こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

あかね色の空と蛍

2013年05月31日 | 日々思うこと、考えること

先週来の風邪はますます増悪し、頭が割れんばかりになってきた。
風邪には仕事を休むのが一番なのだが、昨晩のうちに病理解剖の予約が入っており、レジデントに手技を教えるためにどうしても休めず出勤した。
どうしようもなくつらくなったので、隣りのデスクの内科の先生に診てもらった。
「(コロ健)先生、ここまで放っておいたでしょう?」と、ズバリいわれてしまった。
ちょっとこじらせてしまったようで、少し長引きそうだ。

薬は出してもらったが、病理解剖の前に飲むわけにもいかないので、そのまま入った。剖検の間は集中してできたが、終わったらまた頭が痛くなった。
昼食をとり、やっと薬を飲んだ。

鎮痛剤のおかげで、しばらくして、頭痛は収まり、結局1日仕事をすることができた。
来週の病理学会の準備が滞っているが、今日のところは早めに仕事を切り上げて早めに寝ることにした。

早めに病院を出たら、まだ明るくて久しぶりにあかね色の空を見ることができた。
だが、駅に着いたら、あんまり人が多くて驚いてしまった。

鎌倉に帰ったら妻がナイトと駅まで迎えに来てくれていた。
例年より早く飛び始めた蛍を見るのにきたということで、少し遠回りして帰った。蛍は午後9時を過ぎるといなくなる。それにも間に合った。

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鼻にかかった、というより鼻づまりの声

2013年05月30日 | 日々思うこと、考えること
関東地方も昨日梅雨入りした。
2,3日で治るだろうと思っていた風邪は増悪の一途。鼻水が止まらず、鼻のかみ過ぎで鼻の下がヒリヒリする。ほかにも数名、同じような症状の人がいるので、流行っているのかもしれない。皆さん、鼻声である。

ところで、最近電車内などで鼻にかかったような声を出す女性にしばしば遭遇する。
多くは大学1年生の女子学生といったような感じで、入学後知り合った男子大学生と話しているときに、そういう声を出している。聞きたくないのに、声の出し方のせいか電車内でよく響く。
甘えた声、というわけではなく、自分自身を“かわいく”演出しようとしているようなのだが、私には鼻にかかった声、というよりは風邪をひいている今の私にも出せそうな、鼻づまりの声にしか聞こえない。
思わず笑いそうになって困ってしまうのは、時々油断してしまうのだろう、地声が挟まって“女同士ではこう話しているのだろう”、みたいな感じになるときだ。

この変な声、どこかで聞いたことがあると思ったら、萌え系というようなアイドルがこの声で話していた。萌え系アイドルのまねをすることで、自分も萌えてもらいたい、ということなのだろうか。
だが、まあ、最初はそれでおつきあいでもを始めることができたとしても、ずっとそれを続けるわけにもいかないだろうし、同性の友達が一緒にいても、それをやり通せるのだろうか?

いずれにせよ、あの鼻づまりのような声、地声でないのなら、やめておいた方がいい。

ちょっと違うが、ゴルゴ13の名言に「舌足らずな女は可愛いと言うが……武器を口に含んでいるのは別だ」 というのがあった。

作り物の声は、決して男性の気をひくものではない。


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私と鎌倉と豊島屋

2013年05月29日 | 鎌倉暮らし
いつもお世話になっている人にお会いするので手みやげに豊島屋の鳩サブレーを用意した。
鎌倉ニュージャーマンのかまくらカスターレ・ザンジュの焼き菓子もいいが、やっぱり鎌倉土産といえば鳩サブレーが一番わかりやすい。
というか、私だったら鳩サブレーをいただくのが一番うれしいので、人様に対してもそうする。

豊島屋の鳩サブレーとはバターがたっぷりの香ばしい大きなクッキーで高校生の頃、たまに家にあったりすると、牛乳と一緒に2、3枚をあっという間にむしゃむしゃ食べていた。
若いうちに比べて食の細くなった最近では、頭の方から食べるか、尾のほうから食べるか悩みながら、1枚をゆっくり食べる

鎌倉市民の多くが鳩サブレーが大好きなはずだ。何年か前に鳩サブレーの大きさがステルス値上げで小さくなったのではないか、という疑惑が私の周囲でささやかれたこともあったほど、鳩サブレーに対して興味を持っている。
この件に関しては、誰かが店頭で確認して、抜き型が変わっていないので大きさも変わっていない、という説明をいただき一件落着となっている。

私は、鎌倉出身ではないので、以前は豊島屋が若宮大路にあることも知らなかったし、若宮大路と段葛が同じであるということすら知らなかった。
だが、逗子生まれで鎌倉育ちの妻と、生まれて間もない長男を連れて鎌倉に引っ越してきて、20年ちかく経ち、今では豊島屋というお菓子屋さんは、自分の中にしっかりある。

鳩サブレーの袋に描かれている鳩は白い。
鶴岡八幡宮の鳩はほとんどが白いので、鎌倉育ちの長男や鎌倉で生まれ育った娘などは鳩は白いものだと思っていた。
だから、鳩サブレーの袋にある鳩が白いことに違和感を全く感じていない。
私も、今では鳩サブレーの袋の鳩が白いことに違和感を感じない。

昨日届いた『広報鎌倉(鎌倉市の広報紙)』に、豊島屋が由比ケ浜、材木座、腰越の三海水浴場のネーミングライツ10年分を得たことが出ていた。
豊島屋は「鳩サブレー海岸にはしない」という方針だそうで、このことに関しては、多くの鎌倉市民、神奈川県民が感謝していることとと思う。

鳩サブレーを買ってきた妻も、「これって、豊島屋さんへのお礼よ」と言っていた。
こんなお礼は悪くは無い。
この先、10年、豊島屋でお菓子を買うごとにそんな感謝の気持ちをもつことになるだろう。


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あなたが幸せであってくれるのなら

2013年05月28日 | 日々思うこと、考えること
ここのところ、生きることの意義、存在しているということの意味、そういったことばかり考えている。決してヒマなわけではないし、仕事だらけの現実から逃避しようとしているわけでもない。適度に時間はあって、あれこれ考えてこのブログ(こんきも)の記事を書いている。
それでも、このところ生きることが難しいと感じてしまう。
より良く生きること、善良であること、ということが人間にとって、いや、私にとってきわめて困難であるということを実感してしまう。
ここのところ、私がそんなことばかり考えていることが妻にもわかったのだろうか、「大丈夫?」と声をかけられた。

さすがに、20年以上連れ添っていれば、その言葉に込められた意味はいちいち説明されないでもわかる(と思う)。妻は、(先日来の風邪のことではなく)私がいろいろな思いに捕らわれ、思いふけっていることについて、心配してそういってくれたのだろうと思う。

そう聞かれて、私は「(妻が)幸せであってくれるのなら、僕は大丈夫」と答えた。
今日が妻の誕生日だからといって、用意していた言葉ではなく、思わず口をついて出た言葉だった。


その時は、妻との会話であったから、妻が幸せであってくれれば、と思った。
けれども、それが、家族みんなでいる時であれば、そこにいるみんなが幸せであってくれれば、私は大丈夫。

さらに、職場や、地域の集まりであるようなところであればそこにいるすべての人の幸せであるし、さらには、国レベルであるし、国境を越えて地球上すべての人の幸せであろうし、さらには生き物すべてが幸せであって欲しい、と願う。
だけど、そういうことはなかなか実現できない。
結局、身の回りまでにしか視線は行き届かず、自分の手に負えないことの大きさに打ちのめされる。
そして、そこから立ち直ろうという気力が少しづつ弱くなっていることが悲しく思える。



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時計の針は元に戻せない “You can’t put back the clock”.

2013年05月27日 | 生き方について考える
「時計の針は元に戻せない(“You can’t put back the clock”.)」、文字通りとれば、時間は一方向にしか進んでいないという意味になるが、その受け止め方、解釈は人それぞれだろう。

これまで私はこの言葉を、「いくら後悔しても、一度行ってしまったこと、とくに過ちを取り消すことはできない」というように捉えていた。その結果、いつまでもいつまでも、心は昔のことに捕らわれ続け、なかなか新しい自分というものを掴めないでいる。そして、このようなことばかり繰り返していると、自己肯定感は消失していくし、将来への希望も持てない。

常に、過去が自分の生き方を規定してしまっている。

ただ、どれほど悔やむことになろうとも、今(もしくはその時点で)行ったことは、必ず将来に結果として返ってくるもので、そのことを自明のこととして受け入れたら、生き方は多少違ったものとなってくるかもしれない。

今、行ったこと、というのは、今現在自分が存在していることも含めたことのすべてである。“すべて”というもののなかには、当然、自分の意志に関わらない(ように感じられる)ことも数多く含まれている。

すべての事象が時計の針とともに、一点の歪みも無く進行している。
今、この文章をつづっている私は座っているが、この記事を読んでいるあなたはたっているかもしれないし、寝ているかもしれない。そして、私がこのことを考えてからあなたが読むまでの時間の間、私もあなたも同じ時間を生きていたということになる。
それらの事象は関係ないようでいて、関係しているように思える。


私が、今、考えていることが正しいかそうでないのかを判定することは意味が無い。
なぜなら、正しいとはなにか、という正解など無く、そういう状態では、正しいかそうでないのかの判定はできない。

人生、というか全宇宙のすべての事象は同じ時間軸の上で、一つの方向にしか進んでいないし、どの時点からも逆に戻ることはあり得ない。
再現性がないという観点から、“こうすれば良かった”、“ああしておけば良かった”という思いは意味無駄である。

人生の終わる瞬間がいつ来るかはわからないが、日々より良く生きることを心がけていれば、最期の時に、後悔しないで済むかも知れない。

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君子危うきに近寄らず (A wise man keeps away from danger)

2013年05月26日 | 生き方について考える
不肖コロ健、座右の銘は、「君子危うきに近寄らず(A wise man keeps away from danger)」である。
それでも、危ないことは世の中にごまんとあって、しょっちゅう近づいてヒヤッとしている。

私にとっての危ういことを挙げると、“異性”、“ギャンブル”、“酒”、“タバコ”が代表となるが、これらに付随したもの、関連したものを考えていったら、それこそ本当にきりがなくなる。
比較的害の少なそうな、“テレビ”とか“食事”といったものも度が過ぎれば障りがある。

人間の欲望は際限がなく、その欲望こそが“危ういこと”といえる。
欲望というものが、人間に限ったものかどうかはよくわからない。
フラットコーテッドレトリバーのナイトは、散歩に行くこと、エサを食べることを愛している。犬にとってこれらのことは果たして、“危うい”“欲望”であるのだろうか。散歩が嫌いで、エサもたいてい残すマルチーズのコロを見ていると、すべての犬に共通していないことなので、人間とは若干異なっているような気がする。それに、ナイトはエサの置き場所を知っているけれども、どうしても欲しくてそれをひっくり返すという、泥棒のようなことはしない。このような点では、人間よりましと言える。

上に挙げたものを含めた、私にとっての“危ういこと”は、“酒”以外は、今のところほとんど押さえ込んでいる。”タバコ”との戦いは20年近くにわたったが、なんとか離脱できた。”ギャンブル”も今では遠い昔の話といえる。
ときどき、テレビを観すぎたり、相変わらずご飯の大盛りを頼んでしまったりすることはあるが、どこまで遠ざけるかは難しい問題だ。
テレビについてはダイニングには置かないということで、なんとか遠ざけているが、大盛りご飯はなかなかやめることができない。

いずれにせよ、危ないものはなるべく遠ざけておく方がよさそうだ。なかでも、女性を遠ざけておくというのは難しいが、このことを見越して比較的女性が少ない科を選んでおいたのは正解であったと思う。

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親子喧嘩

2013年05月25日 | 家族のこと
どうも、娘と上手くやれない。
昨晩も、食事前にどうでもいいことで喧嘩になってしまった。どちらが悪いというわけではないのだが、私の方が声を荒げてしまった。

このブログ、娘に意地悪をしたことを反省して始めたのだが、5年以上たつのに相変わらず、うまくいかない。
なぜかを考えてみても、なかなか答えは見つからない。

思春期の女の子とその父親との関係についてはいろいろあるようだが、何が一番いいかなどという答えなどあるわけはない。それぞれの父娘において、それぞれの関係がある。同じ父親でも長女と次女というだけでも違うだろう。

それでも、仲よさそうに鎌倉を歩いている父娘を見かけるとうらやましくなる。

亡くなった義父と妻はとても仲が良かった。義父は妻のことをとてもかわいがっていたし、妻は義父のことが大好きだったし、いつもよく一緒に食事や買い物などしていた。

義父は娘である妻とどう付き合っていたのだろう。彼が元気なうちにコツを聞いておけばよかったと思う。


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体調不良で思うこと

2013年05月24日 | 日々思うこと、考えること
水曜日辺りから、体調が下り坂で参っている。
喉のイガイガ、咳、くしゃみ、微熱、鼻水そして頭痛。
どうやら風邪をひいてしまったようだ。

日曜日に花の植え替えを遅くまでやっていたのがいけなかったのだろう。このぐらい(40代)の年は、免疫力も比較的良好であるけれど、油断はできない。
空気が乾燥して気道粘膜が障害されやすい状態にあることや昼は気温が上がるものの、朝晩はまだまだ涼しく、体温調整が上手にできていないということが重なったのも悪かった。

気温がそれほど下がらないままなので、何となく調子が悪い状態のまま推移して一週間が終わろうとしている。
調子が悪いとたいてい、気が弱くなる。とくに、仕事に関する心配事がぐっと頭をもたげてくる。
そして、それが大変な状況であることが明らかになるほど、体調はさらに悪化し、仕事の効率は落ちる。
ブログを書いていても、何がいいたいのか今ひとつわからない。まあ、それはいつものこととはいえ、それに輪をかけたようになっている。

多くのことが、今ひとつうまく行かなくなっているのに、私のこと以外は粛々と進行している。
こういう時は、休むのが一番というのはよくよくわかっているのだが、なかなか休めない。有給休暇という単語は、日本では依然として否定的な言葉の一つであるようだ。




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「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」

2013年05月23日 | 妻の名言
先日、昼食のときに、家人の出迎えの話になった。
わが家、というか妻は、出かける時はもちろん玄関まで見送りに来る。帰宅時も門のところでベルを鳴らすと、玄関を開けて待っていてくれる。そして、息子も娘も、家にいれば出迎えにきてくれる。

まだ若い女医さんが、「いってらっしゃいは玄関まで行ってしますが、お帰りなさいは子供だけ行かせて、なかなか行かないです」と話していたので、コロ健も、「この間、かみさんが帰ってきたときに、子供たちだけに出迎えにいかせて、こっち(コロ健)はテレビを観ていたら、怒られた」と話した。

ほかの人も、見送りは結構するが、出迎えはちょっと、という感じだ。

「今、会っている瞬間が最後かもしれないのだから、別れ際にはきちんと別れなくてはいけない」というのが妻の持論で、けんか別れなどもってのほかである。

それはそれとして、出迎えだ。
帰ってきたら、お疲れ様、よく無事で、と迎えるということのようだ。

年上の先生が、「コロ健先生、いいわね、三つ指ついてお出迎えという感じね」
とからかわれた。
私としては、そんなこと考えたことも無かったので驚いた。

その後、ひとしきり見送り、出迎えの話が続いた。
その若い女医さんに、「先生も、旦那さんが帰ってきた時には、おかえりなさい、してみれば?」とすすめたら、「急にそんなことすると、『どうしたの?』なんて、変に思われちゃいますよ」というので、「以外と自然にできるだろうから、とりあえず、やってみたら?」と言った。顛末は、そのうち話してもらう予定だ。

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ちょっと立ち止まってみた

2013年05月22日 | 日々思うこと、考えること
鎌倉警察前の信号、走れば渡れそうだったが、一つ待つことにした。
一日4時間近くという膨大な時間を通勤に費やしていることを考えれば、信号待ちの1、2分など、律速段階である電車に乗り遅れなければどうということは無い。
立ち止まってみるだけで、いろいろなことを思う。

もっとも、大事なことは、「立ち止まる」という行為そのものへの思いだ。


「立ち止まる」、という行為には、「物理的に歩くのを止める」以外にどのような意味があるだろうか。

止まっている、ということはすなわち、自分の時間が止まっているということだが、周囲は動いている。
横断歩道のたもとで、鶴岡八幡宮の方を見て、駅を見て、海の方を見る。
目の前を猛スピードで車が横切り、後ろから来たバスに追い越される。

自分という存在が意識だけになって、そこにあった。

信号が変わって、電車を待つ列に並ぶために、足早に歩きだすと、立ち止まったことすら忘れてしまう。
時間が動き始める。

自分が立ち止まろうが、そうでなかろうが、世界にどれほどの変化があるか。
おそらく、無い。
それでも、世界は同時に進行しているということを思い出した。

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写真の撮り方

2013年05月21日 | 日々思うこと、考えること
私が尊敬している病理の先輩はみな顕微鏡写真を撮るのが上手だ。
最も尊敬している先生の写真など、額に飾っておきたいくらいだ。構図、ピントすべて完璧で、非の打ち所がないと勝手に思っている。
今度の病理学会でも講演があるようなので、写真を見るだけでもいいからお話を聞きにいこうかと思っている。
ほかの先生達も、皆上手であるが、まずはピント、次に構図、という感じである。
病理の標本は3、4μmの厚さである。その厚みの中、どの細胞に焦点を当てて、その細胞の核のどの厚さにピントを合わせるか、というところで写真を撮るタイミングが決まる。
だから、上手に撮れた写真というのはピントがあっていて、腫瘍細胞が画面から飛び出してくるように見えることすらある。
だが、構図はどうしても二の次になってしまうようだ。標本内には極小の汚れ、傷があり、それらはよほどのことが無い限り、よけることになる。
そうすると構図は若干甘くなるので、その辺りの兼ね合いを考える必要がある。

などというようなことに気をつけながら、日々、診断書に添付する写真を撮っている。

さて、このブログ、こんきも、の写真も記事とともに、日々撮ったものを載せている。
その時々の風景が残って、2、3年前の記事を読むと、季節感があって結構うれしい。ただ、朝の通勤時だと、都内に入ってからの写真を撮ることが多く、建物や人物が写り込んでしまわないように注意しなくてはいけない。
       

病理の写真にしても、ブログに使う写真にしても、それぞれ、一工夫して撮らないと、意味の無い、役に立たないものになってしまうことは同じだ。
ちなみに、私が最も尊敬している先生もブログをやっておられるが、そこにある写真ももちろん美しい。

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『右』を説明する

2013年05月20日 | 日々思うこと、考えること
誰でも時々へんな考えにとらわれることがあると思うが、たいがいは「ふと思っただけで」すぐに気にしなくなる。
そういうときは、だいたい何らかの答えなり対応方法を思いつき、すぐに解決してしまっているものと思う。
だが、このあいだ思いついた考えに、答えはみつからずに焦った。

「右とは何か」

具体的には、「右」という概念を言葉で表現するとどうなるか、ということだった。


自分の体から向かって右、というのを表現することは難しい。

上下も結構難しいが、これには高い、低いという言葉がある。上は高い位置、下は低い位置と表現できるので、何となくわかったような説明ができる。
大小も多い少ないという言葉がある。

これらに比べて、左右というのは対応する言葉が無い。

とてつもなく、不安になってしまった。

右、右手、右折、右方、右大臣、右肺、右腎・・・右を向く、回れ右。
右とはなに?

左も右が表現できなくては、同様に表現のしようがない。

あれこれ考えたのだが、私には“右”を言葉で説明することはできなかった。
『右は右』で済ませることは難しい。
言葉に表すことのできないことが存在するというのはきわめて恐ろしい状況だ。

いい知れぬ不安感に包まれる。


結局、広辞苑で調べてけりがついた。

みぎ【右】 南を向いた時、西にあたる方。⇔左。
ちなみに、みなみ【南】 四方の一つ。日の出る方に向かって右の方向。⇔北。であった。

英英辞典では、rightは方向というよりは、正しい、という意味が強調されているように思われた。もちろん日本語でも右左はあるが、それよりずっと強い感じである。

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春から夏へ

2013年05月19日 | ガーデニング・菜園・花・緑
春先にたくさん植えたチューリップ、残しておいた葉が黄色く萎れてきたので、球根を掘り起こした。
このあと、洗って消毒しないといけない。

花の少ない冬の間、目を楽しませてくれたパンジーやビオラもそろそろ終わり、夏の花に植え替えることにした。
いつもの園芸店に消毒薬と植え替える花を買いに行った。
花を選んでいて思ったのは、春から夏にかけては放っておいても緑が多いので、花を選ぶのはかえって大変ということ。商売というのは、大変だ。

さらに、不肖コロ健、何を選んでいいのかなかなかわからない。というのも、冬なら適当に選んでも、もともと色が乏しい季節なのでそれなりに様になるのだが、夏の草木はそうはいかない。
高さを変えれると奥行きが出る、なんてバカの一つ覚えのようにして、コロ健、選んでみたのが、高いのと低いのの2段。
見かねた妻が選んだのが、高いのと、中くらいのと、低いのの3段。
指示通り、四角いテラコッタの鉢を空けて植えてみたら、なるほどうまい具合になる。
玄関先に置くということで、そうしてみたら、自分でもうれしくなるほどのはまりかただった。

一日の長とは、このことだ。

所詮、自分(コロ健)には、せいぜい(小学生レベルの)チューリップがお似合いなのだ、などといじけながら古い土から根を取り除いたり、ふるいにかけたりしているうちにあっという間に夜になってしまった。

私の選んだ花を植えた鉢をパンダの横においてみた。
日が暮れてしまって、詳細はよくわからないが、それなりに、かわいい門となった気がする。


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手紙を書く機会

2013年05月18日 | 電脳化社会
標本の貸し借り、診断のコンサルテーションなどでほかの先生と書面でやり取りするときの半分くらいは手書きにしている。
書くことは大体同じような内容なので、何通か書けばテンプレートのようなものが出来上がるのだけど、大体同じ内容、というのは細部では違う内容なので使いまわしには気を付けなければならない。

仕事上のやり取りというもの、結局のところどちらが頼む方で、どちらが頼まれる方かということで、文面は変わるはずなのだが、医療業界ではどうも違う。
紹介状にはテンプレートがあり、それに必要事項を書き込むだけで済むようになっている。



・・・・先生御机下
から始まり、
平素よりお世話になっております、このたび・・・・・様をご紹介します。
主訴は・・・・です。

なにとぞご高診のほどよろしくお願いいたします。
平成・年・月・日
〇○病院××科
・・・・・拝

これって、どうよ、といつも思っていた。
今日では、ワードとかでテンプレートができているので、電子カルテ化されているような病医院でなら紹介状も自動で簡単にできそうだ。



私はほかの先生に手紙を書くときには、なるべく手書きのものを出す。
そもそも、大体のやり取りはメールで済むのだが、せっかく紙の文書を用意するチャンスである。手書きの手紙にする理由はとしては、手書きの方が相手との距離感に応じた文章が作りやすいことやいちいち印刷するのが面倒というということがあるが、こんな時しか万年筆を使う機会がないからということもある。

学生時代をのぞけば、手書きできちんと書く機会など、手紙を書くときくらいしか残っていない。だが、手紙を書く機会というのが少ない。何でもかんでもメールで済んでしまう。証拠が残るという意味ではメールの方がよほど重宝するようになっている。

この先、ますます手で何かを書くということが減っていくだろう。手で何かを書くというのは、ボケ防止にもいいに違いないので、何かにつけて、字を書くようにしていかねばならない。

このブログの記事を手書きで書いて、写真を撮って取り込もうと思ったが、悪筆のため、それはやめておく。

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あなたの趣味は、と尋ねられ。

2013年05月17日 | 日々思うこと、考えること
先日の父の絵の個展、手伝いがてら開催中に二度ほど顔を出した。

父の古い知り合いの方には、「せがれのコロ健です」などと挨拶をする。
ひとしきり話したあと、よく尋ねられたのが、

「あなたも絵を描くのですか?」ということだった。

子供の頃、父に連れられてしょっちゅう絵を描きに出かけていたが、あまり好きになれなかった。並んで描いていると、父の絵を見た子供が、「こっちは上手だね」といって、そのあと、「こっちは下手」などと、残酷に正直な感想をいわれたりして、子供心に当たり前だと思いながらも嫌になってしまった。高校で美術部に入ったりもしたが、結局趣味にするほど好きにはなれなかった。
絵なんてものは、描くのが大好きな人間でないと、趣味にはできない。

絵に限らず、趣味というものはまずは好きでないといけない。

仕事以外に趣味として何かやっているものはないかと聞いてくる人もいる。
そこで、返答に困る。
「これといったものは」などと応えると、「そういうのが無いと、仕事をやめたあとつまらないですよ」などと言ってくる。大きなお世話とも言えないので、「そうですね、今からでも探した方がいいですね」と言ったようなことになる。

趣味というからには、ある程度年季が入っていてレベルもそれなりのものでないとならない。という、プレッシャーが私にはある。

小学生の頃、小学生男子の例に漏れず、切手収集を趣味としていたが、圧倒的に高価な切手を持っている奴とかがいて、かなわないということになって、だんだんつまらなくなってしまった。いまでも、当時の切手帳があり、時々めくってみることはあるが、趣味とはいえない。

鉄道関係のも、記念切符ブームがあって、いくつかの駅の切符を早朝から買いにいったが、それも、“本気で”集めている人間にはかなわないので、つまらなくなってやめた。

バスケットボールといっても、ここのところ足が痛くてほとんどできなくなっている。庭いじりは、結局のところ、妻のお手伝いといった程度であるし、すごく好きというわけではない。
料理も妻の方が上手なので、面白くない。バーベーキューなんて誰にでもできる。
読書といっても、趣味といえるほどの本の虫ではない。

同好の士と思って会話をしていても、どうしても相手より上に立とうとする人と関わることになる。そうすると、必ずつまらない思いにいたる。
オンリーワンであるにも関わらず、比べようとするのはどういう感覚なのだろうかわからない。
だが、そういう“やたらマジな人”につかまったら、あっさり敗北を認めて、その場から立ち去るのがいいと思う。

あとは・・・このブログか。
「何か趣味は無いんですか?」と聞かれた時に、「文章を書くのが好きなんです」と応えた。
「ああ、じゃあ、エッセイなんかいいじゃないですか」といわれ、「はあ、まあ」とか言ってその場は終わった。
推敲も十分していないような文章を毎日書き連ねていることを趣味といえるかどうかわからないが、聞かれた時には、趣味はブログです、と言っておこうと、それ以来思うようになった。

このブログにかける時間がたっぷり取れるようになったら、これまでの文章に手を入れて、リンクしているところを辿って私の生きた世界を立体的に俯瞰したいと思っている。

それまでの、ささやかな願いはあと1ヶ月ちょっとに迫った連続1,000日投稿で、これが達成できたら、誰かに聞かれたときの自慢のたねにしてもいいかと思っている。
できれば、“プロのブロガー”みたいな人には遭遇したくない。

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