こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

ブログのパニック値

2020年07月31日 | 日々思うこと、考えること
今日も朝から雨模様。ただ、少しだけ日差しがあったりして、厚い雲の絨毯も擦り切れてきたのかもしれない。先週末の予報通り、関東地方の梅雨明けは明後日らしい。雨ばかりで庭は草ぼうぼうで苔だか藻だらけ、おかしなキノコも生えている。花たちも野菜も元気が無くて、ついに今日は写真に撮れるのも尽きたので、差し込む写真はなし。病院の前庭やエントランスにも往復の通勤路にも元気な花がほとんどないのだから仕方ない。窓から見える高木はもりもりと生い茂っているが曇り空の下では緑もかすんでしまう。

そんなどんよりした風景ばかりを見ていたからなのかわからないが、やたらと色鮮やかな夢に驚いて明け方ごろに目が覚めた。一瞬しか覚えていなかったが、確かに色まで覚えていた。もう一度見たかったが駄目で、あきらめて何時かとスマホを開けた。ついでにこのブログを開いて、”お知らせ”とか”アクセス解析”をポチポチした後、”読む”を開いてブロ友さんの記事のタイトルをざっと眺めた。そして面白そうなタイトルーーータイトルそのものが興味深いのではなく、ブロ主さんがいつも書くようなタイトルからとても乖離しているタイトルーーーのエントリーを開いて読む。「え?この方がこんなタイトルで書いているけど、なんだろう?」と思って開くのだ。パニック値というところだ。

臨床検査医学の世界で使う、パニック値という用語は、「生命が危ぶまれるほど危険な状態にあることを示唆する異常値」のことをいう。臨床的な診察で患者さんの容態が深刻なものだとわかっていれば驚きはしないが、検診とか定期的な検査でこんなデータが出たら大変なことになる。病理診断でもパニック値に相当するものはある。鼻茸(鼻の良性ポリープ)や子宮頸部のスクリーニング検査で悪性を疑っていなかったのに、がんが見つかったというような時がパニック値に相当する。なお、胃や大腸の内視鏡的には良性だと思っていたポリープが病理医が調べたら顕微鏡で癌だったとか、ホクロがメラノーマ(悪性黒色腫)だったというのはそれほど稀なことではなく、パニック値には当たらない。担当医が病理診断報告をチェックしてくれるのが筋だが、パニック値が出たときは念のため、担当医に連絡を入れる。

さて、私のブログのタイトルでパニック値に相当するものはあるだろうか。記事一覧で振り返ってみたが、これといった傾向はなさそう。拙ブログを読んでくださっている方には”おや?”という変化があるのかもしれないが、自分ではわからない。それにしても、それぞれのエントリを読み返すとーーー今日もそうだがーーーずいぶんくどい文章が多い。以前、ブログも推敲が大事ということを書いたことがある(論文とブログ、どちらも推敲 - 2015年6月18日)。そこでコロ健”「お、この論文、面白いな。最後まであっという間に読めたよ”なんてことを書いている。”論文”を”ブログ”に置き換えたらいい。通勤中に書くことがほとんどなので、一気に書けず、途中で細切れとなってつなぎがわるくなって、竜頭蛇尾、推敲も不十分で、いったい何が言いたいのかよくわからなくなることもしばしばだ。せめて、タイトルに沿った締めくくりとしたいのだが、これがなかなかうまくいかない。パニック値で読んでいただけるのはありがたいが申し訳ない。うまく締めくくることができなくて、タイトルの方を変えることもある。

病院を出たらまだ明るくて、まだ青みが残っている空には可愛い形をした雲が浮いていた。明日は晴れるといいな。
今日も危なかった

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします



少数の意見を埋没させない

2020年07月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
医局会など他科の医師と共に行う会議で発言するのには、病理医のようなマイナーな科の医者はずいぶんと勇気が要る。病院というところの表の顔、すなわち看板はいうまでもなく臨床医であり、病理医である私が何かを発言したところで、病院のマジョリティーーー売り上げとか、治療成績ーーーの問題解決に直接つながる建設的な意見にならないと考え、発言するのをついためらってしまうのだ。

私の場合、喋りたがりのところがあって、会議で誰も発言しなかったりするとーーーおそらくほんの15秒ほどだろうがーーー沈黙に抗うことができず、よせばいいのについ口火を切ってしまう。私のせっかくの”場を動かすための”発言を誰かがついでくれるのならいいが、多くの人は遠慮がちに別のーーー出席者の多くが関心を持っているーーー話題へと舵を切る。もちろん、いったん誰かーーーたとえそれが病理医であってもーーーが発言したら、会議は重い腰を上げて動き出すが、最初の、病理医の発言を会議の終わりまで覚えている人は私以外にはいない。

国会(閉会中審査を含め)の討論を見聞きすると、何をしているのかよくわからない議員が多く見えるが、多様な人材が発言の機会を得るためにはこれぐらいの人数は必要なのかもしれないと思うようになった。これは先の参議院選挙で障がいのある方を国会に送り込む政党があったということでとくにそう思うのかもしれない。健常者の視点に立った政治は、国力の増強のためには必要なことだろうが、健常者だけで議論していては、考え方の多様性は欠落してしまう。少数者、弱者の発言に耳を傾け、その意見を取り入れることができないような人は、人を導いていく資格はない。自分の席を譲った党首は大したものだと思う。
さて、私は今の勤務先の病院に、病理医がいなくて困っているからきてくれないかと言われてやってきた(だから一人病理医)。プレコロナの頃だったからこそ開催された”私の歓迎会”で「(なんでも知っているわけでもないので)私がどれほどお役に立てるかなんてわかりませんよ。」と言ったら、院長が「意見を聞いてくれる人、言ってくれる人、相談できる人というのが必要なんですよ。」と応えてくれた。ああ、ありがたいなと思ったし、この言葉はずっと忘れることはないだろう。実際その言葉に嘘はなく、マイノリティーの代表格である病理医としての私の発言は正当に扱われているし、会議での発言にしても思っていたよりずっと丁寧に耳を傾けてくれている。
あとは私次第

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします




感染経路、今や誰にもわからない?

2020年07月29日 | 自然災害・事故・感染症
 今日もまだ雨、今月は何日お日様を拝むことができただろう。まあ、昨日よりも少々涼しいのでよしとするしかないか。今度は東北地方で大雨。最上川が氾濫したとのことで、テレビには数週間前に見た九州で起こったと同じような映像が流されている。日本中いたるところで水害が起こって、お見舞いの言葉も見つからないほどのことで、悲しい気持ちだけが湧き起こってくる。1日も早く梅雨があけてくれと心の中で祈っているが、一体いつになるだろう。

 昨日、病院の事務室に書類を届けに行った。密にならないように気をつけているようだが、事務方の皆さんが、大人数で狭いところで仕事をされているのがお気の毒だ。もっと狭い部屋で仕事している部署もある。病院は、入院している人の”患者情報(健康状態)”という個人情報の”核”を扱っているから、リモートワークもままならない。顔見知りの職員に「最近の調子はどうですか?」と、少し気軽な調子で尋ねてみたら、開口一番「もう、コロナで大変です」とのこと。別の人にも元気づけようと思って声をかけたが同じような返事がげっそりした顔で返ってきた。ここにも新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で辛い思いをしている人がいるのだと知る。自分ばかりではない、辛いのはみな同じなのだと肝に銘じておかなくてはいけない。

 院内感染の原因として怖いものに、”休憩室クラスター”がある。病棟の横の、小さな部屋でこれまた小さな机を挟むソファーに向かい合って座り、お昼を食べる。食事中は誰もがマスクを外す。そんな時、同僚と二言三言言葉を交わしただけでも飛沫感染が起こる。会話を減らそうとしても、患者さんについての情報交換をすることもあるだろう、でも、それだけで感染することがある。それに、日々の激務、互いの協力が不可欠な現場で互いの意思疎通ができないなど、猛烈なストレスだろう。現場の医療従事者には若い人が多いから、症状の乏しい人もいて気をつけようがない。無症状感染者が職場にCOVID-19を持ち込み、うつされた人が発症するということがある。そんな時は、持ち込んだ人が誰だかわからなくなる。いわゆる感染経路不明感染だ。だから、発症した人が悪いと決めつけてはいけない。感染経路は今や誰にもわからなくなりつつある。東京では家庭内感染が夜の街を上回ったという報道もある。

 発熱がわかっていて来院する人ばかりではなく、少々体調が悪いからーー咽頭痛や味覚障害ーーということで受診する人は少なくない。その時点で自分がCOVID-19に感染してるなどと思ってはいない。だから、そんな人がやってくる病院に勤務するコメディカルのみならず、受付などを含めた事務方の人、お掃除や警備の人全てが感染のハイリスク群に含まれる。病院そのものが感染拡大の温床と言えるわけで、病院には徹底した感染拡大防止対策が求められる。だが、上手の手から水が漏れるという通り、どんなに気をつけてもクラスターは起きてしまう。それでもそれは許されない。医療は厳しい状況に直面している。せめて、市中で感染を広げないよう、まずはマスクの着用を励行してほしい。ノーマスクは厳禁だ。集団免疫とは実はマスクのことかもしれない。
少しでも増加のピークを後ろにしよう

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします

にほんブログ村 シニア日記ブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

 PVアクセスランキング にほんブログ村


20年ぐらい前に考えたけど、今となってはどうしてそんなことを考えたのか忘れてしまったこと

2020年07月28日 | 生き方について考える
 昔から生きるということ、死ぬということをよく考える。最近とくによく考えるが、それは世界中で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で数万人の人が亡くなっているからか、それとも先月父が亡くなったからかはわからない。”人は死ぬ”ということを知っている人で、死ぬことについて1度も考えたことがない人はいないはずだ。自分の死ぬときのことを書いたこともある(死に時 - 2012年02月26日)。

 先週、父の49日の法要と納骨式を終えた。墓石の下の祖父母の骨壷の横に、父の骨壷が納められ、蓋をされるのを見て、もう父に会うことはないのだと知った。癌が見つかり、病理診断、手術、化学療法を経て、父は静かに衰えていった。癌そのものによる苦しみ、化学療法による苦しみを口にすることはほとんどなかったが、かつてのような元気が出ないことが悩みだったようだ。でもそれは父がその生涯でやるべきことを全てやり遂げてしまったから、なにかをしようとする元気が出なかったのだろうと思う。元気はなかったが、85歳の誕生日を皆で祝った時はとても嬉しそうだった。亡くなる前の1週間はほぼ毎日会うことができ、最期は眠るようにやすらかだった。父は残される人にとても素晴らしい死に方を示してくれた。

 妻に付き合ってよく視ていたNHKの”世界は欲しいモノにあふれている”の司会を務めていた俳優さんが自殺した。弱冠30歳。顔と名前を一致して覚えていた数少ない若い俳優さんだったということもあり、とても悲しく、とても残念だ。好感度抜群で、仕事も多く抱えていて、順風満帆の人生を送っているように見えたが苦悩は大きかったのか。私は20年以上前に自殺しようと思ったことがあった。その時のこと、場所や時間までとてもよく覚えている。だが、今となっては、その時の私を、何が押しとどめたのかは覚えていない。それどころか、何で自殺しようと考えのかも思い出せない。その後も、めんどくさいこと、追い詰められること、二進も三進も行かなくなることはいくらでもあって、すべて放り出したくなり、ひどい時には”もう死にてー”という言葉すら頭をよぎることもあるが、実際にそれに至ってはいない。

 死にたくなるほど辛いこと、ということはいくらでもある。自殺した方の気持ちを思うと、そのことを否定する気にはならない。自殺という行為自体を肯定することも否定することも私にはできない。ただ、目の前に自殺しようとしている人がいたら、”やり残したことはない?”と聞いてみるかもしれない。その時その人がーー若者であっても、高齢者であってもーーそこでそのことを考えることができたなら、自殺を止めるかもしれない。父にしてみてもまだまだやりたいと思うことはあっただろうが、やり残したことはなかったのだと私は思う。

 私が20年以上前に死ぬことを思いとどまったのは、もしかしたらこうしてブログのようなーー自分の思いを人に伝えるーーことをしたいという思いがあったからかもしれない。今からでも哲学をしたいと思っているほどだ。

 生き方を変えるのは難しいことかもしれないが、死のうと思った時に、少しだけでも”やり残したことがないか”、”そのために生き方を変えてみようか”ということを考えてみたら、生きるという選択が出てくるかもしれない。そこで思いとどまることができたら、4半世紀も経てば、なぜその時にそんなことを考えたのかもあまりよく覚えていなくなってしまう。

生きていればということもある

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします




にほんブログ村 シニア日記ブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

 PVアクセスランキング にほんブログ村


梅雨明けまではあと1週

2020年07月27日 | 自然災害・事故・感染症
 昨日の青空は梅雨明けの知らせで、午後のスコールは梅雨前線の置き土産かと思ったが、残念ながらそうではなかったらしい。天気予報によると梅雨明けは今週末の8月2日頃となるらしく、まだあと1週間辛抱しなくてはならない。仕事を終えて病院を出た時も雨、置き傘があってよかった。
 この4連休は初日に父の49日と納骨をおこなっただけで、残りの3日は外出らしい外出はせず家でじっとしていた。まあ、この巣篭もりは大雨も後押ししてくれたともいえるので雨に文句は言えない。でも、4連休が終わり、いよいよまた東京に出なくてはいけなくなるのはとても気が重い。

 この4日間にも新型コロナウイルス(COVID-19)の感染者数は増加し続けている(新型コロナウイルス感染症についてー厚生労働省のHP)。もう歯止めは効かなくなっている。2、3年で落ち着いて、本当の意味で、集団免疫を獲得するのには4、5年はかかるだろう(だから後4、5年は落ち着くことはない)。100年後、その頃に生きている人がこの4、5年を振り返って評価することがあったら、1918年-1921年に流行したインフルエンザ(スペイン風邪)のような感覚で捉えるのだろう。ただ、そんなことは今生きている私たちのほどんどが知る由もないことだ。それに、100年後から振り返ってみた4、5年は、歴史の教科書の2、3行にもならないだろうし、1000年後には”19世紀から21世紀にかけて感染症(というそのころはコントロールできるものがあって?)の世界的な流行が何度かあった”と一行にまとめられているだろう。それともコロナなどすっかり忘れられ、歴史にはペストぐらいしか残らないかもしれない。
 緊急事態宣言が発令された第1波のとき、電車は本当に空いていたが、今回の第2波ではもう何事もなかったかのように混んでいる。通勤電車内での感染も現実のこととなってくるだろう。だから、通勤で一番嫌なのは、マスクをしないでいる人だ。マスクの効果自体よりも、マスクをつけて感染拡大を防ごうという意識が欠落している人がそこにいるということが嫌悪感を催すのだ。最低でも2メートル程度のソーシャルディスタンス(もしくはフィジカルディスタンス)をとっていて、すぐにマスクを着用できるようにしているのであれば問題はないが、そのような距離を取ることが難しい電車内でマスクをつけていないのは感染拡大に手を貸しているようなものだ。こういう人は、どのような考えかはわからないが、感染拡大を容認していると言わざるを得ない。

 ウイルス感染だから、根本的な治療方法はないものの、重症化した際の対処方法がある程度わかってきていると思って多くの人は安心し始めている。”インフルエンザの方が怖い”とか”しょせんただの風邪”とか”弱毒化している”、などという代替的思考の広がりにより、感染拡大に対する防御体制が弱くなりつつある。さあ、”コロナは熱に弱い”などと言われていたが本当なのか。少なくとも36度程度の人の体に入っても大丈夫そうで、梅雨が明けたら果たしてどうなるだろう。もちろん、熱と紫外線に弱くて、宿主と共存できるような弱毒化された群が優勢になってくれることを期待している。
希望的観測ですが

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします




生きたいから生きているのか、生かされているから生きているのか

2020年07月26日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
 午前中は梅雨明けを思わせるような青空。そよ風も心地よかったのだが、昼過ぎから暗雲に覆われ、雨は降ったり止んだり、それも降れば土砂降。夕方になってようやく止んだが、もう蚊が出てくる時間で、庭の草むしりはできず仕舞い。結局今日もほぼ巣篭もりだった。ただ、昨日、おとといはヒゲも剃らないでいたが、四連休も今日で終わり、最後はちゃんとヒゲを剃った顔で過ごした。

 相模原の障害者施設での殺傷事件から今日で4年(福祉というもの - 2016年7月26日)。月日が経つのは早い。座間で自殺志願者を募って9人を殺害した事件が発覚したのは2017年10月のことだった(死者の日(Day of the dead)に思う - 2017年11月2日)。いずれも、死ぬこと生きること、それぞれにどのような意味があるのかを深く考えなくてはいけない事件だった。
 先日、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っていた女性に対し、薬物を投与して殺害したとして医師二人が殺人の容疑で逮捕された。医師であれば人の死をコントロールしていいということはなく、手を下した医師は罪に問われることになるだろう。医師が行なったということはまた別の機会に考えるとして、再び命の意味について考えさせられる事件だった。

 このような事件が起こるたび、残された人間である私たちは大騒ぎするが、死は毎日誰かに訪れ、誰かが死者を送っている。死の原因はそれぞれ様々で、残されたものはそれぞれの死を通して命について考えることとなる。
 命について考える、とはどういうことか。
 それぞれの人の命に価値があるのかないのか。誰の命には価値があり、価値のない生を生きている人の命は要らないのか。生きたくない生を生きている人は生きていなくてはいけないのか。一方で、生きたくなくても、生きなくてはならない人もいる。もちろん、これが一番多いだろうが生きたくても生きることのできない人もいる。

 私たちは生きたいから、生きているのか、それとも生かされているから生きているのか。それは誰にもわからない。

続きはまた別の機会に

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします



にほんブログ村 シニア日記ブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

 PVアクセスランキング にほんブログ村


タバコは楽しかった日々の思い出にヤニのようにこびりついて

2020年07月25日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
久しぶりにタバコを吸っている夢をみた。
子供連れのいる温泉ホテルのようなところで、「タバコを吸ってくる」と、家族に言って外の喫煙所についたところで目が覚めた。
昨日、タバコを吸っていた頃の写真を整理して思い出したのだろう。

楽しかった思い出に、タバコはヤニのようにくっついている。
いくらやめようと思っても、いくら忘れようと思っても、タバコどこまでも私を追ってくる。
私よりもずっと前にタバコをやめていた先輩病理医が、
「タバコをやめる、っていうのは、一生吸わない、ってことなんだよ。
それが君にできるかな?むずかしいよ。」
と言われたことをよく思い出す。

本当にタバコのヤニが脳の中にこびり付いているわけではないが、ニコチンによる快感を脳が忘れることはない。
いま、私がタバコを吸わないでいることができるのは、自分自身の意思、理性によってだが、ちょっとした契機でそれは崩れてしまう。
タバコは悪だという社会的状況が醸成されたからこそできているのだが、一旦そういった歯止めが効かなくなったらどうなるかわからない。

薬物中毒からの更生に挑戦して失敗する人は後を絶たない。
ニコチンなどよりずっと刺激のつよい薬物からの離脱などはより困難だ。
くじけて”どうにでもなれ”という気になってしまったら、もうそれだけで手を出してしまい元の木阿弥となる。
そんなことの繰り返しでやがて廃人に至る。
楽しかった日々の思い出はタバコのヤニにまみれているのだと自覚し、薬物依存症の恐ろしさをしみじみと感じる。
今日も巣篭もりで

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします



4連休はEnjoy home

2020年07月24日 | 日々思うこと、考えること
朝、娘に誘われ久しぶりにコロと散歩した。梅雨の間、道路が乾いている朝というもの自体が少なく、貴重な時間だった。外出はそれきりで、あとは1日Enjoy home、stay home

妻が子供たちの写真を整理すると言い出したので、私もそれに付き合って、気に入った写真をスキャナで取り込むのを、テレビを見ながらして過ごした。
かわいかった盛りの息子の写真(ママの帽子をかぶってご機嫌)やら、自分たちの30年以上前の写真もでてきて楽しかったのはよかったが、その都度手を休めてしまうのでなかなか進まなかった。
若かった

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします




その人のことを想うこと

2020年07月23日 | 家族のこと
空は厚い雲に覆われていたが、幸い夜来の雨は止んだ。

父の四十九日法要と納骨式。
お坊さんに、もう、お会いすることはありませんが、故人は心の中で生きていくのです、とお話していただいた。
心の中で生きるってどういうこと?
と、母にきいた。
その人を想うことよ。
それが母の答え。
なるほどそうか、そうすればいつでも父に会うことができる。
ナイトにも

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします







哲学しながら生きて行きたい

2020年07月22日 | 生き方について考える
最近、哲学がブームだそうだ。
そのことを知ったのは、東京駅近くの丸善にはいったら、ちょとした哲学コーナーが作られていたのをみてだった。ポップに”いま、哲学ブーム”とかそんなことが書かれていた。素人向けの面白そうな本が何冊かあったが、衝動買いもどうかと思いとどまり、ポイントカードのある紀伊国屋書店で後日買うことにした。そして新宿の紀伊国屋に行ったわけだ。人文コーナーのカウンター前には哲学に関する本が平積みになっていた。高校時代、倫理でお世話になった山川まで哲学と銘打って本を出していた。今や、哲学に関する本はすっかり売れ筋のようだ。入門書のようなものを2冊、村上春樹の新刊と一緒に買い求めた。

NHKで"世界の哲学者に人生相談"という番組が数年前(2018年)から放送されている。毎回ではないがザッピングしていて偶然当たった時にはそのまま観ている。ざっくばらんな気軽な感じの番組で、もっと高尚なものだなどと大上段に構えてから観るとがっかりするが、哲学なんてこんなものかと考えたらいいのだろう。哲学者を聖人扱いする必要はない。哲学を人生の悩みの解決に用いることが適切かどうかはわからないが、最近のブームは自己啓発、自分発見、人付き合い、といったような生き方指南的なものの行き着いたところのように見える。哲学をしたいということが特別なことではなく、自分を知りたい、真理を知りたいと多くの人が考えていたということかもしれない。

私は哲学者になりたかったけど、結局なれなかった、というかなろうともしなかった。最近ではもう考えることを諦めている(考え過ぎの人生か - 2012年5月29日)。以前は哲学者になりたかったということをブログの自己紹介欄も書いていたが、みっともないのである時からやめた。ただ、哲学者であることと哲学することは同じではないということに最近気がついた。私は哲学者にはなれなかったが、考えながら生きることはできる。哲学は哲学者のものではなく、アマチュアであっても哲学しながら生きることはできるのだ。
同じ花であっても蕾であったり、鮮やかな咲いたばかりのもの、満開の大輪のもの、色あせ枯れつつあるもの、さまざまだ。命あるもの、時間の長短こそあれ、だれもが結局最後は死ぬ。死ぬまでの間、哲学しながら生きるということを目標にしようと思った。これが私にとってワクワクすることとなるかどうかはわからない。これまでにも何度か哲学めいた言葉を振り回してみたけれどどれもエセだった。こんどこそ、少し勉強し、少し継続してやっていこうと思う。
単なる教養ではなく

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします



東京というお化けな街とオリンピック

2020年07月21日 | 日々思うこと、考えること
昨日の帰りがけ、紀伊国屋書店に寄った。新宿駅の東西を結ぶ自由通路がおととい開通したらしい。ニュースで聞いていた通り、改札口がホームと直交する形となって、ほんの少し違和感を感じたが、甲州街道に出る南改札もそうだし、養生が取れる頃には慣れるだろう。夜の混んでいる時間だったが、構内が比較的空いていたのは、最近の夜の街報道のせいで新宿に来る人がだいぶ減ったせいだろうか。それともただ単に小田急、京王を乗り降りする人が迂回するようになったからだろうか。
人の流れが整理されるというのは新型コロナウイルス感染症感染対策にもなるのでいいことだ。
ここのところ都内では東京オリンピックの開催に合わせたかのように、あちこちで新しい施設が完成している。東京駅周辺ーー八重洲口から日本橋近辺ーーも再開発が進んだ。それでも、バスターミナルのあたりは大規模な再開発が待っているようだ。東京の地面という地面が利用され尽くして、これ以上の成長はないだろうと思っていても、まだまだ成長する余地はあるらしい。この成長は一体どこまで続くのだろうと考えると恐ろしくなる。
都内を車で走っても、電車に乗っていても、”東京というところは怪物かお化けのようで、まるで生きているみたい”だと思う。たくさんの人を集め、その集まった人のほとんどは無記名で、否、有名人であっても、街に溶け込んで群衆の一人として記号化されているかもしれない。大量の人の中では、誰もが無名とされてしまう。そうやって、大量の人を飲み込んで生きている、それが東京という街なのだろう。

さて、神奈川県内でも、横浜駅西口への馬の背が完全に解消された。JR東日本のNEWoManとかいうなんと読めばいいのかわからない駅ビルができて、JRの寡占状態が進んでいる(*ニュウマンと読むらしい)。鎌倉駅前では、二の鳥居の鎌倉警察の跡地にホテルメッツができて、駅前のロータリーの整備も進んでいる。
今週末に開催される予定だったオリンピックが新型コロナウイルス感染症のため1年延期となって、多くの選手がこの時間をどう有効に使うか工夫しているのが、インタビューなどを通じて伝わってくる。ほとんどの公共事業は全てコロナ前に計画立案されたものだろうが、工事が終わったばかりのような出来立てのほやほやのようなところも目につく。東京オリンピックの1年延期のおかげで、美しく落ち着いた状態で海外からのお客様を”おもてなし”できるようになったのはいいことではないだろうか。
未来への混沌

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします






楽しく食べてはいけません!”新しい生活様式がもたらす新しい時代”(3)

2020年07月20日 | 日本のこと、世界のこと
朝からお日様を拝むことができ、気持ちよくスタートできた。昨晩はひさびさに星空を見ることもできた。週の後半は連休だし、太平洋高気圧にはもう少し頑張ってほしいところだ。天気が良くて、仕事や通勤といったストレスがないという状態だと、なかなかいつものようにブログを書くことができない。花の手入れをすること自体が精神の安定をもたらすから、ブログを書く時間がそちらにとられてしまう。私にとって、花の手入れもブログも等価といえるのかもしれない。定年後、もっと時間が使えるようになったら、ブログを書く時間も増えるだろう。

さて、今回の新型コロナウイルス感染症、ほんの1年前までは誰も想像できないでいた。致死性の猛毒のウイルスが人類を滅亡寸前にまで導くというようなSF小説はいくらでもあったが、現実は今起きていること。ウイルスにしても、宿主を殺してしまうようでは共倒れ。SF小説作家というか、人間の想像力などたかが知れている。”新しい生活様式”というものだって、予想していなかった。その生活様式、もちろんマスク以外にもいろいろとある。

マスクよりもつらいと感じるのが食事の様式だ。先日、妻と外食したときには4人掛けの椅子に斜めに座らされた。夫婦でもとなるとあらためておどろく。確かにレストラン側としては、私たちが寝食共にするような関係であるのかそうでないかはわからないからそうするしかないだろう。たしかに職場ではこのようにすることを励行しているし、食事スペースを確保できる人は極力孤食だ。でも、残念ながらみんながみんなそんな環境で食べることなどできない。医局でも若い先生たちのスペースは密だ。

ビスコンティの映画に出てくる貴族のような優雅な食事だったならば、会話をしてもそれほど問題とはならない、というか大声で話さなかったら、大きなテーブルの向こうまで声が届かない。でも、町の定食屋なんかで、二人分のスペースを取ろうなどとしようものなら、いやな顔をされるだろう。大声で話しても歓迎されず、外食の楽しみというのは半減してしまった。そうはいっても、駅前の居酒屋では大声で話している人はいくらでもいるし、飲み屋の客引きはノーマスクもいる。多分、新しい生活様式など知らないのだろうが、自分たちが避けられているのを自覚しておいた方がいいように思う。
実効性よりもそうする姿勢

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします





夏の空、夏の海

2020年07月19日 | 鎌倉暮らし
梅雨の晴れ間。もう梅雨明けといっているお天気サイトもあったらしいが、大方の予想はあと1週間お預けのようだ。
表に出たら、近所の方が庭掃除をしていたので、
「こんにちは、久しぶりにお日様が出ましたね」と、挨拶したら、
「ほんと、ありがたいですね」と、返された。
まったく。
青空のありがたさがこれほどのものだったとは。
海の方に行く用事があり、海岸線を車で走った。地元の横浜ナンバー、湘南とか川崎さらには県外ナンバーどれもたくさんで134号線は渋滞。車窓から見える海岸も驚くほどの人出。近所の人も、遠くの人も、朝起きたらいい天気で、あわてて出てきたのではないか。私もそうだからね。
由比ヶ浜も、七里ガ浜もお隣藤沢市の片瀬海岸も。どこももう、普通の海水浴場の状態。いつもの年と違うのは、海の家がないということと、いつもなら海水浴場のところにサーファーが入り込んでいるということ。子供とぶつかりはしないだろうか、心配だ。
あとは、梅雨明けを待つだけとなったが、これほどの人出、新型コロナウイルス感染症の拡大は収まりそうにない。本格的な夏がきたらどうなるだろう。
海まで来たのは久しぶり

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします




とくにこれといったことのない1日

2020年07月18日 | 日々思うこと、考えること
スマホの大雨警報の音で目が覚めた。今日もずいぶん降っている。
昨日は、酔っ払ったような書き方をして失礼しました。
今日はこれといったことはなく、特段、書くようなこともありませんでした。

所用があり今日も東京へ。仕事以外では来たくないけど、仕方がない。
ウィークデイほどの人出ではないのだろうけど、銀座のアップルストアなどは入場制限をしていても店内はずいぶん混んでいた。

人混みを避けながらあれこれ済ませて帰ってきた。
それにしても私も気が緩んできている。
明日はゆっくり休みたい。

オリンピックまで370日

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします





こんな時こそワクワクしたい

2020年07月17日 | 日本のこと、世界のこと
今日は、”世界がつまらなく思える理由”という、いつも以上に沈んだタイトルで書き始めたのだけど、そんなことしたら、まったくつまらなくなってしまうし、”コロ健さん、今度はなんで落ち込んでいるの?”と心配してくださるブロ友さんがいたりしても本意ではないので、その方たちに余計な心配をかけないためにも、朝からの大雨にもめげず、逆の表現にしてみたが、、、。

やっぱりダメだ、つまらない。

この半年の間に、真の難局を乗り越えることができる政治家というのがこの国にはいないということがわかってしまったら、そりゃ、落ち込みもしますよ。そうです、それが”つまらない”一番の理由なわけです。

私の個人的な理由ー仕事だの、人間関係だの、ましてや家庭問題ーではないのです。

内憂外患の国難の時に、内政では新型コロナウイルス感染症対策を適切に行い、さらにはこの大水害に対処し、外交では中韓鮮露との問題も解決できるなんてスゴイ人がいたら、それこそワクワクしながら、期待に胸を膨らませて国民の一人としてその人を誇りに思って支持していけるのだが、どうもそれは難しい。

ならばせめて、せめてですよ、国民みんなが互いに互いをいたわりつつ暮らしていける人間関係ができたらいいのだが、そういう気配はあまりない。それというのも、”大人の見本”である政治家がこんなだから余計にガックリくるのですよ。もちろん彼らが謙虚で立派であったらまだしも、揃いも揃ってドヤ顔の上から目線か、対案のない揚げ足取り。それを格調高くやるならまだしも、もう少し教養豊かな言い方はできないのでしょうか。あなたたちの姿を見て、若者は育っていくわけで、見向きもされないようではダメでしょう。
え?政治に無関心であってくれた方がいいって?
そんなんだから、業を煮やして都知事選に立候補した"相当ユニークな"人があんなにいたわけで、それがどういう意味なのか、保身ばかりでなく考えてください、と言いたい。

困りました、難題が降りかかっています、試練の時です、頑張りましょう!と、むしろ国民と一緒に悩んでくれた方がどれだけ良かったか。でも、政治家が政治家なら、国民も国民。民度が高いなどとおだてられ、それが感染拡大が言われるようになったら、とたんに、国が規制しろだのなんだのと、お上に丸投げではないですか。日本国民としてのプライドを持ちましょうよといっても、無駄か。私自身、もうあんなに虚しいことは思い出したくもない。

それにしても、東京は人が多い。電車も混んでる。自分も神奈川都民としてその混雑に貢献しているのかと思うと余計にがっくりくる。GoToキャンペーンの東京除外で日本のあちこちでがっかりするのもわからないではないが、東京一極集中をやめるには政治家がどこかに行ってくれるのが一番いいように思う。会議などリモートでやったらいいのに。
新しい生活様式では対面で会うのは極力避けなきゃいけないわけで、そんなに矛盾したことをしていて、恥ずかしいとは思わないのかね。だから、尊敬されないわけだけど。

そんなわけで、まあ、ガッカリ、ガックリ続きなのだが、どうしたらワクワクできるだろう。それには、真の救世主のようなスーパー指導者が現れることを期待することだ。最年少タイトルホルダーとなった将棋の藤井聡太さんのような天才が、政治の分野にも出てくることを期待することはできないだろうか。

でもね、この国だと、というか世界中で、そんな人は世に出る前に潰されるか、世に出てもすぐに潰されているのだろう。今の世のなか、頭脳明晰、明朗快活なんて人は嫉妬の対象でしかないからね。賢い人は火中に栗を拾うなんて馬鹿なことしないで、海外に出るか、ビジネスで儲けるか、医者でもやっているだろう。それの方がよほど幸せに過ごせるもの。ただまあ、アメリカも大変なことになってるし、ビジネスも医者もコロナのせいで大変そうだ。考えてみれば、かの救世主も、時の為政者に嫉妬されて十字架に架けられたわけだから、今に始まったことでもないか。

うーん、どうしたらワクワク出来るかな?こんな時だからこそワクワクしたいのだが。

他人に期待するようでは、ダメだね。考えてみたら私だって世の中に不平をいってばかりいてはダメなわけですよ。
ワクワクすること、やっぱり自分の手で探します。

残り時間はすくないぞ!

ブログランキング・にほんブログ村へお願いします