秋分を過ぎ、街にはキンモクセイの馥郁たる香りがそこかしこに漂っている。
このブログ、こんな気持ちでいられたら、でもキンモクセイのことには何度か触れている。
私のお気に入りのキンモクセイは、自宅周辺のほか何本かある。いちばんのお気に入りは通勤で都内の駅を降りてから病院に向かって10分ほど歩いたところにある豪邸の庭に植わっていたものだった。4、5株を寄せてある立派な大木で、家の主が丹精していたことがよくわかった。
この季節、このキンモクセイの香りを鼻いっぱいにかいでから出勤すると、その日の元気をもらえるような気がした。
2011年の秋、このキンモクセイの写真を載せた記事の中で、「都市生活者は自然災害を身体的感覚として捉えることができない。」と言っている。たしかにそうだ。だから、こういう香る木は季節の移り変わりを思い出させてくれる貴重なものである。
この写真は去年の秋のもの。去年もキンモクセイ、コロ健に季節の移り変わりを知らせてくれていた(『思索の秋』)。
不肖コロ健、元来、草木に疎かったのだが、朝晩の歩きで、クチナシとキンモクセイの香りに触れ、少しずつ植物に興味を持つようになった。40もずいぶん過ぎてからのことだったが、うれしかった。
このブログでは個人宅の木や花の写真はなるべく撮らないようにしている。いくら素晴らしいものでも、所詮は人の家の庭、そのお宅の方の意向でそんなものどうとでもされてしまうからである。だから、出てくる草花、木はほとんどが遊歩道とか公園といった公共施設のもの。
だが、このキンモクセイに限っては立派で、切られたりするようなことはないと思って、何度か写真に収めていたのだ。
今年のはじめ頃だったろうか、この土地の塀にかけられた看板を読んで、どうやらこの土地になにかの施設が建てられることがわかった。
屋敷の主になにかあったのだろうか。
キンモクセイ以外にもおおきな木が多いお屋敷だったので、お庭がどうなるのか心配していた。
やがて家の解体工事が始まった。そして、無惨な姿になったキンモクセイを見て驚いた。
私が好きだった、大きなキンモクセイは2株だけ残され、あとは切られていた。
残された枝に小さなオレンジの花が見え、精一杯にかおりをあたりにふりまいていた。
私には相当なショックだった。
丸く、まるで1本の木のようになっていた見事な木だったのに、こうも無惨な切り方があろうか。
広大な土地にはなにかの施設が建つらしく、この2株しか残すことができなかったのだろう。そう思って、週末を迎えた。
そして、週明けの今朝。
キンモクセイの香りは咲き始めが一番素晴らしい。今のうちに今年の花の香りをかいでおこうと、今朝もまた同じ道から病院に向かった。
私が好きだった、大きなキンモクセイは、満開のうちに跡形も無く切られてしまっていた。もう、そこにはあの香りは漂って無かった。
これには、さすがに泣けた。
せめて、花の季節が終わるまで待っていてくれたならば、地味な木が切られただけであったのに。
さて、コロ健、あんなことを書いていたが、昨日一日中勉強していたわけではなかった。
課題にしていた論文2本を読み終えてから、夕方に妻と近所の園芸店に出かけた。
しばらく店内を回っていたら、妻が、「健ちゃんの好きなキンモクセイ、植えない?」と言って、キンモクセイを急に見繕い始めた。
以前私が庭に植えることを言ったら、虫がつきやすいからと、あまりいい顔をしなかったのだが、今回は妻から。驚いたものの、元来好きな木なので二人で選んで家に持ち帰った。
今考えると、あの、跡形もなく切られてしまったキンモクセイの精が私たち夫婦のところにやってきたのだろうか?
帰ったら、家の横のドッグランにしているところに、妻がさっそく植えておいてくれた。
あの無惨に切られてしまったキンモクセイの生まれ変わりと思って、この木を大事に育ててやりたい。
諸行無常
今日は、朝のうちにフラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩を済ませ、風邪気味で家にいる娘と一緒に勉強することにした。
某学会のシンポジウムでの発表は今度の土曜日。
発表原稿はできたが、やっと病理の写真がそろったところ。どうしても論文2本を読んで、その内容をディスカッションスライドに仕上げないといけない。今のままでは、「そんなこと知ってるよ」という、無言の発言をフロアから受けてしまうことになる。
私よりずっと勉強している人は、私が思っている100倍いるし、私よりずっと頭の良い人は、私が想像できないほど世の中にいる。
高をくくっていたら、結局痛い目を見るのは私自身だ。
スライドは新幹線の中でも書くことができるとして、少なくとも、論文を読み終えるまで頑張ろう。
発表時間はわずかに30分。だが、その30分は聴衆すべての人の30分である。無駄は許されないのだ。
この間のカンファレンスでの症例のプレゼン。あまり上手にできなかった。最近、きゅうにこういうプレゼン力が落ちていると自覚することが多い。
原因はいろいろあるだろう。
まず、勉強不足。
論文の読み込みが足りない。教科書もところどころ忘れているところがあるので、こまめに復習する必要がある。
滑舌も悪い。
これまた、プレゼンの練習が不足している。頭の中でいくら考えても、しゃべってみないといけない。一つの文を一気に話せるように練習する必要がある。
おしゃべりだけではどうしようもない。
あとは、このブログ、こんきも。
ここのところ、女性に優しい社会を、と考えはじめたらあとからあとから問題が見えてきて、ずいぶん入れこんでしまった。
まだまだ、続けるつもりだが、今日はいったんお休みにして、来週末の学会のシンポジウムの発表の準備をすることにする。
一つすばらしいプレゼンを
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先日、日本維新の会という政党が維新の党と名前を変えた時の旗揚げを報じていたNHKの画面をみて驚いた。
壇上で気勢を上げているのは、見事に男性ばかり。これは圧巻だった。
「これ、一体、なに。男しかいないじゃない。」不肖コロ健、絶句した。別な場面では女性が映っている映像もあったようだが、この場面は日本という男性優位社会の象徴のように見えた。それにしても、何のための拳なのだろうか。女性はこんなふうに拳を突き上げたりしない。
安倍晋三内閣がなんとかかんとか女性の登用を進めているのに、野党はこの体たらく。みんなの党という政党のお家騒動にしても男ばかりがやっている。
これじゃあ、ダメだ。
有権者の半分が女性なのに、政治の大部分を男性に委ねているというのはどう考えてもおかしい。
男性が権力闘争を好むのは、ジェンダーの性格上仕方ない。その延長で、政治に走る者が多いのもまあ、そうなのだろう。しかし、今は若者が溢れていたころの平時ではない。
超高齢社会に突入しつつある国家存亡の危機に直面している時だ。
こと人口問題に限っていえば、男女間の協力なくして解決の道は見えてこない。そして、そのことは問題の本質たり得る。
政治家の三分の一、急には無理というのならせめて四分の一は女性にやってもらえるようにできないだろうか。これは別に欧米との比較、とかそういう問題ではない、日本固有の問題である。
不肖コロ健、通勤経験は長い。恥ずかしながら片道一時間以上かかる鎌倉東京の通勤はかれこれ20年になる。そんな私だが、最近ちょっと体力が落ちてきたからだろうと思うのだが、通勤電車がつらくなってきた。
こうなってみて通勤電車に乗っている女性はえらい、というか、すごいということがはじめて分かった。
体格体力の違う男性に混じって満員電車に乗っているのだから、すごい。日本の電車はより多くの人を積むことができるように貨物列車仕様になっているので、座席が少ない。近距離の移動が主だった頃は、立ってもたかが知れていたが、一度の乗車で三十分以上かかる遠距離通勤が当たり前の現代では、できたら座りたい。 だが、満員電車で座ることができるのはより遠くの始発駅から乗ってくる人たちだけで、大多数は押しくらまんじゅうで乗っている。
こんなところに乗ってくる女性は気の毒だ。女性に配慮しようと思う男性は少なくないと思うが、これほど混んでいては自分のことで精一杯だ。女性専用車両は各編成に1両あるので体力に自信のない女性にはそちらに回ってほしいが、出口の場所などのことでそれも厳しい人もいる。
ことほど左様に混んだ電車に乗って仕事に行き、同じ職種の男性と同じ条件で働かなくてはならない。女性の場合、満員電車で体力を消耗する上に、痴漢との消耗戦も別にある。
仕事だけで男性と競争するのならまだしも、その前後でこんなことがあるのでは、そのうち「もう、疲れちゃった」と思うようになる人は少なくないだろう。
通勤が少しずつしんどくなってきて、やっとこんなことに気がついたという次第。
女性専用車両をもう少し増やしてもいいのかもしれない。われわれ男性に対する逆差別には違いないが、もともとある男性のアドバンテージを差し引いた施策をしないと、働く女性を増やすことにはつながらない。
「女の人は、幸せでいないといけないの」というのは義理の母の口癖だった。
彼女は今でも、そう思っているに違いない。だが、数年前に未亡人となった彼女を、娘夫婦である私達が幸せにしてあげているかといわれると十分にはそうしてあげられてはいない。
女性を幸せにしてあげるのはむずかしい。
そもそも日本という国は、女性を幸せにしているだろうか。というのも、日々生活していて、女性に対して意地悪ではないかと感じる場面にしばしば遭遇する。その原因は日本社会における男女間の不平等であり、女性に対する差別だと思う。
男性が女性を差別し、それに従って女性が女性を差別するという社会が形成されている。女性の敵が女性となるようになっている。
女性が幸せにならないようでは、これからの日本はますます暗く、沈んでいってしまうような気がする。
「女性に優しい社会とは」というカテゴリー(テーマ)を作って、これから気がついたことがあれば、その都度考え、書いていこうと思う。
昨晩、病院を出たところにある大きな公園の植え込みの中で、猫がいた。
最初はどんな猫だかわからなかったのだが、よくみたら、子猫だった。
この猫の模様ををどういう柄といえばいいのかわからなかったのでネットで調べてみたら、白が混じっているのでサバシロになるのだろうか。
考えてみると、猫というのは犬に比べ、大きさと言う点で個体間の差が少ない。わが家の、マルチーズのコロとフラットコーテッドレトリバーのナイトの体重は5倍も違う。このため、猫の模様で見分けなくてはいけない。
ネコ科ということではライオンもトラもジャガーもとなるが、ペットにはできないので、論点が異なってしまう。
さてこの子猫、しばらく様子を見ていたら、そばに落ちていたタオルのようなもので遊んでいる。
うーん、かわいい。
どうして、こう、子供というのは可愛いのだろうか。これはほとんどすべての動物種に共通している。映画「エイリアン」の子供も親エイリアンに比べたら可愛く見えたぐらいだ。
それにしても、なぜ、子猫はこうやって、こんなボロ切れでも遊んでしまうのか不思議だ。これが大人の猫となると、絶対にこんな光景には出くわさない。
ボロ切れ相手にしばらく飛んだりはねたりしているのをみていたら、私もこの子と遊びたくなった。
だが、近づくとさすがに警戒する。しばらくじっとしていたら、またボロ切れで遊ぶようになった。周りを見回すとエノコログサ、通称ネコジャラシがあったので、これで遊ぶことにした。残念ながら大きなネコジャラシがなかったが、これを抜いて子猫の鼻先に持っていった。
しばらくは近寄ってこなかったが、そのうち少し遊んでくれた。カメラ片手だったので、こちらの方が上手に遊べなかったが、ネコジャラシでじゃらす(じゃれるようにする)ことができた。ネコジャラシで猫は本当にじゃらされるか、というが、この場合は子猫だったのでことの真偽が確かめられたわけではない。
以前、一緒に仕事をしている猫好きの技師さんに、「猫って、どこがかわいいの?」と聞いたら、
「先生、その質問、すべての猫好きを敵に回しますよ」と言われた。
質問の意図が上手に伝わっていなかったようなので、「どこが猫好きの心をつかむの?という意味で」と言い直したら、
「やっぱり、媚びないところですかね」と言っていた。エサ以外はやってこないらしい。
そうすると、まだまだ好奇心おう盛な子猫と遊べたということはラッキーだったのだろう。
まだ子猫なのに、こんなところにいるということは野良猫なのだろうか。行く末を案じるとつれて帰ってやりたいとも思ったが、犬派のコロ健としては、仲良くしてくれない猫と一緒に暮らすのは難しそうなので、そこで別れた。この先大変だろうが、幸せに過ごしてほしい。
相変わらずわが家では朝日新聞の購読をやめることなくダラダラと続けている。妻とも毎日のように、購読を続けるかどうしようかと話し合っているが、答えは出ない。投書欄(声)に、いったん購読をやめるという人の意見が掲載されていたが、毎朝配達してくれるお兄さんに断りを入れるのはなかなか容易なことではない。
先日の社長による謝罪記事の発表以後、朝日新聞は謝罪記事を立て続けに出している。福島第二原子力発電所の事故処理に関するいい加減な記事について東京電力に謝りにいったが門前払いを食ったということまで記事にしている。
謝る以外することが無いので謝っている、という感じを受ける。間違いと書いてあるけど、報道機関において間違いは許されない。この報道によって、関わった人たちの人生がどれほど変わってしまったのか、わかっているのだろうか。
少々の人事異動で終わりにできることではない。心配なのは、謝罪記事が原発事故に偏っていて、従軍慰安婦問題についてはどうなったかということもある。原発記事問題は東電とこれに関わった人およびわれわれ購読者に対してで済むかもしれないが、慰安婦問題は国際問題であり、これは国益に関することである。
従軍慰安婦問題については、週刊誌の広告を載せればいいとでも思っているのだろうか。
朝日新聞自身はいったい、いつけじめをつけてくれるのか。
購読を続けるか、悩ましい日はまだ当分の間続きそうだ。
鶴岡八幡宮の参道、段葛が全面改修されるそうだ。今年の4月に発表された説明では桜の木の植え替えだけで、来年の正月には終わっているという話だったが、どうせやるなら本格的にということか、1年半と長期の改修工事になるらしい。
鎌倉駅前のロータリーを出て、若宮大路に出ると道路の中に奇妙な道がある。というのが、小学校のときの遠足で来た時の感想。もう、40年近く前になるか。その後、中学校の社会科見学でも通ったし、高校生ぐらいからは初詣で毎年、寒くて暗い中、ここに並んでいた覚えがある。ご存知の方も多いと思うが、この段葛がより長く見えるように先(鶴岡八幡宮)のほうが道幅が狭くなっていて、初詣のようなときには必然的に大混雑となるのが何となく面白かった。
ここ最近では段葛の改修記録は無いそうで、今のこの段葛、少なくとも私が小学校のときに歩いた段葛のままであろう。おそらく、このブログの読者の方で鎌倉を訪れたことのある方にしても、同じだ。
10月には通れなくなるというので、見納めにと思って、フラットコーテッドレトリバーのナイトを連れて写真を撮りながら散歩した。
4月にも書いたが、たしかに立ち枯れの桜が痛々しいうえに、今の段葛穴が多い。
だから、雨のあとなどは水たまりだらけになってしまうし、足の不自由な人や車いすの人はさぞかし通行しづらいように思う。私だって、ナイトと一緒に走ろうと思っても、つまづいてしまいそうで怖くてそんなことできない。
それでも、この少々くたびれた観光名物、犬の散歩程度でしか歩かないが、1年半もの間閉鎖されるとなると残念だ。
桜並木は残るとしても、ツツジや彼岸花も今と同じようであるのか心配だ。
段葛の両側に3メートルもの遮蔽壁を建てるとのこと、ずいぶんな高さであり、鎌倉市民は相当の圧迫感を受けながら暮らすことになる。
ただ、世界遺産登録に門前払いを食ったかっこうの鎌倉としては、文化財のきちんとした保護を行っていかなくてはならない。段葛の改修もその一環だろうし、世界中から観光客を呼びたいというのであれば、古都鎌倉の景観保存に国は積極的に関わるべきだと思うが、その辺の本気さが感じられないのがもどかしい。
いずれにしても、1年半後、いまより素敵で美しい段葛になって生まれ変わってほしい。
鎌倉に住んで早いもので20年
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鶴岡八幡宮の参道「段葛」全面改修 10月から通行止め
2014年9月12日00時08分
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮11日、参道の「段葛(だんかずら)」を全面改修するため、10月中に通行止めにすると発表した。全面改修は過去に記録がないという。工期は2016年3月まで。同八幡宮には年間1千万人を超える参拝客が訪れることから、周辺商店などへの影響も出るとみられる。
鎌倉のメーンストリート・若宮大路の中で、車道より一段高い約500メートルの歩道を「段葛」と呼んでいる。鎌倉幕府を開いた源頼朝が1182年に妻政子の安産を願い、自ら指揮して造ったと伝わる。1967年に国史跡に指定された。
歩道を支える石積みが緩んで石が落ちるおそれがあるため、改修ではコンクリート壁にしてその上に石を飾る形にする。また、248本ある並木の桜を植え替える。その間、車道との間に高さ3メートルの遮蔽(しゃへい)壁を設けるため、見えない状態になる。総工費は約5億8千万円。近く国の文化審議会で正式に答申される。(菅尾保)
先週の国際学会でのこと。
とある病態についてのワークショップが行われて、最後に司会者が国際的な診断基準の必要性について述べた。
そうしたら、もう一人の司会者が、「会場に病理の先生はどれぐらいいますか?手を挙げて下さい。」と呼びかけられた。
臨床医5割、研究者4割、病理医が1割ぐらいの学会だったが、会場のあっちこっちで手が挙がった。ほかにもワークショップが並行して行われていたが、どこの国の病理医も私と同じところに興味があったようで、比較的多かったように思われる。数人ずつ集まって、臨床医とともに15分ほど話し合うことになった。日本から参加した病理医は私だけだったので、そんな場にいてよかったが、私が参加したグループは某国の臨床医と病理医がずーっと発言しっぱなし、途中無理して割り込んで少し話したが、また、その臨床医に話をちだけにとどまってしまったのが残念だった。
それはさておき、この出来事を通じて思うのは、欧米での病理医の扱い。病理医を病理のスペシャリスト、すなわち自分たちに無い技術をもっている別の独立した医者/研究者として扱っている。
日本でもやっと最近病理医を招いての臨床系の研究会、勉強会というのが開かれるようになって来たが、それでもいまだ一段低い、色物扱いのような気がする。というか、臨床系の学会、研究会、勉強会にやっと最近病理医が呼ばれるようになったというよりは、病理医が積極的に参加するようになったともいえる。そんなところでは、人見知りでプライドの高い日本の臨床医からは異質なものとして見られてしまうのかもしれず、それがそういうところに行った時の違和感に通じるのだろうか。
おとといの晩、時差ぼけでしんどかったのだが、病理の勉強をしたいという後期研修レジデント10人ほどを相手に、顕微鏡を一緒に覗きながらああだこうだ話していたら、あっという間に2時間過ぎた。この勉強会、学会に出かける前に約束していたので、ずらしようがなかった。
各先生達、ローテーションで研修をしているので、それぞれバラバラで、全員が集まったのは、約束した時間よりずいぶん遅かった。
勉強会では、各自ある程度勉強した症例について、病理医として解説するというもの。みんな真面目で熱心だった。
もちろん、素人なので、とんちんかんなことを言ってくるが、素朴な質問は時として難しく、答えに窮することもあった。
普通の臨床医が顕微鏡を覗いていると、船酔いのようになる。どう見ても気分が悪そうなのにしがみついているのとかがいる。そういうのには、仕方なくこちらから「気持ち悪くなったらモニターの方をみたらいいからね。」と助け舟を出してあげないといけない。
こういうお医者さんたちは、将来伸びるに違いないだろうと思う。彼らにしても、四六時中勉強しているわけではないだろうし、適当に息抜きをしているはずだ。だが、勉強の内容がこと病理となると少々違うように思う。
病理みたいに、医者になったのによくわからない。勉強すればするほどプライドが傷つくようなことをしているのだからえらいし、伸びると思うのだ。
不肖コロ健、残念ながら臨床医になっていたら、絶対に病理の勉強はしていなかったはずだ。
まあ、これ以上勉強しなかったら、医者として罰が当たるに違いないと思って病理に進んだのだが、それでもあまり勉強好きにはなれなかったし、今でも病理の勉強というか仕事はつらい。
だから、今回一緒に勉強した、医者になっても病理なんぞの勉強をする若い先生達のこと、尊敬してしまう。彼らにしても、標本を診て、本質的なことはあまりわからなかっただろうし、私も勉強会でそれを伝えるだけのことはできなかった。それでも、医学の本質を垣間みることができたのではないか。
こういうお医者さんたちには、将来伸びてもらいたいものだ。
コロ健だってまだまだこれから
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0時過ぎに寝ても、2時には目が覚めてしまう。それきり目はさえ、6時前の起床まで眠れない。
年のせいで眠りが浅いのかとも思ったが、昼間、後頭部のあたりが痛重く、目がショボショボして、ときどき背筋に寒気を感じるのはやはり時差ぼけなのだろう。
検体、標本はバーコードで認証するので、取り違えることはまずないが、同じ臓器の診断が続く時は取り違えに気をつけないといけない。
ヨーロッパとの行き来は時差ぼけがつらい。時差は8時間ほどで、あちらの方が遅い。だから、行った時は8時間寝坊ができるが逆は8時間の早起きになる。
知り合いの医者には、世界を股にかけて飛び回って手術だ、講演だとしている人もいるが、そんな真似とても私にはできそうにない。そんな力もネタもないが、そもそもそんなことをしたら不整脈でも起こして死んでしまいそうだ。
今朝もやっぱり2時過ぎに目が覚めてしまったが、そのあとすぐ眠ることができた。時差ぼけをリセットして時間のリズムを取り返すのには、まだあと少しかかりそうだが、やっとめどがたったような気がする。
フランスは観光立国だ。初めてフランスに行ってみてそのことがよくわかった。たしかに観光資源に溢れていた。
ブルボン王朝とナポレオンがかき集めた世界中の財宝と人民から搾取して作った立派な宮殿に、年間八千万の人たちが訪れる。これに比べて日本への観光客はやっと一千万人。
日本ほど安全で、美味しい食べ物が安く食べられる国はないし、世界的にも独自の豊かな自然と長い歴史がある国は少ない。
文化的には日本はフランスに劣っていない。歴史、文化、食事、安全。どれをとっても世界最高級のものだ。フランス人に日本びいきの人が多いのもうなづける。互いに尊敬し合えるレベルであるとつくづく思った。
だけど、日本はその文化を生かしきれていない。クールジャパンをやっと始めたところ。たくさんの外国人に日本の素晴らしいところを見てもらいたい。
私たち日本人は安全と水はただと思ってきた。それに豊かな文化、精神も当たり前だと思っていた。
だが、それらは今揺らいでいる。国が内側から壊れ始めているように思えることが少なくない。
例えば、世界遺産に登録された富士山の登山道に屎尿が放置されているということには失望するしかない。
喫煙マナーは日本の方が段違いに良い
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富士山に多数の汚物放置
環境や景観の保全が求められている世界文化遺産の富士山で、登山道のトイレのない場所に多数の汚物が放置されていることが分かりました。国は保全計画をユネスコに提出するよう求められていて、専門家は日本の管理能力が問題視されるおそれがあると指摘しています。
富 士山の夏山シーズンの終了を受けて静岡県が登山道を調査したところ、須走ルートの5合目から900メートルほど登った場所に10メートル四方にわたって多 数の汚物が放置されていました。富士山の登山道には複数のトイレが設置されていますが、5合目と新6合目の間にはないということです。また、山頂の東側に も複数の汚物があるということです。
富士山は平成15年に世界自然遺産を目指しましたが、汚物の放置がユネスコから問題視されて国が推薦を見送る 理由の一つになり、静岡県などが微生物で処理するトイレの設置を進めました。去年、世界文化遺産になってからは環境や景観の保全が厳しく求められるように なり、携帯トイレを配布したり環境を汚さないよう呼びかけたりするなかで、問題が明らかになりました。
国は再来年2月までに保全計画をユネスコに 提出するよう求められていて、ユネスコの諮問機関の委員を務める東京大学の西村幸夫教授は「日本に世界遺産を守る管理能力があるのか問題視されるおそれが ある」と指摘しています。静岡県自然保護課の平野潤課長は「環境省に報告するとともに、今後対策を考えたい」と話しています。
自分自身の力不足が原因なのはわかっているが、不肖コロ健、医学の研鑽、勉強のために海外に出るようになったのは四十を過ぎてからと遅い。専門が決まったのもその頃であり、その分野での学問上の友人はまだ数えるほどしかいない。
国際学会に出ていつも思うのは、日本がいかに世界から孤立しているかということだ。これは欧米の学会でも、アジアの学会でも感じることだ。言葉の問題もあるが、とにかく海外に出て、学問をしてみないとなにもわからない。
若いうちに外に出て行こうにも、なかなかできない。一生懸命勉強して医学部に入るまではいいが、そこで多くの医学生は勉強しなくなくなる。国家試験に受かりさえすればいいという医学生は少なくない。だから、国試に受かってしまえばそこまで。同世代のサラリーマンより少し良い給料のため、自分の時間を稼ぎに割いて終わってしまう。
その気になってもすぐに海外に飛び出すことができないようになっている日本固有の医局制度、医師養成制度にも問題がある。
いずれにしても、留学する若者が減っているのはわが国にとって残念なことである。
私自身、こういったことを理由にして生きていることも、とても残念である。