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朝青龍の記憶

2020-05-27 22:15:32 | 他スポーツ
そろそろネタ切れが気になり始めている記憶ネタで、元横綱朝青龍の記憶を書きます。朝青龍(あさしょうりゅう)の四股名の由来は、高砂親方の現役名「朝潮」から一文字と、相撲留学で在籍していた明徳義塾高校の近くにあるお寺の「青龍寺」から取ったものです。高砂親方がモンゴルまで出向いて、モンゴル相撲の大会を開いて優勝した朝青龍をスカウトしてきました。

昔の記憶を紐解くと、2000年頃十両時代の朝青龍の取組を見たことがあります。当時は十両に落ちていたベテランの寺尾との相撲でしたが、この取組で寺尾に何もさせずに完勝し、将来性は十分と感じましたが、当時は110kgほどの軽量力士ということで横綱になるほどの力士とは思えませんでした。

その翌年には早速前頭上位まで上がり、上位キラーとして名を馳せるほどになります。小さな体の割に強いというのが売りでしたが、朝青龍はそのレベルに満足せず、筋肉で体重を増量して全盛期は140kgほどの力士になります。彼の相撲の記憶では、千代の富士を思わせる左からの上手投げが印象的です。モンゴル相撲仕込みの「内無双」で勝つような取組もありました。

もっとも、朝青龍は日本独自の習慣が必要な相撲界には戸惑いも感じながらの横綱在位でした。横綱の品格は、多くの力士が直面してきた壁ですが、朝青龍は「わからない。勝つことが品格ではないのか。」と苦しんでいました。彼には若干問題行動もあり、巡業を負傷で休場している間に地元モンゴルでサッカーをしているところを見つかり、相撲協会から出場停止2場所の処分を受けたこともあります。

全盛期の横綱にとって、負傷でないのに2場所も土俵から遠ざかるのは大きな痛手です。そのあたりから、後輩の白鵬も台頭してきており、朝青龍にとっては苦しい土俵になってきます。最後は残念な去り方で、知人男性に暴力を振るったという不祥事で、相撲界からは強制的に引退させられるような結果に終わっています。

今はモンゴルでいくつかの事業を展開する経営者になっています。日本という文化にはあまり馴染めなかったようですが、25回も優勝したことで会社の運転資金は十分に持っており、モンゴルでは憧れの一人でしょう。強かったのは間違いないので、もうちょっと日本文化を受け入れていればと惜しまれる力士でもありました。
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