一昨日から、中央図書館で借りてきた次の一冊を読んでいる。
『佛の考察』高光 大船 著 六藝書房 発行48年8月27日
高光大船(1879~1951)は、清澤満之の弟子。北陸の三羽烏・加賀の三羽烏といわれた、暁烏敏 高光大船 藤原鉄乗の一人。
本書から、次の一文を拾う。
「佛教は、人間生活の為に何の保証にも弁護にもならぬのであって、一切の人生の保証が失われ、一言の弁護も許されない時にいつでも私を救い、私を摂取するものである」
この頃、私は、仏法は、自動車のニュートラルに戻る状態かな?と考えている。
私達の日常をドライブに喩えると、ファストに入れたりセカンドに入れたり、バックに入れたり、パーキングに入れたりして私という自動車を運転している。
日常は、忙しくドライブに入れたり、バックに入れたり、パーキングに入れたりと忙しい。
で、仏法は、念仏にしても坐禅にしても、自分を一度ニュートラルに入れて、夫々がまた自分の人生を生きるオアシスのような役割なのかなーと考えている。