安倍首相の歴史わい曲 パリ講和会議での「人種平等」提案と日本
動機は大国としての位置確保
木畑洋一
きばた・よういち 1946年生まれ。東京大学名誉教授。『二〇世紀の歴史』『第二次世界大戦―現代世界への転換点』『イギリス帝国と帝国主義』ほか
10月4日の所信表明演説を結ぶにあたって安倍晋三首相は、1919年のパリ講和会議での「人種平等」をめぐる日本の提案に触れた。首相は、それが「新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則」の提示であり、国際人権規約につながったと、100年前の日本を称揚したのである。しかし、この評価は歴史的にみて誤っている。
第1次世界大戦の終結を受けて1919年1月から開かれたパリ講和会議では、戦勝国側が、敗戦国ドイツに戦争責任を帰す形で戦後処理を行うとともに、戦後の国際秩序を担う機構として国際連盟を作り上げた。
日本は戦勝国として会議の中心となる五大国の一翼を占めることになったが、「サイレント・パートナー」と椰楡されたように、存在感は薄かった。そのなかにあって、ただ一つ日本が積極的に動いたのが、このいわゆる「人種平等」提案であった。
国際連盟の規約を検討する委員会で、日本代表はまず、信仰の自由を扱う条項に、「人種や国籍の如何」による差別は行わないという内容を付加する提案を行った。この提案が賛成少数で退けられ、また信仰条項自体も削除されると、日本は次いで、規約の前文に「各国民の平等」に関する文言を入れることを提案した。
規約本文よりも拘束力が弱い前文についてのこの案には賛成する国も多かったものの、白豪主義を実践していたオーストラリアなどの反対があるなか、決定には全会一致が必要との議長ウィルソン米大統領の方針で、日本の提案は却下された。
普遍的理想とは異なる狙いから
ここでの日本は、一見「新しい時代に向けた理想」を追っていたようである。しかし、この提案にあたっての日本政府の動機はそれとは異なっていた。
一つには、当時アメリカで強まっていた日本人移民排斥の動きに歯止めをかけるという目的が存在した。さらに、国際連盟を中心に作り上げられる大戦後の国際秩序において、非白人国日本が大国としての位置を確保しておくために、人種平等を国際社会が認めることが重要であると考えられていた。
つまり、この提案に込められていたのは日本の国益追求の念であり、この問題について最も信頼できる研究を行った島津直子によると、普遍的な原則としての人種平等が議論された形跡は公的記録には全く残っていない。未来に向けての理想など、そこには存在せず、国際人権規約の淵源とはとてもいえない提案だったのである。
植民地を支配し朝鮮・台湾を差別
そして何よりも、日本は植民地として支配下に置いていた台湾や朝鮮の人々に対して、人種平等の理念に反する差別を行っていたが、講和会議での提案においては、そのことについての省察は完全に欠如していた。日本の提案は偽善以外の何物でもなかったのである。
こうした日本の姿勢について、ジャーナリスト石橋湛山は、1919年夏に書いた「大日本主義の幻想」という文章のなかで、「我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである」と論じ、日本の提案に「道徳の威力」が欠けていたことを指摘した。後に1957年、病気のため岸信介(安倍首相の祖父)に首椙の座を譲らなければならなかった石橋のこの議論に、首相は立ち返ってみるべきであろう。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月16日付掲載
日本は第一次世界大戦の戦勝国になって、五大国の一翼を占めるようになったけど、非白人である日本への国際社会の差別は続いていた。
それを脱するための「人種平等」の日本の提言。しかし、アジアでは日本は台湾や朝鮮を支配。この矛盾をどう説明するのか。
動機は大国としての位置確保
木畑洋一
きばた・よういち 1946年生まれ。東京大学名誉教授。『二〇世紀の歴史』『第二次世界大戦―現代世界への転換点』『イギリス帝国と帝国主義』ほか
10月4日の所信表明演説を結ぶにあたって安倍晋三首相は、1919年のパリ講和会議での「人種平等」をめぐる日本の提案に触れた。首相は、それが「新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則」の提示であり、国際人権規約につながったと、100年前の日本を称揚したのである。しかし、この評価は歴史的にみて誤っている。
第1次世界大戦の終結を受けて1919年1月から開かれたパリ講和会議では、戦勝国側が、敗戦国ドイツに戦争責任を帰す形で戦後処理を行うとともに、戦後の国際秩序を担う機構として国際連盟を作り上げた。
日本は戦勝国として会議の中心となる五大国の一翼を占めることになったが、「サイレント・パートナー」と椰楡されたように、存在感は薄かった。そのなかにあって、ただ一つ日本が積極的に動いたのが、このいわゆる「人種平等」提案であった。
国際連盟の規約を検討する委員会で、日本代表はまず、信仰の自由を扱う条項に、「人種や国籍の如何」による差別は行わないという内容を付加する提案を行った。この提案が賛成少数で退けられ、また信仰条項自体も削除されると、日本は次いで、規約の前文に「各国民の平等」に関する文言を入れることを提案した。
規約本文よりも拘束力が弱い前文についてのこの案には賛成する国も多かったものの、白豪主義を実践していたオーストラリアなどの反対があるなか、決定には全会一致が必要との議長ウィルソン米大統領の方針で、日本の提案は却下された。
普遍的理想とは異なる狙いから
ここでの日本は、一見「新しい時代に向けた理想」を追っていたようである。しかし、この提案にあたっての日本政府の動機はそれとは異なっていた。
一つには、当時アメリカで強まっていた日本人移民排斥の動きに歯止めをかけるという目的が存在した。さらに、国際連盟を中心に作り上げられる大戦後の国際秩序において、非白人国日本が大国としての位置を確保しておくために、人種平等を国際社会が認めることが重要であると考えられていた。
つまり、この提案に込められていたのは日本の国益追求の念であり、この問題について最も信頼できる研究を行った島津直子によると、普遍的な原則としての人種平等が議論された形跡は公的記録には全く残っていない。未来に向けての理想など、そこには存在せず、国際人権規約の淵源とはとてもいえない提案だったのである。
植民地を支配し朝鮮・台湾を差別
そして何よりも、日本は植民地として支配下に置いていた台湾や朝鮮の人々に対して、人種平等の理念に反する差別を行っていたが、講和会議での提案においては、そのことについての省察は完全に欠如していた。日本の提案は偽善以外の何物でもなかったのである。
こうした日本の姿勢について、ジャーナリスト石橋湛山は、1919年夏に書いた「大日本主義の幻想」という文章のなかで、「我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである」と論じ、日本の提案に「道徳の威力」が欠けていたことを指摘した。後に1957年、病気のため岸信介(安倍首相の祖父)に首椙の座を譲らなければならなかった石橋のこの議論に、首相は立ち返ってみるべきであろう。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月16日付掲載
日本は第一次世界大戦の戦勝国になって、五大国の一翼を占めるようになったけど、非白人である日本への国際社会の差別は続いていた。
それを脱するための「人種平等」の日本の提言。しかし、アジアでは日本は台湾や朝鮮を支配。この矛盾をどう説明するのか。
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