『ああ、よかった、昨晩と同じ時間の電車に間に合った。途中の電車の急行電車が遅れて、これなら、日付が変わらないうちに家に着く。』
途中で乗り継ぐ電車の急行の車内で具合が悪くなった方がいて、その急行の発車が遅れ、そのあとの各駅停車に乗るところだったのが、却って一本早い横須賀線に乗ることができて、そう思った。
日曜日以来、重症の患者さんが多く、病理診断科も連日遅くまで仕事があり、昨晩はさらに帰りが遅くなっていたということもあり、とても助かった。
『ラッキーだった』
『あれ?これって、ラッキー?』そう、これって、私にとっては幸運だけど。
『私にとってラッキーだからといって、その、具合の悪くなった人は全くアンラッキーではないか』
身勝手な話だ。身勝手に自分の幸運を喜んでいたのがとても悲しくなった。具合の悪くなった人はさぞつらかったろうし、恥ずかしい思いもしただろう。もしかしたら、命に関わるようなことだったのかもしれない。
そんなこと、ホームで待っていた横須賀線に飛び乗った時、全く考えなかった。
なぜ、私はいつもこうなんだろう。
どうして、こう、身勝手で、人に対して無頓着な人間なんだろう。
そう思いながら、その“幸運”にも乗ることのできた一本早い横須賀線に揺られて帰った。
少なくとも、人の不運に乗っかった幸運というのは、幸運とは言えない。いや、そうであってはいけない。
幸運を掴んだとき、人は『私は選ばれた人間だから』と思う。
けれど、不運に遭遇した時、人は『なぜ私に限って』と思うだろう。
運不運は表裏一体、時には人の不運が自分にとっての幸運(のようなもの)になることもある。
そう、自分にとって幸運と思うこと、そんな巡り合わせの裏側にはなにがあるのか、いつもそんなことを考えながら生きていかなくては、人生を考えることはできない。