日韓の歴史をたどる① 江華島事件 計画的な武力挑発 朝鮮侵略の一歩
吉野誠
よしの・まこと 1948年生まれ。東海大学名誉教授。『明治維新と征韓論』
「明治」を美化する安倍政権の下で徴用工問題を一つのきっかけに日韓のあつれきが強まり、日本政府・国民の歴史認識が問われています。
日本が戦前、朝鮮半島で何をしてきたか、シリーズでたどります。
朝鮮半島の西岸、漢江の河口に位置する江華島に、1875(明治8)年9月20日、日本海軍の雲揚(うんよう)号が接近して砲火を交え、付近の永宗島(いま仁川国際空港がある)に上陸して砲台を破壊する事件(江華島事件)が起きた。
明治元年以来、釜山では江戸時代からつづく国交の改編をめぐって、交渉が難航していた。日本側は圧力をかけるため、75年5月から6月に雲揚号を釜山に入港させて示威運動をおこなったが効果なかった。雲揚号は東海岸地方を偵察したあと長崎にもどり、再び出動して江華島に近づいたのである。
江華島は首都ソウルを守る要衝であり、1866年にフランス艦隊、71年に米国艦隊の攻撃をうけてから、いっそう防備を固めていた。朝鮮近海への軍艦派遣について、戦いになるのは「火を睹(み)るよりも瞭(あきら)か」だと政府内でも懸念する声があった。横浜発行の英字紙は、米国艦隊のときと同様に衝突は必至という人びとのうわさを伝えていた。
“いまが好機”出兵指令待つ
雲揚号艦長の井上良馨(よしか)は江華島へ向かう前に、いまが好機であり、「出兵の御指令を待」つと指揮を仰いでいる。日本側の計画的な挑発によって引き起こされた事件といわざるをえない。
事件後、10月8日付で井上が提出した報告書は飲料水の補給を求めて近づいただけなのに攻撃されたとし、撃ち合いも短時間だったように記されている。これにもとついて政府は諸外国に説明した。だが、井上は帰還してすぐの9月29日に詳細な報告書を書いていた。防衛省防衛研究所図書館にある史料を発見したのは鈴木淳氏だが(『史学雑誌』2000年12月号)、これによると戦闘は3日間にわたるものだった。
発端の撃ち合いは、9月20日の午後4時半から5時にかけて。翌21日は、朝8時に「御国旗を掲げ」て艦上に「分隊整列」し、「本日戦争を起す」のは、朝鮮側がいきなり砲撃してきたことの「罪を攻」めるためだと訓示。「戦争中」は「万事号令に従」うよう「数ケ条の軍法を申渡」して出発し、第1砲台と撃ち合ったあと第2砲台に上陸して焼き払い、夕刻に引き揚げた。
さらに22日には、「戦争用意」をして各砲に「榴弾(りゅうだん)を装填(そうてん)」し、永宗島に向かった。戦闘のすえ上陸し、朝鮮側に35名以上の戦死者を出した。大砲などを捕獲して夜10時半に本艦へ帰還。ランプを点灯して酒宴を開き、「本日勝利の祝」
として捕獲した楽器を奏し「愉快を尽し」たという。偶発的な衝突でなく、明確な意志を持った軍事行動だったことがわかる。
江華島の砲台。首都防衛の要塞となっていた(『画報日本近代の歴史3』から)
国際法違反を隠す改ざんも
中塚明氏は近著『日本人の明治観をただす』(高文研)で、後年の井上の回想談から、3海里の領海内に3日も留まって戦争したのは国際法に触れるという議論が、日本政府のなかにあったと指摘している。
そのため、書き直された10月8日の報告書では1日だけの偶発的な事件とされ、水を求めて接近したことが執拗に強調された。日本は国際法を守ったのに、無知で未開な朝鮮側が不当な攻撃をしてきたというわけである。
軍艦の脅しで不平等な条約
朝鮮の罪を問うとして明治政府は翌年2月、黒田清隆が武装した艦船を率いて江華島に乗り込み、用意した草案をほぼそのまま飲ませるかたちで、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」とうたう日朝修好条規の調印を強要した。修好条規付録・付属往復文書などとあわせて、領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権のない(無関税)不平等な内容だった。欧米列強との不平等条約のもとにあった日本が、さらに不平等な条約を朝鮮に押し付けたことになる。
朝鮮は、伝統的に中国とのあいだで宗主国と朝貢国の関係を維持してきた。「自主の邦」という規定は、この関係を断ち、日本が朝鮮へ進出する前提をつくろうとするものであった。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年4月16日付掲載
「水を求めて港に接近したのに攻撃してきた」なんて事実を真逆に描いて、砲撃を合理化。不平等条約まで結ばせる。清から朝鮮の支配権を奪うことになっていく。
吉野誠
よしの・まこと 1948年生まれ。東海大学名誉教授。『明治維新と征韓論』
「明治」を美化する安倍政権の下で徴用工問題を一つのきっかけに日韓のあつれきが強まり、日本政府・国民の歴史認識が問われています。
日本が戦前、朝鮮半島で何をしてきたか、シリーズでたどります。
朝鮮半島の西岸、漢江の河口に位置する江華島に、1875(明治8)年9月20日、日本海軍の雲揚(うんよう)号が接近して砲火を交え、付近の永宗島(いま仁川国際空港がある)に上陸して砲台を破壊する事件(江華島事件)が起きた。
明治元年以来、釜山では江戸時代からつづく国交の改編をめぐって、交渉が難航していた。日本側は圧力をかけるため、75年5月から6月に雲揚号を釜山に入港させて示威運動をおこなったが効果なかった。雲揚号は東海岸地方を偵察したあと長崎にもどり、再び出動して江華島に近づいたのである。
江華島は首都ソウルを守る要衝であり、1866年にフランス艦隊、71年に米国艦隊の攻撃をうけてから、いっそう防備を固めていた。朝鮮近海への軍艦派遣について、戦いになるのは「火を睹(み)るよりも瞭(あきら)か」だと政府内でも懸念する声があった。横浜発行の英字紙は、米国艦隊のときと同様に衝突は必至という人びとのうわさを伝えていた。
“いまが好機”出兵指令待つ
雲揚号艦長の井上良馨(よしか)は江華島へ向かう前に、いまが好機であり、「出兵の御指令を待」つと指揮を仰いでいる。日本側の計画的な挑発によって引き起こされた事件といわざるをえない。
事件後、10月8日付で井上が提出した報告書は飲料水の補給を求めて近づいただけなのに攻撃されたとし、撃ち合いも短時間だったように記されている。これにもとついて政府は諸外国に説明した。だが、井上は帰還してすぐの9月29日に詳細な報告書を書いていた。防衛省防衛研究所図書館にある史料を発見したのは鈴木淳氏だが(『史学雑誌』2000年12月号)、これによると戦闘は3日間にわたるものだった。
発端の撃ち合いは、9月20日の午後4時半から5時にかけて。翌21日は、朝8時に「御国旗を掲げ」て艦上に「分隊整列」し、「本日戦争を起す」のは、朝鮮側がいきなり砲撃してきたことの「罪を攻」めるためだと訓示。「戦争中」は「万事号令に従」うよう「数ケ条の軍法を申渡」して出発し、第1砲台と撃ち合ったあと第2砲台に上陸して焼き払い、夕刻に引き揚げた。
さらに22日には、「戦争用意」をして各砲に「榴弾(りゅうだん)を装填(そうてん)」し、永宗島に向かった。戦闘のすえ上陸し、朝鮮側に35名以上の戦死者を出した。大砲などを捕獲して夜10時半に本艦へ帰還。ランプを点灯して酒宴を開き、「本日勝利の祝」
として捕獲した楽器を奏し「愉快を尽し」たという。偶発的な衝突でなく、明確な意志を持った軍事行動だったことがわかる。
江華島の砲台。首都防衛の要塞となっていた(『画報日本近代の歴史3』から)
国際法違反を隠す改ざんも
中塚明氏は近著『日本人の明治観をただす』(高文研)で、後年の井上の回想談から、3海里の領海内に3日も留まって戦争したのは国際法に触れるという議論が、日本政府のなかにあったと指摘している。
そのため、書き直された10月8日の報告書では1日だけの偶発的な事件とされ、水を求めて接近したことが執拗に強調された。日本は国際法を守ったのに、無知で未開な朝鮮側が不当な攻撃をしてきたというわけである。
軍艦の脅しで不平等な条約
朝鮮の罪を問うとして明治政府は翌年2月、黒田清隆が武装した艦船を率いて江華島に乗り込み、用意した草案をほぼそのまま飲ませるかたちで、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」とうたう日朝修好条規の調印を強要した。修好条規付録・付属往復文書などとあわせて、領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権のない(無関税)不平等な内容だった。欧米列強との不平等条約のもとにあった日本が、さらに不平等な条約を朝鮮に押し付けたことになる。
朝鮮は、伝統的に中国とのあいだで宗主国と朝貢国の関係を維持してきた。「自主の邦」という規定は、この関係を断ち、日本が朝鮮へ進出する前提をつくろうとするものであった。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年4月16日付掲載
「水を求めて港に接近したのに攻撃してきた」なんて事実を真逆に描いて、砲撃を合理化。不平等条約まで結ばせる。清から朝鮮の支配権を奪うことになっていく。