鎌倉三十三観音霊場めぐりというのがある。
このところ、いろいろある私のことを心配したのか先月、妻が行こうと言い出した。私も一緒に行こうと誘われ、ひと月ほどですべてを回ることができた。前の職場と違い土曜日も勤務日となったので、日曜しか動けなかったが、鎌倉はそれほど広くないので半日あれば、結構回ることができた。
発願は杉本観音。
鎌倉の観音様といえば、長谷観音。
そして、今日円覚寺(仏日庵)で結願。
子どもたちが小さかった頃は、鎌倉市内を自転車で縦横無尽に走り回っていたが、中学に入ったあたりからそういう機会もなくなって、私自身も忙しくなってナイトの散歩で歩く以外は観光じみたことは無くなっていた。久しぶりに、あちこち歩いて忘れていたこともずいぶん思い出した。そしてまた、鎌倉が好きになった。
厄よけもしっかりお願いしました
目覚めとともに、阿蘇山が(爆発的)噴火を起こしたという知らせを聞いた。この噴火は1980年以来で36年ぶりということだ。数年前に熊本に行ったとき、地震は起こらず、中岳の火口は雨で見ることができなかったけど近くまで行くことができた。ラッキーというか、奇跡的なことだった。
宇宙にどれほどの数の星があるのか知らないが、今の地球のような状態の星はどれぐらいあるのだろう。仮に星の数が1000億個として、地球のような星が10個あるとしてその確率は100億分の一。ジャンボ宝クジの一等の当選確率が1000万分の一だそうだから、その1000倍となる。
銀河系だけで2000億個、一つの銀河に星が1000億個あるというそうなので、地球のような星が今ある確率は本当に天文学的な確率になる。
とすると、そこに生きている私たち人間というものは、確率など出せないほどの存在ということになる。地球と人間を相対する存在として考えると、地球という奇跡的な、確率的に存在が奇跡的という意味で、星に人間が生きているこの期間そのものが奇跡的な状態だということになる。そう考えてみたら、自らの存在そのものが奇跡的、ということになる。そして自らが存在し得たことを奇跡ではなくて、幸運だと少しでも思えたら、世の中に起きること全てが些細なことであって、いちいち振り回されることはないようなことということになる。
人生、やっぱり偶然の産物
ドアを開けっ放しにして部屋を出てくる、ゴミ箱に放り入れたつもりの紙くずがヘリに当たって落ちたのをそのままにする、本棚に本を戻すのが面倒で出しっ放しにする、そういう場面はとても多い。
そのとき、「あ、いけない」と思っても、すぐに
「まあ、いいか」とほったらかしにしてその場を離れてしまう。
そんなことをするたび小さなストレスが蓄積されている。なぜなら、そのままにしていたら、埃は入るし、ゴミは散らかり、机はあっというに埋まる。そんな当たり前のことがわかっているからだ。
もしかしたら誰かが、ドアを閉めて、ゴミを拾って捨てて、部屋の整理をしてくれるのかもしれない。けれどその誰かに対して、劣等感を持つこととなる。
ただでさえストレスの多い世の中なのに、さらに余計なストレスを自分で作って、抱え込んでいく。蓄積されたストレスは心の中に澱のように溜まっていって、ヌメヌメと心の窓にへばりついて、汚していく。
だから、一つ一つのことを丁寧に片付けていく、人生のちいさな局面の一つ一つに一手間かけて、そうならないようにしたい。
ドアを閉めて回ったり、ゴミを拾い歩いたり、誰かの机の上まで整理することはできないが、せめて自分のことだけはきちんと始末をつけたい。数秒の決心でその都度無用なストレスから解放される。そう心がけて日々を送っていきたい。
面倒くさがらない