「ベルリンの壁」崩壊30年② 「統一」対等だったか “過程に誤りは…”住民自問
旧東ベルリンのツィオン教会で8日夜、旧東ドイツで生まれ育ったアーティストたちがスライドと詩の朗読、音楽を一体にした舞台を披露しました。
題名は「見張り塔からずっと」―米国の歌手ボブ・ディランの同名の歌と「ベルリンの壁」の監視塔を重ね、「壁」や「国境」についてメッセージを伝えました。過去の独裁と現在の「軍需産業の独裁」への批判が込められた熱演に、観客は立ち上がって拍手喝采を送りました。
夫とともに鑑賞したクリスティアンネ・ハイデンライヒさん(66)は「壁」崩壊当時、市民組織「民主主義を今」の一員でした。1989年11月4日、東ベルリンのアレクサンダー広場で開かれた大集会に、夫と6歳から13歳の4人の子どもを連れて参加しました。
11月8日、旧東独で民主化運動の根拠地となったベルリンのツィオン教会で行われたパフォーマンス
他に道なかった
「(東独で)何かより良いものを作ろうと思っていた。しかし皆が西に買い物に行くようになり、結局、西ドイツの下に組み込まれてしまった。今から思うとほかに道はなかった。ただ対等な統一ではなかった」と振り返ります。
統一後、夫婦ともに失業を経験しました。その後、夫が得た職はポーランド国境の町まで毎日往復4時間を通勤するというもの。「私は反抗期の子どもを抱え、働きながら一人で子育てをした」と苦労を語りました。
バルト海沿岸の町ロストクから来たクリストファー・ロルさん(42)は、統一後のドイツには言えない。(急速に進んだ)東西統一が3年遅かったら違ったのではないか」と語りました。
4日にアレクサンダー広場で開かれたイベントを見に来ていた鋳物工場経営のラルフさん(61)は、「ドイツには多くの『パンドラの箱』がある。誰も開けたがらない箱ついて「今は金もうけのことばかりでとても幸せとだ」と言います。
「(西ドイツの)コール首相が、東ドイツ市民に西の通貨を与えると約束し、東の市民がそれに飛びついたのも、その一つだ。当時私たちは、よりよい社会主義を作ろうと思っていた。しかし当時の運動に参加した人たちは、今何の役割も果たしていない」
「統一」への割り切れない思いが、「東」の人たちの心の底に今も“おり”のように沈んでいるのが感じられます。
「勝者が敗者に」
ミュンヘン発行の有力紙南ドイツ新聞は1日付のコラムで、「東独の人たちの自信は、ドイツの民主主義に生かされなかった」と論じました。
西独の官僚が統一を達成し、西のエリートが東に「入植」。東では脱工業化と民営化で大量失業が起きた。「歓喜に続いて憂響(ゆううつ)が訪れ、勝者は敗者に変わった」―。
「統一」の過程で何かが間違っていたのではないかという「自問」が「西」でも始まっていることがうかがえます。(ベルリン=伊藤寿庸 写真も)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年11月21日付掲載
東西ドイツの統一。経済的な国力の差のもとで、いきなりの統一。
統一ドイツの首都は西ドイツの首都だったボンではなく、東ドイツの首都だったベルリンになった。
形の上では対等な統一だったが、実態はどうだったかのか。
旧東ベルリンのツィオン教会で8日夜、旧東ドイツで生まれ育ったアーティストたちがスライドと詩の朗読、音楽を一体にした舞台を披露しました。
題名は「見張り塔からずっと」―米国の歌手ボブ・ディランの同名の歌と「ベルリンの壁」の監視塔を重ね、「壁」や「国境」についてメッセージを伝えました。過去の独裁と現在の「軍需産業の独裁」への批判が込められた熱演に、観客は立ち上がって拍手喝采を送りました。
夫とともに鑑賞したクリスティアンネ・ハイデンライヒさん(66)は「壁」崩壊当時、市民組織「民主主義を今」の一員でした。1989年11月4日、東ベルリンのアレクサンダー広場で開かれた大集会に、夫と6歳から13歳の4人の子どもを連れて参加しました。
11月8日、旧東独で民主化運動の根拠地となったベルリンのツィオン教会で行われたパフォーマンス
他に道なかった
「(東独で)何かより良いものを作ろうと思っていた。しかし皆が西に買い物に行くようになり、結局、西ドイツの下に組み込まれてしまった。今から思うとほかに道はなかった。ただ対等な統一ではなかった」と振り返ります。
統一後、夫婦ともに失業を経験しました。その後、夫が得た職はポーランド国境の町まで毎日往復4時間を通勤するというもの。「私は反抗期の子どもを抱え、働きながら一人で子育てをした」と苦労を語りました。
バルト海沿岸の町ロストクから来たクリストファー・ロルさん(42)は、統一後のドイツには言えない。(急速に進んだ)東西統一が3年遅かったら違ったのではないか」と語りました。
4日にアレクサンダー広場で開かれたイベントを見に来ていた鋳物工場経営のラルフさん(61)は、「ドイツには多くの『パンドラの箱』がある。誰も開けたがらない箱ついて「今は金もうけのことばかりでとても幸せとだ」と言います。
「(西ドイツの)コール首相が、東ドイツ市民に西の通貨を与えると約束し、東の市民がそれに飛びついたのも、その一つだ。当時私たちは、よりよい社会主義を作ろうと思っていた。しかし当時の運動に参加した人たちは、今何の役割も果たしていない」
「統一」への割り切れない思いが、「東」の人たちの心の底に今も“おり”のように沈んでいるのが感じられます。
「勝者が敗者に」
ミュンヘン発行の有力紙南ドイツ新聞は1日付のコラムで、「東独の人たちの自信は、ドイツの民主主義に生かされなかった」と論じました。
西独の官僚が統一を達成し、西のエリートが東に「入植」。東では脱工業化と民営化で大量失業が起きた。「歓喜に続いて憂響(ゆううつ)が訪れ、勝者は敗者に変わった」―。
「統一」の過程で何かが間違っていたのではないかという「自問」が「西」でも始まっていることがうかがえます。(ベルリン=伊藤寿庸 写真も)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年11月21日付掲載
東西ドイツの統一。経済的な国力の差のもとで、いきなりの統一。
統一ドイツの首都は西ドイツの首都だったボンではなく、東ドイツの首都だったベルリンになった。
形の上では対等な統一だったが、実態はどうだったかのか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます