今晩は、Zoom法音道場でした。
週一回の「教行信証」学習日。
声明学園の同級生の井◇さんの進行で、
「行巻・正信偈」の十二光仏のところを学びました。
先ず、
「大無量寿経」
「阿弥陀経」
「讃阿弥陀仏偈」
「教行信証」行巻・正信偈
「教行信証」真仏土巻・讃阿弥陀仏偈
「浄土和讃」
で、十二光仏をおさえました。
次に、井◇さんからご自身の(仏教の学び方)についての、
最近の心境の変化を語ってくれました。
井◇さんは、若い頃から熱心な聞法者。
ご自身の言葉ですが、
(理科系なので、専門家や文献等の裏付けをとりながらキチッと学ぶタイプです)と。
ところが、昨今、心境が変化した由。
「感性」を大事にしたいと。
で、一つのエピソードを紹介してくれました。
新聞のコラム等でも紹介されたこともありますので、ご存知の方もいるでしょうね。
要点は、こうです。
小学校の理科のテスト。
先生の出したテスト問題は、「氷が溶けたら、どうなりますか?」
低学年の理科でしょうね。
マア、先生の想定は、「水になる」が○です。
ところが、ある児童が、「春になる」と答えました。
先生は、理科のテストですから、×としたのです。
教育で何を教えるのか?
知識を教えるだけでしたら「水になる」が正解でしょう。
ところが、教育は人間教育ですから、“感性”が大事になります。
「春になる」も素敵な、立派な答えです。
もとえ。
井◇さんは、このエピソードで考えたそうです。
「阿弥陀仏とは何ですか?」
「本願とは何ですか?」
etc
の問いに接したときに、
これまででしたら、
「教行信証」のどこどこには、これこれと書いてあります。
○○先生は、斯く斯くと書いています。
◇◇先生は、云々と言っています。
と答えて満足していたそうです。
ところが、昨今は、
「春になる」と感性豊かに答えた児童のように、
自分の言葉で、自分の領解で、
「阿弥陀仏」を、
「本願」を、
語りたくて苦心しているようです。
道元禅師は、「仏道をならふといふは 自己をならふなり」と教えてくれます。
ボクは、道元禅師の「自己」は、親鸞聖人の「愚禿」「凡夫」にあてて領解しています。
「阿弥陀仏」とは?
「本願」とは?
各各の領解を交流し合える「道場」を大事にしたい。
このボクの「いま・ここ」が、ボクの念仏道です。
ナムなむ、南無阿弥陀仏
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