こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

祇園精舎の鐘の声、

2021年11月30日 | 生き方について考える
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ
平家物語

 2日続けて何か気取ったつもりはないのだが、某大学の理事長が脱税で逮捕されたという話を聞き、平家物語のこの一節が頭をよぎり、こんな書き出しとなった。件の人物の噂はたびたび報道されたが、いつのまにかうやむやになる、そういったことが繰り返されてきた。今回の騒動も尻切れトンボになるのではと思っていたら、検察の描いていたシナリオはそんなことでは収まりそうにないようだ

 こういう人は程度の差こそあれ世の中には大なり小なり、はいて捨てるほどいる。強欲であると言われても、その人自身は自分が強欲だなどとは思っていないわけで、捕まって自分のどこが悪事であったかもわからないでいるだろう。ごく当然のことをしているだけだから、自分が妬まれ、羨ましがられているということももちろん知る由も無い。

 だが、これは他人ごとではない。こうしてのほほんと日々ブログを書き連ねている私自身の人生も、人から見たらおごったものであるかもしれないが、それがどのようなものであるかを知ることはできない。わからないならわからないなりに、自らがおごった人間にならないよう戒めて生きることが唯一の道だが、それは難しい。

 昨日思った方丈記(13世紀初頭)にせよ、この平家物語(14世紀初頭)にせよ、いつの世も人は無常感を抱えながら生きているということが伝わってくる。人は誰しもいつか死ぬ、世界は無常であるということを自覚すれば多少は道は開けるかもしれないし多少は心を落ち着けて生きることができるかもしれない。
人間としてのあり方を考える

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ゆく川の流れは絶えずして、

2021年11月29日 | 生き方について考える
 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
鴨長明『方丈記』


 夜明けの空は昨日と同じではなく、日の出は少し遅くなる。南アフリカで新たな変異株が確認され、すでにヨーロッパ、オーストラリア、香港に入っているそうだ。詳細がわかるまではしばらくかかるだろうが、危機管理としては最悪の状況を想定して対応する必要があるから皆さん一苦労だろう。無常ということを感じないではいられない日が続く。

 すべてのことが平穏無事に過ぎ去っていくということがどれほどありがたいことか、この2ヶ月間を振り返りしみじみ思う。細々とでも日々の営みを繰り返し、やがて老い、死ぬ。そんなごく当たり前と思っていたことがどれほど困難なことであるか、想像することは難しいが現実は苦しく、悲しい。

 人生は出会いと別れ、様々な局面で色々な出会いがあり、色々な別れがある。コロナ禍は出会いの機会を減らしたが、別れの機会を極端に減らした。このままの状況が続いていけば、2度と会うことのない人は増えこそすれ、減ることはないだろう。ましてや新たに出会うことなどできるだろうか、寂しいものだ。

 人の目に見えるものなど、ほんの些細なことでしかなく、微視的な視点が必要なものから、巨視的な捉え方をしなくてはいけないものまで多々あり、それらを考えると私たちは何も見えていないし、何も知らない。そのことを自覚して生きることが人にとって一番幸せな生き方かもしれない。
今を生きる

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固定電話の持つ意味とはなんだろう

2021年11月28日 | 電脳化社会
 よくよく考えてみると今日はもう11月28日。昼間は暖かだけど、夜は冷えるようになった。とくに何かをするということもなく、1日過ごした。

 夜、電話をするのは初めてという方に、自宅の固定電話から携帯に電話したのだが出てくれない。改めて携帯から電話したら出てくれた。

 ひとしきり話して電話を切ったが、固定電話の持つ意味とは一体なんなのだろうと考えた。

 そういえば、店で自分の連絡先として書くのも携帯の番号。公的機関にはまだまだ固定電話の番号を届けているか、この先どうなるだろう。
FAXもだいぶ使わなくなった

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久しぶりに都内でデート

2021年11月27日 | 家族のこと
 もう12月になろうというのに、アイスバーグがよく咲いている。地植えのバラも蕾をつけていて、まだしばらくの間は楽しめそう。今日も昼間は小春日和だが、夜は寒くなるらしい。

 来月の母の誕生日祝いを買いに都内に出た。品物は妻に選んでもらうことにして、私はその間このところ忙しく行っていられなかった床屋に行った。
 店のある外苑前で降りたら強い風が吹いていた。天気予報の通り木枯し1号かと思ったがどうやらそれほどの強さではなかったらしい。せっかくなので、絵画館前の銀杏並木を歩こうと見に行ったらすごい人出で、青山通りから写真を撮ってそれだけで帰った。ほんの少しだけだが都内でのデートとなった。
 プレゼントの値段が予算よりもだいぶ高かったのをボヤいたら、

(去年お父さんがなくなってから、お母さんも)
 一人で頑張っているのだからいいじゃない

 と返された。
 妻が欲しいだろうに、そういうことを言ってプレゼントできるというのは、ずいぶん優しい人と結婚したものだといまさらながら実感した。
妻のおかげで


人の命は儚いものなのに

2021年11月26日 | 日々思うこと、考えること
 昨日、また大きな交通事故があり、2人の命が奪われた。鎌倉の隣の戸塚区でのことで、テレビに流れる画像は記憶にあるものだ。事故を起こした人は事故を起こしたくて起こしたわけでは無いが、結果として取り返しのつかないことをしてしまった。同じ運転免許証を持つ身としては他人事ではない。無防備な人の間を凶器ともいえる自動車を運転することの重大性を改めて考えなくてはいけない。

 新型コロナウイルス感染症の感染が拡大した初期の段階では多くの方が亡くなり、著名人も含まれその恐ろしさを多くの人が実感した。日本ではこれまで、170万人あまりの人が感染し、18、349人が亡くなっている。感染拡大は奇跡的に終息し、治療法もほぼ確立されて、新規治療薬の開発も進んで、もはや亡くなる人はほとんどいない状態だが、新たな変異株がでてくる可能性もあって油断できない。

 エチオピアでは内戦状態となっているそうだ。広大なアフリカ大陸には多くの民族がいて、互いに反目するようなこともあるのだろう。内戦だの紛争は世界中に溢れるほどあり、日々多くの人が命を落としている。人間にどうして言葉の差異、民族の差異、肌の色の差異が存在するのか、詳しいことは知らないが、だ、同じ種としてほぼ同じ時期に地球上に存在していることからは同種の生物といっていい存在なわけで、殺し合うということは互いの存在、ひいては自らの存在を否定することにつながってしまう。

 薄皮一枚纏っただけの脆弱な存在である人間は、膨大な命の上で生きながらえてきたが、その命運など一寸先は闇で、どうなるかなんてわかったものではない。いつ頭上にミサイルが飛んでくるか、テロに巻き込まれるか、車が突っ込んでくるか、知らないところで恨みを買っていて殺されるか。天寿を全うするなど覚束無いことと覚悟して生きなくてはならない。

 とはいうものの死ねと言われてハイそうですかと死ぬのも嫌だ。だとすれば、他人を自分と同じように尊重して生き、自分は自分で身体を労わって生きることが求められるのだが、どちらも言うは易し、行うは難しだ。
いくら生きてもわからない

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命のあり方がどんどん変わっていく

2021年11月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
 昨日、移植臓器の診断を行なっていたら不思議な感覚に襲われた。

 腎臓とか肝臓、心臓、骨髄その他多くの臓器が移植手術によって人から人へと移しかえられている。その臓器、移植された人にとっては一旦廃絶した機能を代替してくれるありがたい存在だが、元々は他人のものだから拒絶反応が起こる。その拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤を使うが、大抵の場合副作用が生じる。免疫抑制剤は一生使うので副作用が起こっていないかを、生検で一部を採取して定期的に診断するのだ。

 私が診ていたのは、脳死の方から採取された臓器とのことで、診断申込書に書かれたその文字を見た刹那、

 臓器を提供した人は、すでにこの世にないといえるのに、この患者さんの体の一部として生きながらえているのか。そうすると、この患者さんはこの臓器によって生きているわけで、では、この臓器とは一体誰なのか。

という考えが頭をよぎった。こんなことは、臓器移植が始まって何十年も経ち、当たり前のこととして言葉では理解していたのに、昨日は妙に頭の芯が揺さぶられるような感覚がした。それは、ここのところ毎日のように起こる殺人や紛争のニュースをつうじて感じる人の命の軽さを感じているからかもしれない。

 昨晩、NHKのニュース番組で、身体中の筋肉の機能が徐々に低下する難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが体の様々なパーツを人工臓器に置換させ、AIの力を使ってサイボーグとして新たな命を得ようとしていることを伝えていた。生きようとする強い意思を感じたと同時に、肉体という余計なものを脱ぎ捨てつつある新たなる命のあり方が現実になりつつあることを知った。

 コロナ禍によってもたらされたバーチャル世界は人が実際に”そこ”に行く必要性を激減させた。互いがその場に存在することは重要ではあるが、そんなふうに考えること自体、やがては時代遅れとなっていくのかもしれない。

 移植医療、殺人、AI、バーチャル世界、人間社会では全ての事項が同時並行的に渾然一体となって進行し、命の軽重とその定義づけも急速な変化を遂げている。私たちの誰もがそのような”命のあり方の変化”に直面しているということを自覚して生きるべきなのだが、その全体像が見えてこない今、それはまだ難しいことかもしれない。
永遠の命とは

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家の敷地とマイ国家

2021年11月24日 | 日々思うこと、考えること
 冬の寒さが一気にやってきたようだ。風も強く、薄手のコートを羽織って出てきた。

 このところ新聞・テレビで中国の話を見ない日はない。”友好国”ロシアのプーチン大統領が北京オリンピックに行くとか、芸能記事を規制するとか、不倫を訴えたテニス選手の安否が依然不透明とか、話題には事欠かない。どの内容もこうして気楽に日々ブログを綴っている身からみると不気味で、国民は不自由そうに見える。

 あんなにたくさんの人間を、どうやってどこまで締め付けることができるのかわからないが、3000年の歴史から見たら、中国共産党支配がこの先、100年か200年続いたところで、ほんの一区切りに過ぎないわけで、しばらくはこのままびくともしないだろう。国家というシステムを一旦確立してしまったら、上層部が腐敗しなければうまく存続する。独裁国家はトップが清廉潔白、尊敬できる人間でありさえしたら国民は案外安心して暮らしてしまうかもしれない。

 星新一の作品に”マイ国家”というのがある。自分の家のある敷地を独立国家と考える人で、外部との接触は整合性を保っており矛盾はない。自分の家の敷地にしても国の領土にしても、そこを支配する人間は為政者としてさまざまな方法で統治する。恐怖による支配、搾取による支配、教育による支配などが主流のようで、システムとして機能させている国は多い。その方がいいという人もいれば、そんなのはまっぴらだと思う人もいるだろう。

 これは家庭レベルでも同じで、そういったシステムの無い家、システムが不要な家、むちゃくちゃ”厳しい家”なと様々あるに違いない。昨今の家庭内での悲劇がどのようなことで生じているのか、到底伺い知ることはできないが、同居人が自分を殺そうとしているなどと考えただけでも恐ろしい。国家間の争いに端を発する戦争はナンセンスだが、家族間の憎しみもナンセンスだ。話し合うことで、殺し合いを避けることもできるだろうからその努力を怠ってはいけない。

 それぞれの家のあり方に文句を言ってはいけないのと同じで、それぞれの国体を軽々しく評価してはいけないのだと、あれこれの諍いを見るとつくづく思う。人間社会とはかくも難しい。
まとまりがつかない

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鎌倉に冬の寒さがやってきた

2021年11月23日 | 日々思うこと、考えること
 一昨日までの小春日和は昨日の寒冷前線の通過とともに消え去ったようで、今日は晴天で、土を運んだりなんだのしてほんの一時汗を掻く程なのになんとなく寒々しかった。いよいよ鎌倉にも冬がやってきたようだ。10日ほどの前に作った寄せ植え、そろそろ根が落ち着いただろうということで今日デビューさせた。ハート形のは私が作ったうちの1個で、両脇のは妻が作った。もう一つは平置きで玄関先に置いた。

 私の住む街鎌倉がNHKの全国ニュースで報じられるほどの災厄に相次いで見舞われた。いわゆる旧鎌倉という地域で、東西南北を山と海に囲まれた地域だ。先週、駅の近くの商店の並ぶところで大火事があり、何軒かの家が消失し、亡くなった方もいた。そして、昨日は山側の閑静な住宅街で殺人事件が起きた。犬の散歩コースにあるお屋敷で、つい先日も高所作業車で庭木の剪定が行われていたのを見て、

 ”これほどのお庭を維持するのはずいぶん大変だろう”

 などと、妻と話した。

 犯人が捕まっておらず、まだ心配だ。昼間、ハンギングを据え付けていたら警察犬を連れた警官がやってきて、裏山の方を確認していった。市街地の防犯カメラに姿は捕らえられていなかったのだろうか。山の方に逃げこんでしまったら見つけることは難しいかもしれない。

 一昨日、買い物に出かけた際に、件の火事現場の前を通った。焼け出された家の一つには妻の知り合いがいるというこで、心配していた。近所には今回の事件のお宅をご存知の方もいる。まさか、こんなに身近なところで、こんなことが起こるとは全くの驚きだ。故人のご冥福と、事件の1日も早い解決を願う。
南無阿弥陀仏

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みなさんのブログを訪問

2021年11月22日 | 日々思うこと、考えること
 今日は夏休みの日、コロナ対応で夏期休暇取得期間が11月末までとなっていたためで、旅行はもう軽井沢に行ってしまったので、今度の4連休は家周りのことをして過ごしている。

 天気予報通りの大雨。小節とはいうものの、南風が入っって暖かな空気が入っていた。明日は晴れるということで、楽しみ。

 時間があったので、ブロ友さんのブログを訪問。最近、人のブログを読むことが面白くなってきている。

 今日はいい夫婦の日、二人で飲みすぎてしまい、ブログの更新が遅くなり、あんまり上手く書けなかった。
いい日でした

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明日は大雨とのことで

2021年11月21日 | ガーデニング・菜園・花・緑
 父の形見のプラタナスの葉がだいぶ黄色くなってきた。コナラの黄葉してきた。近所のもみじの紅葉もだいぶ進んで、鎌倉もいよいよ紅葉の季節となってきた。明日は、5コマ目の夏休みなのだが、あいにく大雨とのこと。残っていた庭仕事をやることにした。

 去年、100個近く収穫できたレモン、今年は7個(うち1個はしぼんでいた)。近所のお宅もレモンは不作だったらしいが、鎌倉の他のところはどうだったろう。
 15時過ぎまでせっせとあれこれやっているうちに、いよいよ雨が降り出してしまい、切り上げた。結果、今日は一度も敷地の外に出なかった。
コロは妻と散歩に行った

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こんなに小さな地球で争うのはなぜ

2021年11月20日 | 日々思うこと、考えること
 中国とロシアの戦闘機や軍艦が日本の周りをウロウロしている。台湾は一瞬即発。それぞれ住んでいる人にとってそれぞれ都合があるのでそれまでを無視しなくてはならないとは言えないが、殺し合いまでする必要があるかというとそうではないように思う。

 今期のNHKの連続テレビ小説は先の大戦をまたいでいて、今週来週は出征、空襲と前半最大のクライマックスに差し掛かっている。考えてみると、こんなに多くの”素人”を戦争に駆り出したということはどう見てもナンセンスだ。そもそも兵士・兵隊という人たちも、戦うこと、人を殺すことを目的として生まれてきた存在ではない。

 人工知能の発達により、今後の戦争は機械による代理戦争が主流となっていくだろう。空中戦は戦闘機よりも無数のドローンを弾幕のように張ってしまった方が効率的なようだし、軍艦もタンカーのように数人で操船して、戦闘は遠隔でやったらいい。歩兵の代わりはなかなかできないだろうが、それも早晩ロボットが肩代わりするようになるだろう。

 結局のところ、戦争なんてなんのためにするのか、そもそもこんな小さな地球上の何を争うのか、そしてなんのためにするのか、なんのために争うのか、そのことをいま一度人類皆で考えることはできないだろうか。
殺し合いは馬鹿馬鹿しいこと

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生きることは辛いことばかりなのか

2021年11月19日 | 生き方について考える
 私の周りにいる人たち、みんながみんな幸せなわけではない。私が職場で病気の人や亡くなった人と対峙することは仕方のないことだが、普段の生活でも、ネットの中にも、病気と闘い、絶望感に苛まされている人は少なくない。そういうことを見聞きし、自分の生というもの、自分を待ち受ける未来というものを考えてしまう。

 幸せ、などとというのは泡沫の夢で、その裏には同じぐらいの大きさの不幸せがある。幸せの数と不幸せの数を比べてみたら、きっと不幸せの方が多いだろう。ヤキモチ、僻みは別としても客観的に不幸せな状況はあまたある。不自由な体に生まれた人、虐待される子供、戦争に巻き込まれる人など不可抗力で不幸せな人もいれば、さあやっとあれこれうまくいきそうだというところで、事故にあったり重い病気になったりする人もいる。

 世の中は不幸ばかりかといえばそればかりではないが、辛いことの方が多いようだ。そんなある意味絶望的な未来が待っているのに人が生きようとするのは何故なのだろう。不幸せの裏には幸せがあるのだろうか。パンドラの箱に唯一残ったという”希望”をもって生きるにしても、苦難に満ちたこの先の絶望的な人生の中にそれを探し出すということにある意味はなんなのだろうか。

 人生の中に幸せを見出そうとすること、希望を見出そうとすることがナンセンスだとしたら、生きるという営みに果たして意味はあるのだろうか。こんなことを考えること自体に意味があるのかとすら考えてしまう。そしてその答えが見つかる日はいつか来るだろうか。生きているうちに、それがたとえ死の間際にそのことがわかったら幸せかもしれないが、そのことについての保証はない。
時々思い出す

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人一人から見える景色は限られている

2021年11月18日 | 生き方について考える
 とても目のいい人はどのぐらい先までの景色が見えるのだろう。私にでも都内から富士山がよく見えるのだから100キロ先の山だの島だのの輪郭は誰にでもある程度はみえる。だが、その細部・・・森なのか、荒地なのか、岩場なのか・・・は実際にそこに行って見なくてはわからない。看板に書かれているもののように、文字や絵のような人間独自の情報になるとより近くに行かなくてはわからない。人の表情などはよけいにそうだ。いずれにせよ、どれほどよく見える望遠鏡を使ったとしても、地平線水平線の向こうのことはわからない。

 人間はどこまでいっても井の中の蛙と大差ないことを常に自覚していなくてはいけない。私としては、自分より優秀な人間など世の中には数多いることを自覚しているつもりだが、油断をすると天狗になってしまうことがある。

 自分が受けた仕事は、自分がその道の第一人者だから、などと浮かれていたらとんでもないことになる。千メートル程度の山など富士山にすっぽり覆われてしまうのだ。そして、その富士山もより大きく高い山はいくらでもある。

 他との比較大小価値の軽重を比べることも大切ではあるが、それよりもその場その時に、自分のできる精一杯のことをすることのほうがより求められる。そして、その都度、常に上には上がいる、自分には見えないより高いところがあることを自覚して生きていかなくてはいけない。
謙虚でいよう

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対面することの要不要

2021年11月17日 | 日々思うこと、考えること
 昨日は外でハイブリッド形式の会議があった。
 司会の先生がリモート参加の先生の発言が少なくならないよう気を配っていたのが、それぞれの発言のタイミングは会場にいる人とそうでない人との間で微妙に異なる。

 リモート参加の人が”手を挙げる”を押して認識してもらうよりも、司会者の視界の中にいる出席者が身振り、目配せで発言する意思を表示するだけで次の発言権はこちらに回ってきやすくなる。ディスカッションする場合、その場にいるのがいいとか悪いとかではなく、言いたいことがある場合は、その場に行った方が言いたいことを言いやすいということだ。

 国会中継を見ていると、予算委員会などでは(もう聞くこともできなくなったが)"ソーリソーリ"などと意義があるのかないのかわからない激しい議論が戦わされているが、代表質問のような質疑のやりとりなど無いように見えるものもある。あらかじめ用意された内容を質問して、それに答える、というようなところはリモートオンリーでもよさそうに思える。そうしたら、地元と東京の往復も少しは減らすことができるのではなかろうか。国会議員に歳費以外に毎月支払われる文書交通滞在費100万円の内容を見直すこともできるのではないだろうか。

 改革を進めようという維新の会がこのことの問題点について指摘した(維新 新人への“文通費”100万円を全て徴収して寄付する方針 TBSニュース11月15日)。良い突破口が見つかったものだと思うと同時に、彼らの本気度が伝わってくる。維新にとって、その先の大きな改革を視野に入れたらこの問題自体はそれほど大きなことでは無いのだろう。それにしても、なんでこういうのがまずは立憲民主党から出てこなかったのだろう。代表選で右往左往している場合ではなかろうに。ちなみに共産党は以前から問題点を指摘していたとのことだ。
是々非々

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居酒屋ってこんなだった

2021年11月16日 | 日々思うこと、考えること
 緊急事態宣言が10月はじめに解除されてからひと月半たったが、感染再拡大の予兆はない。昨日の東京との新規感染者数は7人。氷山の一角ということを差し引いても依然として少ない。そんなこともあり、普段から世話になっている先輩と少し下の後輩の3人と、居酒屋で食事をした。勤務先の制限はどこも3、4人以内、2時間以内ということで、早めに始め、早めに終わることにした

 居酒屋で飲むのはもう、1年半だか2年ぶりだとか話したが、しばらくするうちに体は昔のペースを思い出した。まあ、30年以上飲んでいるのだからそうだろう。2年近く頑張ったであろうお店の人も嬉しそうだった。店を開けることができるということ、客に酒を出せるということ、そして、何より客との会話が楽しそうでよかった。ただ、不特定多数の人間がこの空間に集まったらやっぱりまずいだろうとも思った。お店による感染対策は今後も必要だろう。

 顔を突き合わせて話すということは思っていたよりもずっと大切なことで、リモートでは得ることのできない様々な情報、噂話から実務のことまで、を交換することができた。一つの施設で一人病理医でやっているような私にとっては貴重な機会で、想像していた以上の孤独感があったのがわかった。リスクよりもベネフィットをとったのはある意味間違っていなかっただろう。
この状況が続きますように

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