阿部勇樹引退試合で撮ってきたレジェンドからは、元横浜FMのDF中澤佑二さんの記憶です。中澤は埼玉県の三郷工技高校という、サッカーでは無名の高校を卒業し、東京Vに練習生として参加してプロ入りを勝ち取った苦労人です。当時、東京Vの練習の帰り道で、武蔵野線の電車の中でおにぎりを口にしていたというエピソードもあります。
当時から、その身体能力の高さは折り紙付きで、東京Vの李国秀監督からは「チームで一番下手だが、チームで一番努力する」という評価でした。その活躍で、シドニー五輪代表に入り右ストッパーで試合に出場しますが、地元開催の日韓W杯は直前に代表を外されてチャンスを逃しました。中澤を評価していたのは後任のジーコ監督でした。
当時の中澤をスタンドで見ていた印象は、次第につなぐところとクリアに逃れるところの使い分けが上手くなってきたと思いました。その高い身体能力が生きるのはセットプレーで、代表通算ゴール数は二桁とFW並みの数字を残しています。ジーコ監督は海外組であるという理由だけで使うと、選手起用には疑問符もあった監督ですが、中澤に対する信頼は間違いのない判断でした。
後任のオシム監督、岡田武史監督も中澤を起用しました。岡田監督は現実主義者で、どんなにいいサッカーをしてもCBが体の強さで負けてしまっては意味がないという判断だったようで、中澤と闘莉王のCBが定番でした。守りを固めたサッカーをした結果、2010年南アフリカW杯はベスト16に進出し、パラグアイにPK戦までもつれ込む熱戦を演じました。
中澤はその後も横浜FMのCBを長く務めました。契約が切れる時には他チームからオファーもありましたが、横浜FMに残る判断をしました。現役の最後の方も横浜FMのCBは常に中澤という状況は続き、彼をゴール前に上げてのセットプレーは最後まで他チームにとって脅威でした。あまり警告ももらわないので全試合に出場するのが当たり前というCBでしたが、その出場が途切れた年にコンディションを崩して引退を決断しました。
中澤といえば、夜は22時には寝る、オフの休みは友達とフットサル(という実質練習)をするなどの自己管理でも知られました。辞めたときには「とんかつなど現役のときは食べなかったものを食べたい」と言っていましたが、引退後もやはり何か体を動かしているようで、阿部勇樹引退試合でも元気な姿を見せていました。今でも解説者として見られますが、今後もサッカーとかかわっていって欲しいですね。
当時から、その身体能力の高さは折り紙付きで、東京Vの李国秀監督からは「チームで一番下手だが、チームで一番努力する」という評価でした。その活躍で、シドニー五輪代表に入り右ストッパーで試合に出場しますが、地元開催の日韓W杯は直前に代表を外されてチャンスを逃しました。中澤を評価していたのは後任のジーコ監督でした。
当時の中澤をスタンドで見ていた印象は、次第につなぐところとクリアに逃れるところの使い分けが上手くなってきたと思いました。その高い身体能力が生きるのはセットプレーで、代表通算ゴール数は二桁とFW並みの数字を残しています。ジーコ監督は海外組であるという理由だけで使うと、選手起用には疑問符もあった監督ですが、中澤に対する信頼は間違いのない判断でした。
後任のオシム監督、岡田武史監督も中澤を起用しました。岡田監督は現実主義者で、どんなにいいサッカーをしてもCBが体の強さで負けてしまっては意味がないという判断だったようで、中澤と闘莉王のCBが定番でした。守りを固めたサッカーをした結果、2010年南アフリカW杯はベスト16に進出し、パラグアイにPK戦までもつれ込む熱戦を演じました。
中澤はその後も横浜FMのCBを長く務めました。契約が切れる時には他チームからオファーもありましたが、横浜FMに残る判断をしました。現役の最後の方も横浜FMのCBは常に中澤という状況は続き、彼をゴール前に上げてのセットプレーは最後まで他チームにとって脅威でした。あまり警告ももらわないので全試合に出場するのが当たり前というCBでしたが、その出場が途切れた年にコンディションを崩して引退を決断しました。
中澤といえば、夜は22時には寝る、オフの休みは友達とフットサル(という実質練習)をするなどの自己管理でも知られました。辞めたときには「とんかつなど現役のときは食べなかったものを食べたい」と言っていましたが、引退後もやはり何か体を動かしているようで、阿部勇樹引退試合でも元気な姿を見せていました。今でも解説者として見られますが、今後もサッカーとかかわっていって欲しいですね。
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