ソメイヨシノは江戸時代の終わりに作出された園芸種であり、挿し木によって広がった。自生地というのはなくて、どれも人の手によって植えられたものだ。人が植えたものであれば、抜くのも人。鶴岡八幡宮の段葛の桜も皆抜かれてしまった。
さて、昨日も書いたとおり今日は勤務先の病院の桜。今年も見事な花をつけてくれた。
この桜の木が植わっているところは、以前古い建物があったところで、先年これが取り壊された。以前、敷地内の別の場所にあって、そろそろ咲くところだった桜の木をバッサリ切られたことがあったので、このときもバッサリと切られてしまうかと思ったが、残してくれてホッとしている。現在は、新しい建物を建てる工事が進められているが、どうぞ、桜の木をよけて建ててほしい。
昨日も少し考えたが、勤め人などこの桜と一緒で、いつどこに植えられて、抜かれるか、など全くわからない。それどころか、偉い人でも、下っ端でもこれは同じで、人生誰も安穏とはしていられない。
古今の歴史をひもとけば、それは自明だ。
不肖コロ健にしても、この先どんなことが起こるか、わかったものではない。それでも、人に媚びること無く生きていきたいと思うのだ。だから、人に嫌われ疎まれてしまうのだろうが、これが私の生きる道、と思えばあきらめもつく。
これまでの私のままでいること、それほど簡単にできることではなかろうが、そのままの私で生きていきたい。
もちろん、改めるべきところは改めるが、それは人に媚びるためではない。
とはいえ、そう、きれいごとばかり言ってもいられないのが世の中だ。悩み多き人生が、死ぬまで続く。
それでも、生きていれば楽しいこともきっとあるし、嬉しいこともある。
美しく咲き誇る桜を見て、一時でも心安らかになれば、それだけで十分なような気もする。