きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をたどる⑦ 保護国化 内政に介入 外交権も奪う

2019-09-10 08:16:21 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑦ 保護国化 内政に介入 外交権も奪う
糟谷憲一
かすや・けんいち 1949年生まれ。一橋大学名誉教授。朝鮮史研究会元会長。『朝鮮の近代』、『朝鮮現代史』(共著)、『世界歴史大系朝鮮史』(共編著)ほか

1876年(明治9)に武力で威圧して強要した不平等条約・日朝修好条規の調印以来、日本政府は朝鮮における勢力拡大政策を進めてきましたが、1904年(明治37)、日露戦争を起こすことで韓国の独立を奪い植民地と化す道を突き進むことになりました。
1903年12月30日に「対露交渉決裂の際日本の採るべき対清韓方針」を閣議決定。韓国に対してはどんな場合でも実力をもって臨み、日本の権勢の下に置くべきはもちろんであるとしました。
04年2月、日露開戦と同時に、日本は一挙に一個師団の兵力をソウルに入れ、日韓議定書を強要。議定書は、韓国政府は施政改善について日本の忠告を入れることも定めており、日本は朝鮮半島での日本軍の軍事行動の自由を確保するとともに、韓国の内政に干渉する「名分」を得ました。
3月に日本陸軍は、韓国の軍事的制圧のために韓国駐箚軍(ちゅうさつぐん)を編成し、その兵力を次第に増強。同軍は7月に「軍律」と呼ぶ命令を発布し、軍用の電信線・鉄道に危害を加えたものなどを死刑にするとしたのをはじめ、反日運動をきびしく抑圧しました。



日韓協約に反発する韓国の民衆によって打ち壊されたソウルの日本人商店=1904年9月30日

日韓協約を強要 韓国の行政掌握
04年8月には韓国政府に第1次日韓協約を結ばせました。日本政府が推薦する財務・外交顧問を韓国政府が招聘(しょうへい)すること、外国との条約締結など外交の重要案件は日本政府と協議することを認めさせたこの協約により、日本の大蔵省の局長だった目賀田(めがた)種太郎が財政顧問に就きました。
目賀田は貨幣整理を実施し、日本貨幣と同一品位の新貨幣を通用させ、韓国の貨幣制度を日本の貨幣制度に従属させました。ほかにも警察・教育などの部門に日本人顧問が就き、これらの部門の行政を実質的に掌握しました。
日露戦争中に日本は、京釜鉄道(ソウル―釜山間)・京義鉄道(ソウル―新義州間)を開通させ、05年4月には日韓通信機関協定を調印させて韓国の郵便・電信・電話を委託経営の名の下に日本政府の管理下に移しました。
日露戦争下で日本は韓国の主権を侵害し支配を強化したのですが、それにあきたらず、外交権を奪って保護国化し、支配をいっそう強化することをはかりました。
05年4月に韓国保護国化の方針を決定すると、列強から承認を取り付けました。アメリカとの桂・タフト協定(7月成立)、第2回日英同盟(8月)によって、アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配を承認するのと引き換えに、韓国保護国化を承認させたのです。9月調印の日露講和条約(ポーツマス条約)によってロシアも保護国化を承認しました。



第1次日韓協約締結の記念写真=1904年8月22日(ともに『画報日本近代の歴史6』から)

皇帝を威嚇して保護条約を結ぶ
保護国化の方針は実行に移されます。11月15日、伊藤博文は特派大使として皇帝の高宗に謁見(えっけん)し、保護条約への調印を「勧告」する明治天皇の親書を渡し、条約案は変更の余地のない確定案なので、拒否すればいっそう不利益となると威嚇しました。
高宗が、臣下に諮り、人民の意向も察しなければならないと述べると、君主専制国家なのに、人民の意向を察するとは人民を扇動して日本へ反抗させようとするものだと、さらに威圧を加えました。(『日本外交文書』伊藤特派大使復命書)
同月17日に伊藤大使、林権助(ごんすけ)韓国駐箚公使は韓国政府の会議に臨席し、保護条約案への賛否を問い、反対意思の表示が不徹底なものは賛成とみなし、賛成多数であるとして調印させました。双方の「合意」によって結ばれたとは到底言いがたい条約を根拠として、日本は韓国の保護国化を進めました。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月21日付掲載


日本の韓国支配。鉄道建設、通貨に郵便・電信・電話を支配。内政だけでなく外交権も奪っていったのですね。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする