Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

小倉隆史の思い出

2015-11-04 23:41:08 | 他チーム
今日、名古屋グランパスのオフィシャルHPを調べたら載っていなかったので、正式発表ではないようですが、名古屋グランパスの次期監督に小倉隆史氏の名前が挙がっているようです。小倉の現役時代の記憶を、覚えている範囲で書いてみます。

小倉は、日本人の海外挑戦のきっかけを作った選手です。もちろん、名古屋から「留学」という形で正式に移籍していなかった、今では考えられない形態でしたが、オランダ2部エクセルシオールでエースストライカーに座って日本人が海外でも通用することを示した例です。のちに、小野伸二が小倉が初期に在籍したものの通用しなかったフェイエノールトに完全移籍して、「小倉超え」を果たしますが、当時は日本代表がスペインの2部リーグにすら勝てない時代でしたから快挙でした。

もっとも、小倉を語る上では、負傷が多かった悲運のFWということは外せません。特に印象的だったのは、小倉、城、前園を擁して、史上最強の五輪代表と呼ばれた、1996年アトランタ五輪予選での負傷です。当時、遠征先のタイまで行っていながら、そのタイでの練習で膝の靭帯断裂という重傷を負って、アトランタ五輪予選、本大会に出られなかったのは痛恨事です。

小倉は名古屋では、ストイコビッチを2トップを組んでいたイメージです。当時の名古屋では、小倉に代わってスーパーサブ森山が出てくるのが必勝パターンでした。当時は私がサッカーをよく理解していなかったので、小倉のどこかすごかったか自分の言葉で語れないのは残念ですが、1998年の天皇杯準決勝(横浜国際)で途中出場で強烈な左足シュートを決めて延長戦に持ち込んだことは覚えています。

そのため、小倉のプレーで印象に残っているのは、晩年のJ2甲府時代のプレーです。当時の松永英機監督が、小倉の高い技術に期待して守備を免除する左サイドハーフとして起用していました。小倉は既に動けない選手になっていましたが、その左足クロスの精度は天下一品でした。小倉が動けない分を守備する、藤田や石原の運動量が多くなって大変だなとは思っていましたが。

その後、松永監督の後任の大木監督が全員守備のサッカーに転じたことで小倉は出番を失い、そのシーズンで引退します。今は名古屋のGM補佐ということで、監督就任には障害はないです。彼がどんなサッカーをしてくるか、敵とはいえ観察しようと楽しみができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする