忘年会といえば、職場やそれぞれのサークルなどでの1年を振り返り、互いの労をねぎらうものだ。メンバー間の親睦を深めるのだが、度がすぎることがある。アルハラ、パワハラ、セクハラとなって、人生棒に振る人だっている。そう考えると両刃の剣。私もアルコールで失敗したことは数知れない。そういった危険がないということはとても心休まる。そんなわけで、忘年会なんてそもそも要らなかったのかも知れないとさえ思う。互いの思いを語りあいたいのならばオンラインでやったらいい。

 そんなわけで、12月から忘年会を取ったところで、私にはそれほど困ったことにはならないようだ。
もちろん楽しいことは楽しいのだけど

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いい加減、密はやめなよ、お偉いさん方

2020年12月17日 | 電脳化社会
怒りは快楽に通じる。
快楽は悪ではないが、それを貪るようになったらやめることはできず、さらに繰り返す。

 昨日、総理大臣が忘年会に参加したという話を聞いて初めは怒りを感じた。その勢いでエントリーの要旨だけを書いた、というのもそのことを知ったのはおとといの夜遅くだったから、忘れないうちにとその時の思いを留めておいたのだ。朝起きてから、文章を整えながら書き直そうと思って読んだら、そこには夜中に書いた怒りが溢れていた。
そこで思ったのが、やっぱり怒りは抑えなくてはいけないということ。

 元来、私は意地の悪い人間なので、他人の悪いところばかりに目がいってしまい、批判的なことをすぐに思う。時には、見知らぬ人に対して睨んだり、直接言葉にしたりということもある。気が小さいのに短気なものだからあまり格好良くないし、地雷を踏みでもしたら大変なことになる。怒って得することなどない。馬脚を露わした総理大臣の浅薄な行動を攻撃したところで自分の心が損をするばかりで、何も得るところはない。もちろん私の立ち位置からの情報を読んでいただく方に発信するのがブログを書いている目的だから、論評を加えることが悪いわけではないのだが、そこには客観性が残されてはいけない。したがって、自分の怒りを吐露するばかりでは無意味だ。
 そこで、怒りの元は何かと考えた。政治への絶望、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への恐怖、およびそれによって抑制されている自らの社会活動への苛立ち、そういったものではないかと考えた。そして、それらの先には悲しみがあるのではないかと気がついた。タイトルを自らの嘆きに変えて書くことで、多少なりとも怒りを抑えることができたように思う。
 それにしても、”怒っていたのは”私だけではなくて、日本中の人が同じような思いに捉われていたようだ。テレビやネットでは思っていた以上に叩かれていた。まあ、私の思いも仕方がなかったのかと、今回ばかりは胸をなでおろした。

 新型コロナの新時代、仕事上、実際に人と会って直接話す必要がどれほどあるのだろうか。私の勤務先でもウェブ会議がどんどん入っていて、年明けには会議室に集まるものは無くなる。私が話すのは担当医と病理技師。学会研究会もその方式が進められていて、巨大なコンベンションホールに何千人もが集まるという光景は遠い過去のものとなってしまった。
 そこで思うのは、各レベルの議会。市町村議会にしても、県議会にしても、国会にしても、議員が一堂に会して議論する必要などないのではないか。ネットで行えば聞き苦しい、時として恫喝の様な野次に議論が妨げられるようなこともないし、議事録も確実に残る。そもそもあんな密な状態で”選良の皆様”が感染の危機に晒されるなどということは避けなくてはならない。国会議員のグリーン車代を含めた移動費も削減できるだろうし、文書通信費もまたしかり。
 人と会うのはできる限りリモートにしてしまったらいい。そうすれば料亭政治、密室政治も無くなる。わざわざデジタル庁を作ったほどの新総理、それぐらいのこと、率先垂範したらどうか。そうしたら、40分にも延びてしまった挨拶も最初から、1時間2時間ゆっくり話せただろうに。PCをいくつも用意しておけば、会場のはしごだって簡単だ。
 新しい生活様式へと移行することは、これまでの利権を手放すことになる。それが出来ない人は、ある意味感染のハイリスクグループに取り残されることになる。実際、そういう立場にある人は年齢的にもハイリスクグループなわけで、感染したら大変だろうから用心したほうがいい。
密はダメですよ

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