久しぶりの野球ネタです。西武ライオンズという球団は、比較的監督交代が少なく、ある程度継続した選手育成が可能なチームです。その西武ライオンズにおいて、背番号7は短期間の選手を除くと、球団創設30数年でほぼ3人の選手で語り尽くせる、外れのない番号です。
最初の2年は私が小学生だったため記憶にありませんが、球団創設3年目の昭和56年から背番号7を着けた石毛選手は、若い方はご存知ないかもしれませんが伝説の選手でした。新人だった年の開幕戦で1番ショートに入ると、いきなり3割を打ち新人王になります。
石毛が優れていたのは、走攻守三拍子揃っていたことで、膝に負傷を負うまでは一番が最も得意な打順でした。3割20本を打てる石毛なら3番も打てそうですが、当時の森監督によれば「石毛は3番だと気負いすぎるんだよな」という理由で、昭和61年(1986年)から3年続いた第一期西武黄金時代では石毛の打順はだいたい一番でした。
1989年に衝撃的なダブルヘッダー連敗で優勝を逃した後の1990年からの第二期黄金時代では石毛は四死球で歩かされる5番デストラーデを返す6番打者になりました。この打順でも石毛の存在感は大きく、打点を稼げる6番打者として相手投手陣に恐れられます。また、チャンスを広げられるときは、犠打で走者を進めることもできました。
石毛がFAでダイエーに去って、後継者になるのは松井稼頭央(現楽天)でした。育成型監督だった東尾監督が、将来の素材として評価した選手で、スイッチヒッターに転向して3割30本30盗塁が狙えるレベルまで存在感を高めた、名選手です。
本来、スイッチヒッターの左打席は、足を生かすためのもので、なかなかいいスイングをするのは難しいのですが、松井はプロ入りして初めて挑戦した左打席で、右打席とほぼ同等のスイングスピードを出せるまでに進化させました。3番に回すとあまりいい結果を残さず、1番がいいところは石毛そっくりです。
松井がFAでニューヨーク・メッツに移籍してから、しばらく7番は空き番でしたが、東京ガスからドラフト2位で入団した片岡に7番をつけさせるという決断には正直驚きました。石毛、松井とはずれのなかったこの番号には重みもあったでしょうが、片岡はそれも意識していないのか、思い切ったプレーで西武の1番に定着し、盗塁王の常連になります。
石毛、松井、片岡と毎回いい選手を輩出する、西武の背番号7伝説が、またこれからも続くよう願いたいです。
最初の2年は私が小学生だったため記憶にありませんが、球団創設3年目の昭和56年から背番号7を着けた石毛選手は、若い方はご存知ないかもしれませんが伝説の選手でした。新人だった年の開幕戦で1番ショートに入ると、いきなり3割を打ち新人王になります。
石毛が優れていたのは、走攻守三拍子揃っていたことで、膝に負傷を負うまでは一番が最も得意な打順でした。3割20本を打てる石毛なら3番も打てそうですが、当時の森監督によれば「石毛は3番だと気負いすぎるんだよな」という理由で、昭和61年(1986年)から3年続いた第一期西武黄金時代では石毛の打順はだいたい一番でした。
1989年に衝撃的なダブルヘッダー連敗で優勝を逃した後の1990年からの第二期黄金時代では石毛は四死球で歩かされる5番デストラーデを返す6番打者になりました。この打順でも石毛の存在感は大きく、打点を稼げる6番打者として相手投手陣に恐れられます。また、チャンスを広げられるときは、犠打で走者を進めることもできました。
石毛がFAでダイエーに去って、後継者になるのは松井稼頭央(現楽天)でした。育成型監督だった東尾監督が、将来の素材として評価した選手で、スイッチヒッターに転向して3割30本30盗塁が狙えるレベルまで存在感を高めた、名選手です。
本来、スイッチヒッターの左打席は、足を生かすためのもので、なかなかいいスイングをするのは難しいのですが、松井はプロ入りして初めて挑戦した左打席で、右打席とほぼ同等のスイングスピードを出せるまでに進化させました。3番に回すとあまりいい結果を残さず、1番がいいところは石毛そっくりです。
松井がFAでニューヨーク・メッツに移籍してから、しばらく7番は空き番でしたが、東京ガスからドラフト2位で入団した片岡に7番をつけさせるという決断には正直驚きました。石毛、松井とはずれのなかったこの番号には重みもあったでしょうが、片岡はそれも意識していないのか、思い切ったプレーで西武の1番に定着し、盗塁王の常連になります。
石毛、松井、片岡と毎回いい選手を輩出する、西武の背番号7伝説が、またこれからも続くよう願いたいです。