こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

一足早いお年玉。

2012年12月31日 | 日々思うこと、考えること
今年最後の鎌倉の朝焼けは、なかなか美しいものだった。
明日も無事、朝日を拝むことができたらと思う。初日の出は6時50分過ぎとのこと、鎌倉は山の向こうから日が昇るので7時頃になるだろう。

フラットコーテッドレトリバーのナイトの朝の散歩とお金をおろすのに鎌倉駅まで歩いた。
鎌倉の町はすっかりお正月の準備が済んでいる。
若宮大路沿い、二の鳥居前のこの材木屋さんの前は、毎年記念撮影をする人がとても多い。

鎌倉一の菓子舗、豊島屋さん。お正月のために、いったい何羽のハト(サブレー)を用意するのだろうか?

鶴岡八幡宮の境内では、出店の準備が進んでいる。大晦日の今夜から賑わうだろう。

さて、この年末休暇、結局家のことだけやってて終わった。
12月に入って、息切れ気味で、精神的にもお疲れだったので、ゆっくり休むことにしたからだ。おかげで、ずいぶん元気が出てきた。
おせち料理の手伝いもして、窓ふき、床掃除も終わらせた。
栗きんとん用の芋を練って、またまた右腕は筋肉痛となってしまった。
最後は昨日の大雨でできなかった庭掃除。
庭木の(素人)剪定をして、落ち葉を掃き集めて、さあ、袋に詰めよう、というところで、腰に激痛が。やってしまった。ぎっくり腰、というほどではないが、痛い。お墓参りにはなんとか行けたが、家に帰りつくころには車の乗り降りもままならない状態になってしまった。
明日、初詣に行けるだろうか、心配だ。

そんなことがあり、少々落ち込んで帰ってきたのだが、こんきもを開いてみたら、たくさんのコメント。
今年一年、いただくコメント、どれも私にとって、とてもうれしく、ありがたかった。みなさん、ありがとうございました。

一足早い、お年玉をもらったような気分だ。不肖コロ健、不覚にも涙ぐんでしまった。

今年いただいたコメントを思い出しながら、お返事を書かせていただいた。

さあ、来年、というか明日からもあれこれ楽しくいろいろ思い考えてみたい。

では、みなさま、よいお年を。
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あの人はこういう人だから。

2012年12月30日 | 日々思うこと、考えること
この間、横浜のとある大きな書店で、会計をしてくれた店員のお嬢さんの愛想がよく、仕事も楽しそうにやっていたので普段から聞いてみたかったことを尋ねてみた。
「あなたは読書が好きで、書店に勤めているの?」
そうしたら、
「いえ、別に、好きというほどではありません」
と、微笑みながら答えてくれた。
「そう。本屋大賞とかあるから、書店勤めの人は本が好きなのかな、と思って。ごめんね、変なこと急に聞いて」
「いえ。(包み終わった本を私によこしながら)ありがとうございました。」というようなやり取りをした。

人間、思い込みというか、自分で勝手に都合よくものごとを考える。とくに、他人に対する評価は気をつけないといけない。

あの人はこうに違いない。

ロクに話したこともないのに、人の人格を決めつける。
何年もあっていないのに、その時のままと思い込む。
いい人だといううわさを信じてしまう。

実際のところ、その人が自分の思い描いた通りの人であることはありえない。
なぜなら、自分はその人そのものではないから。
自分自身のことすら、あんまりわからないのに他人のことなどわかるわけがない。
逆に、誰も自分のことなどわかるわけがない。

今年一年、いろいろな人を見てきた。
家族に始まり、知人、友人、同僚、はては選挙に立候補した政治家まで。

それぞれの人物のことを、勝手に思い、決めつけて付き合ってきたわけだが、はたしてそれはどのような結果を招いたのだろう。
人間、出会いと別れを繰り返して生き続けている。年末年始の休暇に入って、家族以外の多くの人とは離れているが、三が日がおわればまた付き合いが戻る。休暇の間に誰に何が起こるかわからないが、時間とともに人間は変化するものなので、それなりにその人に変化が起こっていることは間違いない。

年末年始は、テレビでモノマネ番組を多くやっている。
有名人や芸能人というのはセールスポイント、というかウリというものがあり、それを商売にしているわけで、客はそれを目当てに楽しむわけで、ある意味先入観としてそれを待っている。逆に、それが無いと当惑することとなる。モノマネタレントはそのセールスポイントをデフォルメしているわけだ。

人間だれしも、セールスポイントというか特徴がある。だけど、有名人、芸能人がその特徴だけの人間ではないのはわかりきっているのと同様、それぞれの人は特徴だけではなくいろいろな面を持っている。

目立つものが自分にとって苦手なものであるかもしれないが、それ以外にいい点はいくらでもあるだろう。

あの人は、こういう人だから、などとと決めつけるようなことがないようにしていかなくてはならない。また、それっきりで変わりようがない人、というような決めつけ方もよくない。
人間誰しも、いろいろな面があり、どんどん変わっていくものである。
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今年のボツ記事 2012

2012年12月29日 | あの頃のこと…思い出話
今年もあれこれ毎日つまらないことを書いてきたが、これでもテーマなり、文章には多少気を使っている。そうしていると、企画倒れ、というか意気込みはあったが、尻切れトンボになってしまい、ボツとなった記事がいくつもある。
今年も、そんな運命をたどった記事があったのだが、一度は命を吹き込んだ文、ボツの理由とともに、タイトルを書きとどめておきたい。

病理関係・・・
1.病理医の仕事・・・別な形でいろいろ書いているので、意味がなくなった。
2.医者になってよかったか、そして病理医になって・・・これもこれまでいろいろ書いている。
3.病理医のブログ・・・それぞれテーマが違うので病理医ということでくくってみても意味がなかった。
4.病理医残酷物語・・・言われて嫌だったことを書いてみたのだが、書いていて自分で嫌になった。ひがむにもほどがある。
5.同業者同士は仲が悪い・・・人の悪口につながる話はこんきもにはそぐわない。それに病理医同士、それほど仲は悪くない。
6.医者だからって、それが何?・・・結局、自分が医者であることを強調している。だから何?

生き方について・・・
1.やれる頑張り、本当の頑張り。(つづき)・・・自分が頑張っていないのだから、人にそれを強要するのはずるい。
2.人の気持ちはスパイラル・・・落ち込む機序について考えた。
3.背中はまっすぐ、しゃんとして・・・でないと貧乏神が憑いてくる。・・・昔、ある人に言われたが、うーん、この年(49歳)になるとさすがに当たり前すぎて。若者には言いたいが、おしつけがましいし。
4.今年できたこと、できなかったこと・・・今日の記事にしたかったのだが、減量に失敗したのでボツ。来年こそ!!
5.日本の明るい未来・・・クールジャパン、日本の底力、ということで温めていたが、総選挙、政権交代となったので、これまた延期。来年かければいいのだけど。

こんきも・・・
1.死ぬ時の思い・・・死ぬ時のことなどわからない。
2.死にかけたこと・・・小学生のころの大けがのことを書こうと思ったのだけど、その時迷惑をかけた大人(先生、親)に申し訳なくなった。大人になると、大人の気持ちがわかる。
3.北欧暮らし・・・去年、学会でノルウェーに行ったとき出会った日本人のことを書こうと思ったが、北欧関係のブログがとても多いのでやめ。
4.日本の駅前の風景・・・私も20代に入り浸ったほとんどの駅前にある大きなネオンの遊戯施設の件だが・・・。
5.飼い犬に手を噛まれた妻と、助けにいったけど逃げてきたナイト・・・妻がマルチーズのコロにかまれたとき、フラットコーテッドレトリバーのナイトが助けに行ったが、コロに追い返された話。ナイトがまだ小っちゃいころの話で、書きそびれてしまった。


そのうち、同じようなタイトルで書いてしまうかもしれないが、まあ、その時はご容赦を。


生きているかぎりはポジティブに

2012年12月28日 | 生き方について考える
生きているということ自体、自分が高いところにいる、すなわちポジティブな状態にあるといえる。
生きていることに対して死は、逆というよりは、生物にとって活動性の最も低い状態もしくは無。
そして、人間は、自分がどう死ぬかということを知ることはできない。

私自身、この一瞬あとに、事故にあって死ぬかもしれないし、誰かに殺されてしまうかもしれない。それほど急なことでなくとも、来年の健康診断で手の施しようのない病気が、いきなり明らかになって余命幾ばくも無いことがわかるかもしれない。
そして、最後の最後まで、自分が死ぬ瞬間のことはわからない。医療技術の進歩により、延命処置などがとられるようになって、様相は以前とはやや異なる部分もあるだろうが、私は、臓器提供意思表示カードを持っているので、脳死判定さえ下ればさっさと延命処置は打ち切られるはずだ。尊厳死についても、議論が進んでいけば、死に方もある程度選べるようになるかもしれない。少なくとも病院で死ぬ場合、死に方に注文をつけることができるなど、幸せなことだ。

いずれにせよ、死ぬ瞬間のことなど、わからないのだから生きるしかない。

生きているということ自体がポジティブな状態であるのならば、ネガティブな感情、というのはそもそも存在しないことになる。
ああ、人生ダメだダメだ、もう死にたい。
などと、嘆きながら生きているようでは、「生きているだけで、良いじゃないか、贅沢な」という声が、墓石の下から聞こえてきてしまう。

人は死に向かって生きているけど、いつ死ぬかを知ることはできない。
生きていることそのものがポジティブなことであるのなら、生きているかぎりはポジティブな気持ちでいたい。



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感情は高いところから低いところへ落ちるから

2012年12月27日 | 日々思うこと、考えること
ネガティブな感情というのは伝染するという。だから、ポジティブな人がネガティブな人と一緒にいると、感情が伝染してネガティブになってしまう。
私がひどいネガティブ思考だった頃、ポジティブ思考派である妻に伝染るから止めてくれと言われたこともある。
この、ポジティブとか、ネガティブという感情、地面の高い低いに例えてみたらどうだろう。
もちろん、高いところにあるのがポジティブな感情。低いところにはネガティブな感情がある。
なぜなら、ネガティブな感情というのは、結局のところ”何もしない”立場であるので、高いところにはない、ということになる。

当然のことながら、ポジティブな感情の横にネガティブな感情が寄ってきたら、高いところにあるものは低いところに落ちる。これが、「ネガティブな感情は伝染する」ということだ。

”ポジティブな感情”、というのが”高いところにあるもの”、となるといわゆる“テンションを高く保つ”ということに通じる。
すなわち、低いところにある水をポンプで高いところに汲み上げなくてはいけない。
だが、一度汲み上げてしまえば、あとは楽だ。
自分と同じように、ポジティブな感情を持っている人とつき合い、ネガティブな感情を持っている人とつき合わなければいい。

そんなこといわなくても、誰でも、ネガティブな感情の人の傍に近寄りたくない。
自分はネガティブだ、などとうそぶいている私の方こそ、避けられているのではないかと心配になる。

まずは、自分をポジティブに。

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忘れられてなんかいない

2012年12月26日 | 日々思うこと、考えること
数日前、Facebookに不肖コロ健関連の写真がアップされたのだが、これに対して好意的なコメントがたくさん来た。
臨床科から、関連領域の病理の勉強をする若手医師を引き受けているのだが、とても感謝してくれているというもの。有り難いことだ。私を、その道の専門に引きずり込んでくれた、その科のかつての医長の先生(現在は某大学の教授)も「コロ健先生、良い仕事してますね」とのコメント。
面映い話ではあるけど、嬉しい話であるのは間違いない。

それで思い出したのが、何人かの知り合いの先生が、「(コロ健)先生のブログ(「こんな気持ちでいられたら」)、前向きで、真面目でけっこうすきで、たまに見ていますよ」と言ってくれていたこと。

病理医は日の目を見ないし、だれも自分のことなんて相手にしてくれていないだろう。などと、これまで、病理医としての自分の人生、すねて考えることが多かった。

なぜか。しょせん、私も人の子、人に何か言って欲しかったのかもしれない。
臨床医であれば、患者さんに感謝の言葉を口にしてもらうことは、しょっちゅうだ。けれど、病理医が臨床医から何か言われるとするとそれは、問い合わせか、苦情か。病理医が人にお礼を言われることはほとんど無い。

だけど、こんなことがあって、自分が見捨てられた存在ではない、ということを知った。
仕事上のつきあいの中でも、こうして感謝されている。
そうであれば、感謝してくれる人のために頑張ろうと思うし、元気も出る。
こんなおじさんになってもそうだと知って、ちょっと恥ずかしい気もする。


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移植医療について

2012年12月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

「これ、読んで、意見を聞かせてくれない?」と、高3の息子が、小論文の試験対策の過去問を持ってきた。
テーマは、臓器移植。

およそヒトから採取される臓器のすべてに触れる病理医、一度は移植医療に関わる組織の診断を行ったことはある。私も、臓器移植についてはよく考える。

そこで、息子からの宿題だが、あれこれ考えてみたが、結論は出なかった。
結論が出ないような問題だから、個々のしっかりした考えが必要になるのだろうが、それにしても絶対にぶれないかと言われたら難しい。

「臓器くじ」が、その文章のテーマで、賛成、反対の立場から考えを述べよ、のような話だった。

*「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。(ウィキペディアより)
1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

私は、前々から、「なぜ人を殺してはいけないか」の理由として、「自分がしてほしくないことを人にしてはいけないから。」と考えている。

だから、殺される、ということは、自分がされたくないことだから、殺されてはいけないし、他人を殺してもいけない。だから、健康な人は基本的に殺されてはならない。
だから、「臓器くじ」は、私の基本的スタンスの中では否定されるべき問題であった。


ところがここで、自分が臓器移植を必要とする立場になったら、この考えを持ち続けていられるか、という問題が生じる。
今は、だいたい健康なので、そのようなことを考えないが、いくら丁寧に生きていても体のそこここにガタは生じてくるものだ。肝臓、腎臓、そして心臓。
こういった臓器を健康なものと取り替えれば、生き延びることができる。となったら、私はどうするか。


人間は、自己保存本能がある。というか、遺伝子が生き延びるようにそう命じているので、私自身、臓器移植が必要な状況に置かれたら、移植を希望するかもしれない。

そうすると、その臓器は”誰かから貰うしかない”ということになる。その”誰か”は誰か。そして、その方法は?
私が誰かに与えるかもしれない、という状況が生じたら、どうするか。
殺されないまでにしても、腎臓の片方、肝臓の一部、といった片方ある臓器、再生してくる臓器は取り出せば人に使ってもらうことできる。これらの臓器に限って言えば、「臓器くじ」も可能だ。

日本で盛んに行われているのは、この、腎臓、肝臓といった臓器の生体からの移植だ。親子間、夫婦間がほとんどだと思うが、まったく血縁関係のない人への臓器提供ができるか。
献血は、血液という体の一部の提供だが、これについては見返りは無いものとなっている。
昔は、献血手帳を何冊手に入れて、などということがあった。

血液は、採取が簡単なので、このようなことも可能だが、腎臓、肝臓に「臓器くじ」制度が導入されたらどうするか。これは、無い話ではない。


移植医療の歴史は、人間の医療倫理感の歴史でもあるように思う。だが、遠い未来には、iPS細胞のようなものから、臓器もしくはその一部が再生できるようになるかもしれない。そうすると、移植医療というのは過渡期的な医療として消え去っていくだろう。

結局のところ、息子の質問に答えてあげることはできそうにない。
変化し続ける医療というものに、一つの答えを与えることはできないからだ。
人は、医療というものに何を求めて進んでいくのだろうか。

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クリスマスディナー

2012年12月24日 | 家族のこと
クリスマスディナーを作ってみた。
メニューは
フォアグラのポワレ サツマイモのクランブル添え
鶏のフィレー シャンパーニュ風(もともとのレシピではほろほろ鳥)
ビュッシュドノエル チョコレート&オレンジ

材料は、昨日のうちに妻が用意してくれていたのだけど、下ごしらえはやってなかったので、結構時間がかかった。なにせ、本格的なフランス料理は初めてだし、ケーキまで一緒に作ったので、仕方ない。

わずか三品だったのだが、昼前からずっと立ちっぱなしで作り出し、完成したのは20時。
最初から最後までケーキにかかっきりだったような気がする。卵黄、卵白、クリームの泡立てで、右腕が痛くなった。
それにしても、ケーキというのはバターと砂糖と生クリームをずいぶん使うものだと、実感した。

 鶏のフィレー シャンパーニュ風(4人分)

ほかのも作っていたら、あっという間に夜。

両親と弟も来たので、わが家の4人と合わせ全部で7人、結構な数となった。

フォアグラのポワレ サツマイモのクランブル添え

立ちっぱなしで膝も腰も痛くなったが、まずまずみんな、喜んでくれた。

 ビュッシュドノエル チョコレート&オレンジ

ちょっと、今夜はあまり書く時間がありませんでした。
半日立ちっぱなしで、ホントに疲れたー。
まあ、美味しかったから、よかったか。

メリークリスマス
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先輩と墓参り

2012年12月23日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
病理医である不肖コロ健、一応専門とする臓器が二つある。本当は、一つの臓器だけやりたいのだが、なにせ、病理医が少なすぎるので、一人で二つ三つの専門領域を持っている病理医は少なくない。それに、二つといっても、多くは枝分かれしていて、臓器として二つだが、その内容はそれぞれのごく一部だ。

私は医科大学を卒業した後、その大学の助教授(当時はこういう言い方をした。今でいう准教授)のところで勉強させてもらいたかったのだが、「僕は助教授だから、君の面倒を十分見てあげることはできない。母校の教授を紹介するからそっちでやったらどうか」とすすめられ、その大学の大学院に進んだ。いま所属している病理学教室である。

その、教室にはそうそうたる病理学者がいて、そのうちの一人は、現在私の専門領域の伝説的な大家だった。顕微鏡を一緒に覗いたのは2,3度しかなかったし、もちろんその大家の先生の弟子とういわけではなかったのだけど、孫弟子のような感じでこれまでやってきた。
その大先生のお墓が鎌倉にあって、そのまな弟子の先生が墓参りに来るというので、ご一緒させていただいた。

鎌倉は、晴れたり曇ったりで一日中寒かった。
お墓参りの後、オッサン二人で鎌倉観光、というか鎌倉をご案内した。こんなに寒くても、結構な人出。
小町通りのちょっと先にある、酒のうまいうどん屋にお連れして、舌鼓を打って故人をしのんだ。


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病理解剖に関する残念な表現

2012年12月22日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
やはり、病理解剖は忌み嫌われるものであり続けるのだろうか。

先日、医療安全に関する講習会があって、愛する家族を医療事故で亡くした方が演者として話をしてくださった。解剖を行ったことで、死因が明らかとなったので、解剖の意義が失われるものではなかったのだが、解剖を行うかどうかというところで、
「解剖なんてとんでもない、と思っていました。これ以上、体を傷つけるなんてとてもできない、そう思ったのです。
でも、解剖で死因が明らかになるならと、行ってもらうことにしました」
そう、解剖に対する気持ちを語っておられた。

その、とんでもないことを仕事の一つとしている私としては、ほかの病理にかかわらない職員に囲まれて、なんとなく居心地が悪かった。

死因を知る、ということと、体に傷をつける、ということは全く次元が異なる。
これは、生きている人に対する手術と同じだ。
多くのがんは治療のために体に傷をつけて、腫瘍を取り除く。
内科的な治療にしても、病気に対して効果のある毒物である薬物を投与することで行う。

だが、その過程で、生きている状態から病変の一部を切り取って病理診断を行って、治療方針を立てる生検診断や、手術で切り取られた組織を病理診断して治療が適切だったか、今後の治療方針はどうするか、といったことを検討する。

これらのことも、病理解剖という基礎から応用までが含まれた医療行為の延長上にある。病理解剖を満足に行うことのできない病理医は適切な病理診断はできないし、自分の専門領域の臓器しか診ることができない非病理医(多くの臨床医)は、自分が知っている以外の病態というのが、その臓器に出現してきたとき、完全に無力だ。

繰り返しになるが、病理解剖というものは、病気の本質を知るために必須の行為であり、体に傷をつける、という行為とはまったく別の問題である。
とんでもない、と忌み嫌われる病理解剖を、真摯な気持ちで日々(毎日ではないが)黙々と行っている医師(病理医)がいる、ということを世の人に知ってほしい。
解剖の時に体に傷をつける、ということと病気の本質を知る、ということは全く違うことだということも知ってほしい。
せめて、ご遺体に対する手術のように考えてもらえればいいだろう。

いまだ隠ぺい体質の強い医療業界の中で、病理診断行為というのは、唯一証拠を残すことのできる、患者の権利ともいえるものだ。
慢性的に不足している日本の病理医にとって、病理解剖が増えては実は困るという声が私の心の中の一方にある。
病理医だって、解剖なんて、と忌み嫌われるようなこと、やりたくもなくなる。
そもそも、解剖は、病理医にとって大変な仕事なのだ。

だから、あんなこといわれても、まあ、いいやと思う。
多くの人の無理解で、死因不明社会が、ますます広がっていく。

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沈黙は金、だけど

2012年12月21日 | 日々思うこと、考えること
先の総選挙の結果をうけ、来週の今頃には新内閣の組閣も終わっていることだろう。この時期、新閣僚の失言が相次ぐが、今度の内閣ではそのようなこと、ゆめゆめ無いことを願う。
失言というのは、口を開くから出てくるわけで、黙っていれば失言はない。

閣僚に限らず、誰にでも失言はある。国政レベルから、私の身の回りなら会議とかカンファレンスレベルまで。今では、口を開く以外にも、ツイッターとかフェイスブックから余計なことを発信して炎上しているということもある。私も人のことを言っていられるような人間ではなく、<http://blog.goo.ne.jp/kentagoo1208/e/a1c5a9024a54c04a571d358103eda2b7>、心と裏腹なことを言ってしまって、あとで困ることは多い。

だからこそ、沈黙は金、となるのだろう。

昔、あるラボにお邪魔したら、誰もがニコニコうなずいているばかりでしゃべらない。あまりの不気味さに耐えかねたバカなコロ健、そこでなんだか下らない世間話のようなのをしたらひんしゅくを買ってしまった。

あとでわかったのだが、そのラボ、揚げ足取りが部屋の名物のようになっていて、お互いだれが悪く言われるかわからないので、誰も口を開かず、ただニコニコしてうなずいていたらしい。

沈黙は金である。って、本当は違うような、これこそが本質のような、難しい。
でも、やっぱり、黙っていりゃあいいんだ、では、世の中おしまいである。

自分の考えを表に出さないでいるというのは自分にとっても、相手にとっても良いことは一つもない。仕事上のディスカッションだけではなく、自分の考えというのをきちんと表明すべきである。

雄弁は銀。などというのは、腹黒いか、意見を表すことが下手な人間の言うことだと思う。

本当の意味で、雄弁になることはとても難しい。
政治家でも、しょっちゅう口が滑るのだから、そういったトレーニングをしていない人間であれば当然である。


真の意味でリーダーになるには、多くの知識、深い考察とともに雄弁である必要がある。

残念ながら、私の周りにそういう人はいない。なかなか、大変なことである。



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朝晩の歩き

2012年12月20日 | 通勤・交通・旅行

外に出て歩かないと、良い考えが浮かばないのでよくない、などと言っているが、ここのところの朝晩の寒さは、歩きたくなくなるほどで、体にも堪える。
日なたを選んで歩いているのだけど、なかなか温まらないし、東京では駅を降りると駅ビルのビル風が身にしみる。夏は探し求めて歩く木陰にしても、これほど寒いと、葉の落ちた枝の影さえ、恨めしい。

寒くて困ることの一つとして、肩こりがある。
中年を過ぎれば誰しも腰痛とともに肩こりにも悩んでいることと思うが、寒いと凍えるような格好をするので、肩がこるとのこと。寒さと肩こりの関係など、あるわけないと思っていたが、意外とあるらしい。また、猫背にもなっていないように気をつけているが、年のせいもあるかもしれないのだが、寒くてまっすぐにならない。意識するとよけいに猫背が気になって、おかしな姿勢になってしまう。
元気よく駆けながらすれ違っていく半ズボンの小学生をみて、40年前の自分を思い出してみる。
小学校までは歩いて3分ほどのところ。角を一つ曲がれば小学校の校舎が見えた。よく私も駆けていっていた。
今よりも寒かったということだが、寒かった記憶がほとんど無い。不思議なものだ。
そういえば、あの頃は肩こりなどとは全く無縁だった。
今、寒い寒いと言っていても、あと、半年もしたら、すっかり忘れてしまうのだろう。

毎朝、毎晩、40分足らずだが自分の足で歩いて、外を歩いて、空を見て、葉っぱの落ちた枝を見て、というようなことをして、折々の季節を感じてみると、自分が生物であり、生きているのだということを実感する。
これはこれで、良い習慣なのだろう。

それにしても、今年の冬は寒いなあ。

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忘れることこそ大切

2012年12月19日 | 日々思うこと、考えること
“忘年会”という言葉、広辞苑でひくと、『その年の苦労を忘れるために、年末に催す宴会。』とある。
忘年会の目的は、すなわち書いて字のごとく、忘れること。

人間、生きているとつらいことばかり増えていく。だから、基本的にネガティブになってしまうのだろうけど、そういったことひとつひとつを忘れて行くことで明日がひらけてくるともいえる。

「忘れる」という言葉、やってはいけないことなのに、本当は皆が望んでいること。

「忘れない」という行為は、努力を要する。とくに、勉強がその象徴だ。
人間、何でも忘れてしまう。勉強したことなど、何度も何度も復習しないと忘れてしまう。
生きていくために必要なことは忘れない、というのであれば勉強したことも忘れないはずだが、忘れてしまう。ひと目惚れした異性のことは忘れないにも関わらず、である。
だから、勉強の内容、というようなことはどうでもいいということになる。少なくとも、人を好きになるよりは、本質的にはどうでもいいということになる。
勉強したことなど、今ではほとんどすべてPCが覚えてくれている。だから、知識だけの人間が不要である理由だ。
それよりも、大切なのは、勉強したことを再構築して、実践的に使えるようになることだ。

話が、少しそれてしまった。
要は、苦労した一年を忘れることは大切で、忘れるからこそ新しい楽しいことが入ってこれる。苦労したなかから覚えておくべきことは忘れずにいることこそ大切なのだ。覚えていたってネガティブになってしまうようなことは、さっさと忘れたほうがいい。
そうやって、新しい一年を迎えることが大切、という会が忘年会ということなのだろう。

今日は、病理診断科の忘年会。
皆さん、一年間お疲れ様でした。大きな事故もなく過ごせて良かったです。
来年も、よろしくお願いします。



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犬は歩いて棒に当たる

2012年12月18日 | 日々思うこと、考えること
このブログの記事を考えるので多いのは朝の通勤時だ。とくに、病院まで歩く40分足らずが最も多いように思う。犬も歩けば棒に当たるで、朝の新鮮な空気を吸いながら歩いていると、あれこれ思うことがある。そしてこれを書き留め、ときどき思い出しながら一日過ごして、帰りの電車の中で仕上げる。

ところが、今朝はこれができなかった。
某科で緊急手術があって、迅速診断の申し込みが入った。夕方からの手術で、19時~20時頃に検体が出る。という話で、わかりました待ちましょう。ということになっていたのだが、そうはいかなかった。最初予定していた手術よりもよけいに緊急度の高い手術が入ってしまったとのこと。
連チャンで頑張るので、待ってて欲しいと頼まれてしまった。
私1人なら良いが、術中迅速診断は病理医1人がいれば良いというものではない。腕のいい臨床検査技師も待っていてもらわないといけない。
一応、担当医に「迅速診断、必要?」と、聞いたら「診断、これで決まるので、お願いします」と、訴えるような目で答えられてしまった。

というわけで、検体が出てきたのが24時。標本を作って、診断をして、返事をして、全部終わったのが1時。帰れない。結局、医局の自分のブースに置いてあるリクライニングチェアで2時から6時まで眠った。病理医のように当直が無いことが前提の医者には当直室や仮眠室は使えない。

病院の中に30時間以上連続していると、なかなか記事が書けない。
天気もわからないし、ニュースもネットだけだと限定的で、世の中がどうなっているのかよくわからない。
医療ブログで患者さんネタが多いのも仕方ないように思ってしまう。

やっぱり、外に出ていい空気を吸って、良い考えをひねり出す方が健全である。
犬でもそこらへん、ほっつき歩いて、棒に当たることができる。そんなところだろうか。

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え?もう来週で今年も終わり?

2012年12月17日 | 日々思うこと、考えること
紅葉もそろそろ終わり。
ドウダンツツジの葉の落ちた枝を、上からの落ち葉が覆っている。
自民党の“恐ろしいほどの”圧勝となった総選挙のあった昨日の暖かさとうってかわって、今日は朝から雨模様で真冬の寒さが戻ってきた。

午前中、臨床医から病理診断の年内の予定を確認する電話が来た。
病理診断には患者さんから採取した組織をホルマリンで固くして、薄く切って顕微鏡で観察することのできる標本を作る。したがって、病理組織標本ができるまで基本的には3日必要となる。今年でいえば28日が仕事納めなので、25日には患者さんの組織をとってきて欲しい。急いてはことをし損じるのとおり、あまり急いで標本を作ろうとすると、色のつき具合などがいつもと違う出来となり、診断にも影響する。

この会話をしていて驚いた。
「今年中に結果が知りたいので、いつまでに組織をとればいいですか?」
ええ?今年中って、そうか、もう来週で今年も終わりか。
実際のところは晦日、大晦日が再来週の月曜、火曜なので、3週間あるともいえるが、あまり意味が無い。

油断していた。
昨日は、投票に行っただけであとは、家で久しぶりの庭いじり。十分太らせたカサブランカの球根を埋め直していたら、あっという間に日が暮れた。WOWWOWで、黒澤明監督特集をやっていたのにハマって、気がついたら20時。選挙速報を見始めたらあっという間に日付が変わってしまった。

うーん、全部をうけていたら、1月上旬に講演などの仕事が4件になっていたにもかかわらず、まだ準備は始めていない。年が明けたら息子の入試も始まって、気ぜわしくなってしまうだろう。

師走でなくとも、時間はあっという間に過ぎていくが、油断大敵。
今回はきっちりやらないと大恥をかきそうな予感がする。
まずは、病理学会総会(6月、札幌)の抄録(締め切りが20日)を書かないと。

今年も残すところあと2週間。
皆様も、しっかり実感して、私と一緒に慌ててください。