若い頃、先師・五十嵐先生が「聞書」について語られたことがあった。
世に残された「聞書」は、(人類の偉大なる道しるべである)といった内容であった。
その時、話題にのぼった「聞書」は、
「如是我聞」ではじまる仏教経典群
マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書
唯円の「歎異抄」
懐奘の「正法眼蔵随聞記」
「蓮如上人御一代聞書」
であった。
今日、中央図書館に出かけて、
現代語訳『親鸞全集』第一集 講談社 昭和49年10月10日 第一刷発行
を借りてきた。
本書の中で、亀井勝一郎さんの次の文が目にとまった。
私(亀井勝一郎)は「聞書」と称するものをいつも重視している。口で伝えたところを、耳で聞いて心にとどめ、あとでそれを筆にするのであるから、時にはまちがいも起こるだろう。重要なことを見おとす場合もあろう。それにもかかわらず私が心にひかれるのは、「聞く」ということの裡(ウチ)に純化されてある「至心聴聞」の態度、即ち一徹な帰依の感情のためである。聞書は芸道の場合にもむろんあるが、宗教にあっては、ただひとえに帰依心のみがこれを可能にする。絶対信従の念によって、承け継がれたものだ。換言すれば相念相続のかたちであって、そこに宿る心の体温のごときものが生命だと云ってよかろう。