こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

いんちき

2011年02月28日 | 電脳化社会
映画マトリックスの中で、登場人物達がコンピューターからいろいろな情報をインプットされている場面があった。
ヘリコプターの操縦方法なんて言うのもあったはずだ。
中枢神経系に対して情報をインプットするのは、とても難しいと神経病理の苦手な私としては思っているが、脳神経がほぼむき出しになっている部分に補助的な装置をつければそれに近いことならある程度できるような気がする。

嗅神経、視神経そして内耳神経。こういったものを補助する、とても小さな装置を開発してしまえばいい。
とくに、スパイ装置というのは重要だが、カメラ内蔵の眼鏡なんて言うのは、すでにどこかにあるだろう。
その他の神経にもアウトプットの装置を作ることはできる。例えば、口の中にキーボードを入れてしまえばいい。

今回の、大学入試での不正、暗記問題だけでなく解き方まで教えろ、ということだったようだが、入試というシステムで人を選ぼうとしている限り防ぎようがなかろう。
科挙でも、耳なし芳一よろしく、覚えなくてはいけないことを体中に書いていたなどという話を聞く。

一流大学に入るためなら、脳の一部を機械に置き換えてでも入りたい、などという人は多かろう。入ってしまえばこっちのものだから。
そもそも、現在行われている我が国の入試。受験テクニックが優れてさえいれば、どこの大学にも入れる。受験テクニックだけで名門高校に入る生徒が多すぎて、入学後学力が伸びず、大学進学実績が落ちた、とか言う話も聞く。
すくなくとも、高卒の段階で学部を振り分ける、ということはやめた方がいいのではないか?
米国のように4年制大学を卒業してから、専門課程に進む、というほど余裕が無いにしても、教養の2年間はフリーにしてよく勉強をさせて、そのあと、4年間勉強をするようにしないと、日本はダメになる。

今回の犯人、こんなことをする必要があったのかどうかわからない。
だが、入試制度、というものを再考するきっかけを私たちに与えてくれたかも知れない。
教育改革を日本人みんなで考えてはどうだろう。

犬の習性

2011年02月27日 | 犬との暮らし


レトリーバーには鳥猟犬としての歴史があるそうで、今も習性として、ものを咥えたり、投げたものを採りにいったり、さらに、水辺で遊ぶことが大好きとのこと。
猫の額ほどの庭では、ボール投げは無理だが、ものを咥えるのは散歩中にもできる。

わが家のフラットコーテッドレトリーバーのナイト君。
散歩中には、バッグを運んでくれる。

バッグの持ち手を咥えさせていたのだが、どうやら、まるごと咥えるほうがいいらしい。

これをするだけで、道行く人に、かわいいかわいいとずいぶん言ってもらえる。

ただ、これには限度があって、5分くらい咥えていると疲れるようで、下に置いてしまう(これが、結構そっと置くので、びっくり。

あとは、水辺が好きというのも楽しい。
海は大好きなのは、以前紹介したが、川にかかる橋を渡るときは、必ず、川面に目をやる。

源平池では、カモと一緒に遊ぼうと、池に入ろうとするので少々困る。

ちなみに、マルチーズのコロ。

昨晩はソファーでうとうとしていた娘の使っていた毛布をとろうとしたら、噛まれてしまった。
これは、眉唾かもしれないが、聞いたところによると、マルチーズとかチワワとかの抱き犬は、高貴な御婦人方に抱かれているときに、誰かよからぬものがチョッカイをだそうとしたりした時に、ガブリとやる。
飼い主だろうが、誰でも噛む。確か娘も2,3度噛まれたことがあると思う。

どうやら、休んでいる人とか、そういった人を守ろうとする習性があるらしい。


犬といっても、それぞれいろいろ特異な習性があるらしい。
犬を飼うからには、こういったことも理解してあげないといけないようだ。

といっても、こんなことを勉強する暇もないので、結局は噛まれながら勉強するしか無い。


家事

2011年02月26日 | 日々思うこと、考えること
二日酔いで痛む頭を抱えながら、妻の運転でフラットコーテッドレトリーバーのナイトの訓練所へ。コンパニオン・ドッグ家庭犬訓練試験(CD)というのがあって、これの初級レベルの科目ができるくらいになってもらえれば、と、頑張っている。


お座り、伏せ、というのは普通だが、立って、というのがあるそうだ。立ってといわれて、人に寄りかかって立ち上がるというのかとおどろいたが、4つ足で立つのが、立って、ということだそう、結構難しかったが、これを含めてなんとか全部できた。
さて、このあと病院へ行って仕事を、と思ったのだが、どうも頭痛がおさまらない。

オンコールだが、連絡が無い。結局今日は、家のことをすることに。
近所のコストコと、植木屋で買い物。
コストコは混んでいたが、買うものは決めていたので、比較的スムースに買い物ができた。それでもやっぱり買いすぎてしまう・・・

庭仕事を済ませると、お日様は山の陰に。
春一番の吹いた昨日と違い、今日は寒さが戻ってきた。日が陰るとあっという間に寒くなる。
少し寒けがしたところで、家の中に。
マルチーズのコロは、ソファーを独り占めにして、家でぬくぬく。冬の間は、ずーっとこうだ。






これが最後のお別れかもしれないから

2011年02月25日 | 妻の名言
ニュージーランドでの大地震は痛ましい限りだ。海外留学する若者の減少が続いているなかで、海外で仕事をする目的で語学を学びに行った若者達が数多く被災した。我が国にとっても甚大なる喪失だ。ご冥福をお祈りする。

残された家族の皆さんの胸中もいかばかりのものか想像に余りあるものだろう。

妻は、私が仕事に出かけるとき、かならず見送ってくれる。べつに、私の妻が特別ということは全くない。
ただ、ある時私が照れて「そう、いつもいつも見送らなくてもいいよ」と言ったら、
「何を言っているの、今別れてこのまま次会えるかどうかなんてわからないじゃない。いつも、これが最後のお別れかもしれないと思って、あなたのことを送り出しているのよ」との返事。

「人間、なにが起きるかなんて、わからないでしょう。
だから、一緒にいるときは、仲良くしていなくてはいけないし、誰かがでかけるときは、必ず見送らないといけないの」

たしかに、そのとおり。

誰かと会って、話してそして分かれるとき、「さようなら」ときちんと別れるのは、大切だ。

そして、また、会えることを信じて、別れよう。


都内に住むか?鎌倉に住むか?

2011年02月24日 | 鎌倉暮らし
勤め先の近所でちょっと広い土地がなん区画かに分けられて売りに出されている。それも複数箇所。

値段を見てびっくり、なんと拙宅の倍。
もちろん我が家は坂の途中の崖の下に建っており、そう条件がよいわけではないが、それでも、鎌倉の中では中くらいか。
それが、都内に来ると同じ広さで倍。まあ、たしかに散歩に適した閑静な住宅街で、平地ともなれば、そんなものかもしれない。
こんなに高くて売れるのかな?というか、買うことのできる人はいるのだろうか?と老婆心ながら心配していたら、一つのところでは、あっという間に家が建ちはじめ、2度びっくりした。
お金って、持っている人は持っているものだと、つくづく感じた。


都内へ勤めに出ているので、都内に住むか?鎌倉に住むか?というのは、いつもジレンマを感じながら悩んでいたが、勤め先はともかく、都内には住めないということは、わかった。

また、買ってしまった

2011年02月23日 | 日々思うこと、考えること
最近、ちょっと読書づいている。
本来、往復の時間は病理の勉強に充てることを旨としているのだが、大人としての教養の無さに愕然として読書を心がけるようになったら、昔の文学少年時代を思い出してしまった。

おまけに、読書メーターと出会ってしまい、自分の読書歴が比較的容易に管理できるようになってからは読書好きを少なくともブログでは宣言できるようになってしまった。

おかげで、来週のCPCに関連した論文はまだプリントアウトしただけ。病理学会の準備のための論文も、その他、地獄の4、5、6月の学会シーズンの準備もまだ。

というのに、また、買ってしまった。それも3冊。

積読本がたまっているにも関わらず。

衝動買いというわけではない、買ったのは好きな筒井康隆、ろどりぃさんおすすめの「考えない練習」などで、買うか買うまいか悩んだ末でのこと。
(「考えない練習」は本屋さんで自己啓発コーナー、癒し系コーナー、哲学書コーナーの書棚を行くたびに探していたら無く、3度目に行ったときに検索マシンで探したら、宗教コーナーにあった。著者はお坊さんだから、むべなるかな。平積みだった。)
まあ、仕方ない。買ったからには読まなきゃ、損。
ちょこちょこ読んでいこう。

ただ、積読本は減らさないと、もったいない。

社会の平坦化と民主化革命

2011年02月22日 | 電脳化社会

世界が揺れている。
民主化を求める第二の社会革命が、エジプトをはじめとする独裁支配と言われる国々で起きている。

これらの国々は、ジョージオーウェルの描いた世界にあった政治体制を敷いていたのかもしれないが、大ききな誤算はインターネットをはじめとする、電脳化の発達だろう。
インターネットの発達は、すべての人が共通のプラットフォームに立つことを可能とし、既得権益者がそれまで構築してきたものが、不公平の上に成り立っていることが明らかになってしまった。
権力者側もインターネットを利用している為に、これを完全に閉鎖することはいまさらできない。

電脳化社会の発達は、人々をより平坦化していくに違いない。

このことが、さらに生き馬の目を抜くような競争社会を招いていくのか、それとも、多くの人が、それぞれの納得できる社会に棲み分けていくことになるのか。

できれば、後者となって、みんなが人間性を獲得して生きていける、幸せな世界が訪れて欲しい。

真の民主化がどのようなものかはわからない。
それでも、人類が獲得した、科学技術はすでに世界を包んでしまっていて、地域間格差は消失している。
もはや、貧しいから仕方がない。というような弁明はあり得ないだろう。

電脳化は人類に幸福をもたらすか。

電車内での通話

2011年02月21日 | 電脳化社会

通勤時間がやや長い私。電車に乗っている時間は約1時間。
この間に、電話のかかってくることがある。
表示をみて、病院からだと困ってしまう。
座ろうと思って、各駅停車に乗って座席を確保している場合、とか、横須賀線とか東海道に乗っている場合。
一旦、降りてしまえば、次ぎにくる急行は座れないどころか、車内はすし詰め。
横須賀線だの東海道と来たら、次の電車は10分くらい待たないといけない。

とにかく、電車内では極力話さないようにしているのだが、連絡する方は必死なわけで、こっちが気がついていないくらいにしか思ってくれておらず、2度、3度とかけてくる。
結局は、途中下車してこちらからかけ直すことになる。

あと、少しで着く、という時でも、バイブレーターの振動が周囲に伝わるのも恥ずかしい。
寝ていた隣の人が、迷惑そうに目覚めてこちらをにらまれたりすると、そうたいして悪いことをしているわけでもないのに、恐縮してしまう。

携帯電話は便利だが、どこまでも、追いかけられてしまう。
無ければ無いで、とても困るのだが。


それにしても、ほとんど話している人がいないという、私たちの電車内での携帯電話のマナーはとてもすばらしいとつくづく思う。

路上教習

2011年02月20日 | 犬との暮らし

フラットコーテッドレトリーバーのナイト

今週も犬のしつけ教室で、訓練。訓練所に来ると結構、いいのだが、家に帰るとダメだったりして、なかなか進歩しない。

今、挑戦中なのは”マテ(待て)”。一度マテと命令したら、ボールが転がっていても、餌があっても、その場を動いてはいけない。犬にとって、とても大変な訓練だ。いや、犬でなくても、例えば、私がちゃんと料金を払って、2時間食べ放題のバイキングに入って、最初の45分、食べるな、と言われたら、つらいだろうな・・・・・・絶対我慢出来ない。というくらい、つらいことだろう。
この練習は、訓練所の中でやるのだが、今日は”お散歩”の練習。

よく、犬に引綱をグイグイ引っ張られている人がいるが、これはよくないらしい。引綱は少し短めで持って、これがたるんでいるくらいでないといけないそうで、さらには、飼い主がチンタラ歩いていても、それに合わせてゆっくり歩かせないといけない。
というようなことを訓練所の中でやっていたのだが、今日は外に出ての練習。
近所を散歩しているとき、信号待ちのときに、おすわりができないでいるので、これができるようにと。いわば、仮免での路上教習のスタート。


同い年(10ヶ月)のゴールデンレトリーバー君と一緒に歩いたが、猫がいたり、ペット用玩具が落ちていたり、と外の世界には誘惑がいっぱい。
それでも、ナイト、ずいぶん頑張っていた。

飼い主ともども、大変だが、これはこれで楽しい。
それにしても、寒かった。雲が出ると、まだまだ寒い。


一人の時でも”いただきます”

2011年02月19日 | 日々思うこと、考えること
緊急手術があるということで、呼び出し。
基本的には検体の処理だけなのだが・・・
これ幸いとまたまたマッペの山と戦うことになったのだが。

少し寝坊がしたくて、今日は車。FMヨコハマを聞いていたら、小山 薫堂と柳井 麻希のFUTURESCAPEのなかで、日本の誇れるもの、ということで小山が「いただきますとごちそうさま」と言っていた。
よく知られたことだが、他国にはなく、日本独特の慣習だ。

みんなで一緒に食事をする時はこれがよい合図にもなる。

今日の昼食は一人。医局の机でこんきものアーカイブをみながら食する焼き肉丼と酸い味春雨スープは美味しい。


こんな時でも「いただきます」「ごちそうさま」を言わないといけない。

一人暮らしの時とか、ついつい忘れてしまうことがあった。
だまって、食べはじめ、終わる。 ときどきつぶやいたかな?
最近見ないが、お茶漬けのCMでも一人暮らしの男がお湯をかけたらそのまま食べていた。これはいけない。

一人の食事の時でも「いただきます」

昭和38年生まれ

2011年02月18日 | 通勤・交通・旅行
私の通勤路にある、胸突き八丁、心臓破りの石段の上の神社。


普段何気なく通り過ぎていたのだが、ふと石灯籠が気になった。


驚いたことにこの石灯籠、私と同い年、しかも同月


意外なところにご縁があるものだ。
この石灯籠、夜みると、背の高い男性の形に見えて、結構怖いのだが、同い年と知ってはそう怖がってもいられない。

こういったものにも、魂がこもっているように思える、というのも不思議なものだ。



メガネの新調

2011年02月17日 | 日々思うこと、考えること
メガネをかけ始めて以来、20年ぐらい経つが、これが4個目のメガネ。


人間ドックで視力が著しく低下していることを知り、あわてて新調することにした。
老眼が始まって数年経つが、近眼も進行するとは・・・油断していた。

普段から裸眼の生活をしていて、顕微鏡を覗く時も裸眼。
ただ、切り出しのときには老眼鏡をするようになってきた今日この頃。
一番、困っていたのが学会などでスライドが見えないこと。おかげで一番前に座る羽目に・・・
さらには、オペラグラスも持ち歩いていた。
それも道理で、これまでのメガネの矯正視力が0.3とか言うのでは話にならない。

ということで、メガネを買い求めることに、都内某デパートメガネ売り場に。
値段は2万円から3万円くらい、と「意外と安いじゃない」などと思いながら、品定め。
(10万、20万はては名工誰それの30万、なんてのもあったのにはびっくりした)

2万円を切っていながら、結構いいデザインのものがあったので、これを買い求めることにした。

視力を測り、レンズを選び。
と、そこで、視力を測ってくれていたおじさんが、「レンズのことに関して、このあと説明します」
別のおじさんが、レンズのことを説明し始める。
そして・・・「値段は、○○円からです」って。それ、”フレーム”の倍以上の値段じゃない。

そうだったのか(忘れていたのかもしれないが)、さっき、「意外と安いじゃない」はレンズ抜きの値段。すなわち、”フレーム代”。
うっかりしていたな。でも、後の祭りだし、今の眼鏡ではやっぱりやっていけない。

そのうち、老眼もどんどん進んで、遠近両用レンズを入れた眼鏡を買うことになったら、またずいぶんかかるんだろう。今度は、レンズの値段を先に聞いてからフレームを選ぶことにしよう。

でも、新調した眼鏡でみるスライドの文字はとてもはっきり見えて、嬉しい。
おかげで少し、後ろの目立たないところに座れそうだ。

子供はなぜ、小石を蹴るのか。今朝の場合は雪の小塊

2011年02月16日 | 日々思うこと、考えること
とても綺麗な霜柱を見つけた。


一昨日の雪がまだ至る所に残っている。
朝の通勤路、行き交う子供達が、雪の固まりを蹴りながら学校に向かっている。


霜柱を踏む、というのは、今でも時々してしまうが、雪の固まりを蹴る、ということは、しない。少なくとも私は、一向に蹴ろうという気にならない。
小学生、いや、中学生くらいでも思いっきり、雪の固まりが粉々になるほど蹴っていたはずだ。

それが、いつから、蹴らなくなったのだろう?

一つには、通勤で、雪の固まりが単独で存在するような状況になりにくくなったということがあろう。
都心の駅前の横断歩道に雪が残っていることはあまり無い。また、そのようなところで、除けた雪の小山を蹴ったり、固まりを踏みつけたりというようなことをするのは気がひける。

しかし、それよりも、なによりも雪の固まりに興味がわかないのはなぜか。
雪の小さな固まりというのは、小石のようでいて、そうではない。
やがて雲散霧消してしまう、はかないものだ。
また、よもや人にぶつかっても怪我をさせることは、まず、ない。

そういった、安心感のある、’小石’だ。
そもそも、小石を蹴ることもしなくなった。

子供はなぜ、小石を蹴るのか。
世の中では、すごくたくさんの子供が小石を蹴っている。
大人で、小石を蹴っている人もいるにはいる。だが、子供ほど必死ではない。

雪の降った翌朝は、雪の小塊。
すれ違う子供の5人に一人は蹴っていた。私の方に蹴ってしまって、「スミマセン」とかいいながら、小塊を一生懸命追っている子もいた。

子供に聞いても、おそらく理由はわからないだろう。「だって、面白いんだもん」で、終わるにちがいない。

ググっても、私のように自問している人はいたが・・・
何故だろう、だれか教えて下さい。

2月というのは

2011年02月15日 | 通勤・交通・旅行
2月は駆け足のように過ぎていく。
去年の今頃も、結構な雪が降ったのを覚えているが、兄妹ダブル受験で、いったい2月があったのかというくらいだった。

さて、昨日の大雪。
病院を出たあたりではよかったのだが、隣の公園に入ったあたりで、早くも後悔し始める。
 

途中でめげそうになるが、バスもちゃんと走っているか、定かではなかったし、歩いているのはバス通りではないので、いまさら、道を換えても仕方ない。

幸い、横須賀線は問題なく動いていて、駅まで妻に迎えにきてもらった。
我が家は坂の途中の崖の下にあり、帰り着けるか心配だったが、帰ってから、むしろ翌朝の方が心配になるほどだ。
坂の擁壁と家の間にあるアプローチにも相当積もっている。こうやってみると、拙宅もどこか素敵な雪国にあるように見える。


このまま降ったら、朝は親子3人、学校にも職場にも行けないかな?などと、嘆息しつつ。寝た。

朝は、緊張していたからか4時台には目が覚め、雪の止んでいることを確認し、うとうとしていたら、新聞屋さんのバイクの音が。「おお、道路は大丈夫そう」
ということで、無事出勤と相成った。

ダイヤが乱れたのか、鎌倉駅では、いつからか朝の景色を塞ぐようになった湘南新宿ラインの車両が停まっていない。この編成、鎌倉始発であればいいのだが、全くそんなことはなく、無粋なだけ。

さて、途中、ダイヤの乱れも無く下車駅に着いた。
駅を降りてからは、びしょびしょの悪路を乗り越え、

融雪のしずくをくぐり、

いまだ雪深い路地を抜け、

残りの道中の安全を祈願し、

おお、狸も雪をかぶっている!

氷の上に、雪が積もっていた。


途中、1台の個人タクシーに泥水を浴びせかけられたものの、ドライバーはおおむね、安全運転。
転ばないように、普段より時間をかけて歩いたら、ずいぶんと汗をかいてしまった。

2月14日

2011年02月14日 | 日々思うこと、考えること
娘は今年も友チョコ作りで3連休は部活もあわせ、大忙しだったよう。

バレンタインデーを思い出したのも、木曜の夜から始まった娘の友チョコ(部活の先輩へのチョコも作るらしいので、先輩チョコもか)作りの甘い、というか、甘ったるい香りでだった。

朝一番で妻にもらったピスタチオテイストのチョコを、朝のコーヒーと、シリアルとともに食べたが、ずいぶん甘かった。


これでも、景気の浮揚につながれば、と思えば、一生懸命食べる気にもなるし、義理チョコをもらったときには、精一杯の笑顔でお礼を言う。チョコも学校や職場の潤滑油として役に立っているのだから、いい風習なのだろう。

ばかばかしい、なんて言って、バレンタインデーをやめたところで、これに代わる景気浮揚策も無いわけだし。



ところで、私にとって、2月14日は、バレンタインデーというよりは、2月があと2週間しか残されていない、という日だ。

どうしよう・・・