音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

川のほとりで

2024-03-29 21:00:00 | ルネッサンス
木曜午後は京都今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。
行きは京阪出町柳駅から、バス。

帰りは

四条駅までバス。
さすがに四条駅は人が多かったです。 コロナで空っぽだったダブルデッカーの観光バスもたくさんの人でいっぱいでした。
そしてまだ寒い上に小雨も降ってきたのに、こちらも復活。

鴨川のほとりはやっぱり、こうでなくっちゃね。

川のほとりと言えば…バビロン川のほとりで…不謹慎かな。今に繋がる暴力の応酬の発端。恋人たちの方がずっといいけど

ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ パレストリーナ(1525~1594年)教皇領パレストリーナ生まれ、教皇領ローマ没

16世紀後半ローマで活躍した教会音楽家で、ルネサンス後期最大の作曲家でポリフォニー様式の確立に貢献したと言われています。
彼の作品は非常に多数にのぼり、105曲のミサ曲、400曲以上のモテット、100曲のラテン語の宗教的作品、60曲のイタリア語の宗教的作品、90曲のイタリア語の世俗的作品、オルガン曲などを残しました。

Super flumina Babylonis(バビロ ンの流れのほとりで)は、詩編 137 編 1-2 節がテキスト、モテット集第2巻(1581年)に収録されている代表的なパレストリーナ様式の4声のモテットです。

新バビロニアの王ネブカドネザル 2 世
ネブカドネザル2世(BC642-BC562年)
によるエルサレム陥落
ホアン・デ・ラ・コルテ。
新バビロニア王国のネブガドネザル2世の軍勢に攻め込まれるエルサレム
によりバビロニア地方へ捕虜として連行された「バビロンの捕囚」の一場面を描いています。


ジェームズ・ティソ(1836-1902年)フランス
囚人の逃亡
捕囚され、連行されたユダヤの民が、故郷のシオンを思って膝をつき、涙を流すという場面です。

アーサー・ハッカー(1858-1919)イギリス バビロンの川のほとりで

わたしたちを嘲る民が
楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」
と言うが
どうして歌うことができようか
主のための歌を異教の地で。

エゼキエル書によると、ユダの捕囚民の大部分は、バビロニアにあるケバル川沿いに移住させられたとあります。

バビロ ンの流れのほとりで」
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って
わたしたちは泣いた
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた (詩篇 第137篇 1-2節)



小麦一族

2024-02-20 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の朝は地域交流会でうどん作りをしました。
大人も子どもも参加して小麦粉から作りました。
子育てサロンの主催ですが、私は製作会議中コロナになったので、ほとんどスタッフのみんなが準備してくれて、当日お手伝いだけでした。

しかも、午後からオーケストラの初合わせがあったのでお片付けの途中で退出しました。
スタッフのみなさん、ありがとうございます。

塩水を作っておいて、それをビニール袋に入れた中力粉に少しずつ、まとまる程度に加えます。

ベチャベチャにしてはいけません。

しかし、このへんの感じが難しく、5人テーブルの3人の子どもたちがベチャベチャに…。
「あかんわ…。」とがっかりする子どもに「大丈夫、大丈夫。」と声をかけながら粉を足し、適正な柔らかさに戻します。

その後、ビニール袋の上から丸めて、もう一枚加えて、足で踏みます。
できるだけ、薄くなったら、もう一度丸めて踏みます。
この作業を3回繰り返したら、丸めて30分置きます。

その間にねぎ、薄揚げ、かまぼこ、出汁の準備。

プラストッピングに今回は切り落とし牛肉をスタッフのKさんが、甘辛く煮てくれました。

ベンチタイムが終わるとネタを麺棒で薄く伸ばして細く伸ばします。

この時ベチャベチャ過ぎるとくっついて伸ばせません。
今回は途中で修正したので大丈夫。
打ち粉の薄力粉をまな板に振って、薄く切ったうどんにも粉を振りつつ仕上げました。
ここで隠れた実力を発揮したのが、中1男子。
真っ直ぐに細いうどんをしっかり作ってくれました。
茹でて器に移したら、トッピングをして温めた出汁をかけてできあがり!

家庭科室にはうどん用のどんぶりが無いのでお椀を使っています。

「うまい!」
「固いうどん好き、こんなうまいうどん食べたこと無い!」
「肉もうまい!」
みんなお変わりして食べました。
中1男子は4杯。
いいなぁ!これが聴きたくて…。

用務員さんにもおすそ分け。
「美味しかったです。ありがとうございます。」頂きました!

麺の原料の小麦は東地中海沿岸(イラン西部、イラク東部、トルコ南部および東部)がその起源とされています。 

寒冷地から熱帯地方まで広範囲で栽培が可能だったこと、水と混ぜることでグルテンが生成され、粘り気と弾力性に富んだ性質が多様な食品への加工に適していたこと、という大きな二つの理由により世界的な普及を見せました。

最初に栽培が行われるようになったのはメソポタミアで、紀元前9000年~7000年頃と考えられています。

BC3000年メソポタミア文明

栽培当初は粥として食されていたと考えられていますが、食感などを求めて小麦粉を練って生地を作ってパン(無発酵パン・発酵パン)や、練った生地をちぎってすいとんのように食べる方法が広まると、様々な形状への加工が行われるようになり、その過程で細長く形づくられたものが麺にあたると考えられています。

中国大陸に小麦が伝わったのは前漢(紀元前1世紀前後)時代に西方との交易路が開けてからだと言われていますが、他の穀物を使った麺が地中海地域で小麦粉のものに変えられた可能性も考えられています。

現在までに発見された最も古い麺類の遺物は、中国青海省民和回族トゥ族自治県

の喇家遺跡で発見されました。 
これはおよそ4000年前のものであり、麺は小麦粉ではなく粟で作られていました。

現在カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなど中央アジアで広く食られているラグマンはラーメンの語源とも言われています。
シルクロードを伝播し中国大陸に広まった際に鹹湖(塩水湖)

の水を使用してラグマンを作ったのが中華麺の始まりとも言われ、現代においても製麺工程で使用される塩基性塩をかん水と呼ぶのもこの名残からとされています。

他に、栽培小麦発祥の古代メソポタミアから遊牧民によって餃子の形(アフガニスタンのオシャク、新疆ウイグル自治区のジュワワ)で伝わり、華北で皮が分かれて麺條(生地を細長く伸ばしたもの)が生まれたとするものもあります。

一方でヨーロッパで広まったデュラム小麦からはパスタが作られるようになります。

イタリアのチェルヴェーテリにあるエトルリア人の遺跡からおよそ2400年前の製麺器具の絵が発見されています

他、古代ローマ時代の文献の中でラガーナと呼ばれる焼いて食べるパスタについての記述が見つかっていることなどから古くから食文化として麺を食す習慣が広まっていたと考えられています。

しかし4世紀頃のゲルマン民族の侵攻により食肉文化が広く浸透してパスタなどの食文化は衰退し、再び登場するのは13世紀末でした。

現在、イタリアにおいては「パスタ・アリメンターレ」などと称され、年間319万トンもの生産が行われ、1人あたり年間30キログラムの消費がなされる国民食とも呼べる加工食品です。

ウィリアム・バード(1543 – 1623年)は、イングランドで活躍したルネサンス音楽の作曲家です。

「ブリタニア音楽の父」 (Brittanicae Musicas Parens) として現代イギリスにおいて敬愛されています。

エドワード6世


とメアリー1世


のテューダー朝の時代に王室礼拝堂の音楽家であったトマス・バードの息子として生まれ、王室礼拝堂少年聖歌隊の一員としてトマス・タリスから音楽を学んびました。

バードの名前が公式記録として現れるのは、1563年にロンドン北部にあるリンカン主教座聖堂オルガニスト兼聖歌隊長

として赴任したという記述からです。

1572年には王室礼拝堂オルガニストとなり、トマス・タリス
と同僚となりました。2人はエリザベス1世の手厚い保護を受けました。

ところがイギリス国教会とカトリックが混在する時代で、カトリック教徒だったバードは弾圧から逃れるため1570年代にロンドンからハーリントンに移住しました。

国教を拒否したカトリック教徒に対する弾圧は1580年から更に強化され、1585年には国教忌避者リストにバードが記載されました。

その後、カトリック教徒であったジョン・ピーター卿(1549年 - 1613年)の保護を受け、エセックスのスタンドン・マッシーで晩年を過ごしました。

しかし、バードは、王立礼拝堂のメンバーではあり続け、1619年のアン王女
の葬送式に参加した記録があります。

バードは、カトリック教徒であると同時に王立礼拝堂楽員


であったため、その音楽は国教会のために作曲され、「グレート・サーヴィス」 (Great Service) は、最も優れたイギリス国教会音楽のひとつであるといわれています。

また、バードの声楽曲の最高傑作は、国教会のイギリスにおいてカトリックの信仰を貫いたバードの信念が感じられるラテン語ミサ曲やモテットである。特に、3声、4声、5声の3曲のラテン語ミサ曲は、ルネサンス音楽全体の中でも傑出した作品です。

器楽曲では、ヴァイオル

ヴァイオル(ヴィオラ ダ ガンバ族による合奏)
による小規模な合奏のためのファンタジアやヴァイオルを伴奏に持つ歌曲が名高く、オルガン曲やヴァージナル(チェンバロ族)曲等の鍵盤音楽も多数残しています。

ウィリアム バード作曲
入祭唱「主は彼らをよい小麦で養われ」『グラドゥアリア』より


聖母マリアの夕の祈り

2024-02-10 21:02:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ政雄先生、ヴィオラ金重美代さんとフルート久米素子のアンサンブルレッスンでした。

1月に先生方の音登夢YouTubeに出演させていただいて以来初レッスンでした。

コロナでフラフラでしたが、なんとか復活。

メルカダンテのフルート四重奏Emoll
を、まず初見で。

これはひどい楽譜(久米主観)で、ほぼフルート独演会。他のパートはほぼ、ほぼ伴奏。
しかもフルートは超絶技巧で長くて休み無し。
「これやりたかったら、いつでもできるから。」と金重さん。
よく、最後まで吹かせて頂けました。
先生方の忍耐力に感謝です。

後はモーツァルトのフルート四重奏。
AdurとGdur。
どちらを今年は練習するか?お試しです。
Gdurは美しいです。
しかし三楽章が散逸したのか?書かなかったのか?
ありません。
前に三楽章を他の弦楽四重奏のロンドを入れて演奏しているのを聴いたことある。という私の怪しい記憶をもとに政雄先生がモーツァルトの弦楽四重奏を出してきて下さいました。
ハ長調のロンド付きの19番をやってみました。
「おかしくはないけれどおもしろくはないね。」ということで懸案になりました。

後はAdurをひたすら。
忘れていたこともあったり、ペータース版は初めてだったりして、戸惑うこともありましたか、やっぱりいい曲です。
今年はこちらを頑張ることになりました。
練習後はやっぱりお茶とケーキ。

今回はお店のなかがいちご尽くし。りんごのケーキ

も入れて楽しい組み合わせでした。

このカルテットほんと天国です。

直子先生の隣で演奏できるなんて本当に幸せです。

天国といえばモンテヴェルディの「聖母マリアの夕の祈り」
クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)イタリア クレモナ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没

クラウディオ・モンテヴェルディではないかと考えられている音楽家の肖像、1597年頃、画家不明(オックスフォード・アシュモリアン美術館所蔵)。モンテヴェルディが30歳頃、マントヴァのゴンザーガ家に使えていた頃の画像ではないかと言われています。真正であれば現存する最古の画像であると考えられています。

は、マントヴァ公国の宮廷楽長、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任し、ヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げました。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられていて、長命もあいまって、その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されます。

生前より高い人気を誇り、後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。
オペラの最初期の作品の一つである『オルフェオ』を作曲しました。

モンテヴェルディの次の大きな作品は1610年の『聖母マリアの夕べの祈り』(Vespro della Beata Vergine、『聖母マリアの晩課』とも)でした。 

出版譜に書かれた音楽の規模が非常に大きいために、一回の礼拝ですべて演奏することを目的としていたかどうかについては意見が分かれています。
ただし、音楽的には全体の統一性が方々に見られます。

楽譜表紙
(ヴェネツィア、1610年)

聖母マリアの夕べの祈り (Vespro della Beata Vergine; SV 206, 206a)は教会音楽です。 カトリック教会での聖務日課の一部である晩課が元になっています。演奏に90分を要し、ソロと合唱とオーケストラが必要な大規模な作品で、これはバッハ以前の教会音楽では最大のものであったと考えられます。

モンテヴェルディが分化を提案した第一作法と第二作法を同化させながら作曲されています。

1610年7月に、ニコラ・ゴンベールのモテットをパロディした6声のミサ《In illo tempore loquante Jesu》とともに出版されています。

グラハム・ディクソンの主張によれば、晩課よりも聖バルバラ殉教日(12月4日)

聖バルバラのイコン
のためによりふさわしく書かれているという説もあります。

その論拠として、雅歌(歌の中の最高の歌とされる)のテキストは他の女性聖人と関連付けられるものであり、マリアについて歌った曲は他の女性聖人の名前に簡単に差し替えられるという点を挙げていまず。

モンテヴェルディはこの曲を晩課のための音楽として「市場性の高いもの」を目指して作った可能性があります。

この曲は、モンテヴェルディがマントヴァ宮廷

パラッツォ デル テ宮殿
の楽長をしていた1610年にヴェネツィアで出版されました。

この作品は、ヴェネツィアやローマでの役職のためのオーディションのために書かれた可能性があります。(その結実としてモンテヴェルディは1613年にサン・マルコ寺院の楽長に就任します。)

サン・マルコ寺院
人数の面と技術の面で十分な合唱団(最大10声)と7つの異なるソリストが要求される少人数の合唱隊が必要になります。

興味深いことに、ヴァイオリンとコルネットにはソロパートが要求されていますが、リピエーノ(詰め物・埋め草)楽器については指定されていません。

さらに、演奏者自身がその時々に応じた器楽作品などを選択することができます。

このような選択の例は他にも、マニフィカトに二つの版があることからもわかります。(一つの版はより小さいグループでも演奏可能に書かれています)これはこの作品が単一の作品で演奏されるものではなく、個別に演奏されていた可能性があるためだと考えられています。

規模の壮大な祈りの音楽というだけでなく、世俗的な音楽をも取り入れた音楽は決してその祈りの焦点を失っていません。
グレゴリオ聖歌


を定旋律として用いることによって全体の統一性を実現しています。

「聖母マリアの夕の祈り」の第一曲神よわが助けに 主よ我を助けに(2分48秒)


ペスト退散感謝

2024-02-05 21:00:00 | ルネッサンス
31日から38.5度熱が出て、一度は改源でさがったのですが、また上がってきて2日になって内科に行ったらコロナでした。

5日まで自宅待機。部屋隔離。
3日までほとんど何も食べられず、4日目食べられるようになったら茶托に乗ってウイロが出てきました。
びっくりしたけど、感謝しながら黙って食べました。
次男くん、夫に支えられています。


モルヌピラビルカプセル4個、朝夕飲みます。
医師から「特効薬あるけどね、高いよ。高いけどすごい効くけど、一万円。本当は10万円国が補助して一万円。どうしますか?」

「…い、一万円!…お願いします。」
…しんどかった。
結果、高いけど効きます。

モルヌピラビル…アメリカジョージア州エモリー大学のドラッグイノベーション企業が開発。抗ウィルス薬。
2021年12月に日本で特例承認され、2022年8月保険適用。


カプセル4個朝夕一度に飲みます。とっても飲みにくいです。
熱下がりました。
病院では子どもはインフルエンザ、大人はコロナみたいでした。(待合室観察のみです。)



人類の歴史は感染症との闘いでした。

パンデミック死者数ランキング
1位
1347-1351年 ペスト・黒死病 2億人

2位
1520年 天然痘 5,600万人

3位
1918年-1919年 スペインかぜ 4,000万人-5,000万人

4位
541年-542年 ペスト・東ローマ帝国 3,000万人-5,000万人

5位
1981年-現在 エイズ 2,500万人-3,500万人

6位
1855年 ペスト・19世紀中国とインド 1,200万人

7位
165年-180年 ペスト・ローマ帝国の疫病 500万人

8位
1600年 ペスト・17世紀の大疫病 300万人

9位
1957年-1958年 アジアかぜ 110万人-200万人

1575年から1577年にかけて、ヴェネツィアはペストの猛威によって人口の3分の1を失うという大打撃を受けました。
人々は伝染病の収束と神への感謝を祈念するために「レデントーレ教会」

レデントーレ教会は、ヴェネツィア共和国にも猛威を振るったペストの脅威(共和国の人口の25-30%に当たる約46,000人がペストにより死亡しました)1576年に収束したことへの記念及び神への感謝を込め1577年より建設が始まり1599年に完成しました。

の建設をはじめました。

1599年に教会が完成、当時最高の音楽家たちによる音楽が無事演奏されるに至りました。

アンドレア・ガブリエーリ(1532/33-1585)ヴェネツィア出身?ヴェネツィア没


ガブリエーリの若い頃について詳しいことはわかっていません。
聖マルコ大寺院の教会楽長アドリアン・ヴィラールトに師事したといわれています。

1557年に、このころ聖マルコ大寺院
のオルガニストの座を争って敗れたために、ヴェネツィア共和国カンナレジオ地区のオルガニストとなったことが分かっています。
1562年にドイツに行き、フランクフルト・アム・マインとミュンヘンを訪ね、ミュンヘンでオルランドゥス・ラッスス、


と親交を結びます。

1566年になり、ようやく聖マルコ大寺院オルガニスト


に選任され、終生この地位につきました
この職務は、北部イタリアの音楽家にとって最も名誉ある地位の一つでした。
この頃には、存命中の最も優れた作曲家の一人として、名声を手に入れるようになります。
聖マルコ大寺院の特有な音響空間の中で働いたため、独自の豪放で壮麗な表現様式を発展させ、初期バロック音楽様式を部分的に決定づけることとなった複合唱様式やコンチェルタート様式の発展に、多大な影響を及ぼしました。

聖マルコ大寺院におけるガブリエーリの責務の一つに、作曲がありました。彼は儀式用の音楽をふんだんに作曲しました。
その中には歴史的に重要な儀式もいくつか含まれています。例えば、レパントの海戦における勝利を祝した機会音楽(1571年)
 
レバントの海戦、オスマン帝国とヴェネツィア共和国、スペイン、オーストリ=アハプスブルク帝国の闘い
のほか、1585年6月28日の天正遣欧少年使節の謁見



のためにモテットを作曲しています。

後半生においては教師としても有名になりました。門人のうちで傑出した存在は、甥ジョヴァンニのほか、ドイツの地にコンチェルタート様式を持ち帰ったハンス・レーオ・ハスラーと、音楽理論家のロドヴィーコ・ツァッコーニなどがいます。

1585年8月30日没。1586年の終わりに聖マルコ大寺院で彼が勤めていた地位に後任者が就任し、また1587年になって大量に作品が「死後出版」されています。




1599年レデントーレ教会完成の時、ペストの脅威が去ったことを感謝したミサが行なわれました。そこで演奏された曲にガブリエーリの曲があったそうです。

「O crux splendidior」は、ラテン語の歌詞で「星々よりも輝く十字架よ、世界で有名で、人々から愛され、神聖な」という歌詞が続きます。


蛙化現象

2024-01-17 21:50:00 | ルネッサンス
ハープの発表会でゲストの小学生の子どもさんのカエルのリュック。
かわいいでしょ。

口を開けたら、真っ赤!
走ったら手足がぶらぶら動いて、ますますかわいいです。

蛙化現象という言葉が最近流行っているそうです。

好きな相手が自分に好意があるとわかってしまうと、それがきっかけで急に嫌悪感を抱いてしまうことを言うそうです。

昔からある、相手の何かの言動で付き合ってみたら「100年の恋も覚める」とかと言うものではないらしく、男女を問わず「好意を持たれたら」「湧き上がってくる嫌悪感」ということが「蛙化現象」らしいです。

王子様が魔法で蛙にされていて、女性との試練の後に魔法が解けて、元の王子に戻り、王子と結婚して末永く幸せに暮らしました。という物語の逆だそうです。

ジョン ダウランド(1563-1626年)イングランド生没

は、「蛙のガイアルド」という曲を作っています。

1579年にフランスのアンジュー公フランソワ
 
フランソワのミニアチュール(1577年)
ニコラス・ヒリアード作
は求婚のためイギリスに渡り、エリザベス一世

エリザベス1世 ペリカンの肖像画(1572)
と面会しています。

その時 エリザベスは彼が噂されているほどには「醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけました。

エリザベスはこの求婚を真剣に考え、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイヤリングを大切にしていました。

しかし、プロテスタントの女王に対して、カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しませんでした。

1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しんで喪に服し、贈られた蛙のイヤリングを、身につけたと言われています。

エリザベス1世・虹の肖像(1600)
イヤリングをつけていますが、蛙のイヤリングかどうか?わかりません。

蛙化現象というより。政略結婚の失敗ですが…。女王は国と結婚していたと言われています。

この悲恋をダウランドが「蛙のガイアルド」として作曲しました。
この曲はその歌詞から「今こそ別れ(Now o now I needs must part)」とも言われています。

「蛙のガイアルド」(長いので触りだけ)
今、ああ、私は別れなければなりません、
私は悲しみに暮れていますが、別れる必要があります。
不在は喜びをもたらすことはできません。
一度逃げた喜びは戻ることはできません…。略

ジョン ダウランド
「蛙のガイアルド」Frog Gaillard





ルネサンスダンスの開祖ネグリ

2023-12-05 21:01:00 | ルネッサンス
季節外れのわらび餅を夫が買ってきたのですが、
沖縄の陶器市で買った小鉢に入れてみました。

思ったよりかわいい🩷
冷奴や、枝豆入れとして使ってきたけど、スイーツ方面もかわいいかも。

脚は、だいぶマシになってきましたが、まだ膝を曲げると痛いので座ったら座ったまま😭
金曜日から一歩も外にでずですが、来てくれるのでたすかります。 

今日は子育てサロンのクリスマスコンサートの合わせでピアノのTさん、絵本と音楽のコラボをするので読んでくれるOさんが来てくれました。

どこでセリフを入れて、どこでめくるか?を細かく打合せ。

持ち帰って練習してくれることになりました。
後は前日にもう一回合わせます。

じっとしていたら、動きたくなってダンスの音楽を聞いています。

バリエラというのは16世紀イタリアの宮廷の上流階級の人々が踊ったダンスのことです。

チェーザレ ネグリ(1535.6-1604年?)イタリア ミラノ

ミラノは、ヨーロッパでの舞踊先進地で、舞踊はエンターテイメントの頂点でした。
実演家として、宮廷での催事やマスカラーデ(仮面舞踏会)
シャルル6世の宮廷で起こった仮装舞踏会の事件 Bal des Ardents、1450年-1480年ごろの細密画
に出演していました。

ネグリは「ほら吹き」 (il Trombone) というあだ名で知られ、1554年頃からミラノで舞踊を指導し、多くの弟子を育成しました。

ネグリの弟子たちはヨーロッパ各国の宮廷で舞踊教師となり、その数は40名を超えました。

彼は宮廷のために、大勢の出演者による寓意的なマスカラーデや幕間の劇を振り付けました。

1564年6月25日、ネグリは25台の2輪馬車を使用して人間の疑惑、欲望、恐怖などを象徴する大規模なマスカラーデの演出を手がけています。

ネグリはその生涯中にヨーロッパ各地を旅しました。

レパントの海戦(1571年)
オスマン対ハプスブルク戦争
では、カトリック教国の連合艦隊指揮官ドン・フアン・デ・アウストリア(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の庶子)
の乗艦のデッキでカトリック教国連合艦隊の艦長たちを前に踊りました。

後にミラノでも、ドン・フアン・デ・アウストリアのために再度踊りを披露しました。

アンリ3世

アンリ3世(ポーランド王フランス王)
がポーランドから王位請求のためにフランスへ旅だったときは、クレモナでネグリとその弟子による踊りを鑑賞しました。

チェーザレ・ネグリ、バレリーニ・ミラネージ
マジェンタでもアンリ3世はネグリたちの踊りを鑑賞しました。結局ネグリは、アンリ3世の旅にアルプスまでつき従っていきました。

ネグリから教えを受けた弟子たちはパルマ、ボローニャ、ケルンなどで王侯貴族に仕え、新たな舞踊を広めました。

晩年のネグリは、1602年に自叙伝『愛のグラチエ』(愛の恩寵) (Le Grazie d'Amore) を執筆し、この本はミラノで出版されました。

Le Grazie d'Amore
『愛のグラチエ』は2年後に『バッロの新発明』 (Nuove lnventioni di Balli) と改題されて再版されました。

Nuove lnventioni di Balli
『バッロの新発明』は3部からなり、第1部は総論、第2部は55種にも及ぶ舞踊技術の規則についての解説(下肢における外旋の効果についての説明を含む)、第3部はリュートの楽譜と振付詳細を含むパヴァーヌなどの実際の舞踊を取り上げています。

この著作は16世紀における舞踊教本として最大規模のもので、舞踊技術、振付から歴史的考察に至るまで詳細な記述が網羅されています。

『バッロの新発明』は、1969年にニューヨークで英語訳による出版されました。

バリエラネグリの「愛のグラチェ」より



イルミネーションの源流

2023-11-22 21:10:00 | ルネッサンス
ダイビルのイルミネーション。
寒さと相まって年末感が醸し出されてきました。



ヨーロッパでのイルミネーションの始まりはマルチン・ルター(1483-1546年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイスレーベン生没が、クリスマスイブに樹木の間から星が美しく輝いているのを見て、家でも子どもたちに見せてあげたいと木を運び込み、木の間にろうそくを立てたのが始まりと言われています。

しかしこれは確かな話ではありません。

ルターは宗教改革でプロテスタントを打ち立てたあと、あの手この手で信者を増やすための努力と工夫をしています。

樹木を美しく飾り立て、自作の唱を歌い、楽しい時間を過ごさせながら、布教に努めたそうです。

そういえば前にも書きましたが、ボウリングの始まりもこの布教の集まりだったそう。

ろうそくは火事や事故が多く、水の入ったバケツを樹の根元に置いておくなど火事に備えたとか…そこまでしてする?!

後に清教徒たちはアメリカに渡り、この風習を持ち込みます。

相変わらずろうそくだったのが、
エジソンが白熱電球を家の周りに自作を売るために飾り立てたのが、いつしかクリスマスのイルミネーションになったそうです。

ルターは、音楽史上、作曲家として日本では大きく取り上げることは無いですが、バッハ一族の住んでいたアイゼナハにいたこともあり、そこて、活動していたバッハ一族はその新しい宗教のための音楽を書いていました。

ライプツィヒに移ったヨハン セバスチャン バッハはその宗教音楽の最高峰とも言えて、ルターの影響の中で育ったとも言えます。







最古のレクイエム

2023-11-13 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日、伊藤先生のレッスンの後、梅田ドルチェ楽器さんで見せていただきました。

1800年代のゴッドフロイのフルートと、製作会社不明の木管円錐管。

ゴッドフロイはルイ・ロットの義父です。
キーの位置が現代のフルートより狭いです。

管体が軽く、大きな音はしませんが滑らかな吹き心地。

正体不明の円錐管は未調整、ヒビが入っていたのを修理したあとがあるそう、低音のキーがふせぎきらないので音が出にくいですが、まろやかな音色がしました。

円錐管木管のフルートを復刻させようという試みがされていますが、金属のキーはいくらでもできるそうですが、木を加工する技術が失われていて
何年も乾燥させた木の真ん中にまっすぐの穴を開ける時に、木の木目の回転と回転しながら開けるグラインダーとが合わなくてヒビが入って割れてしまうそうです。

古くても無傷の管体さえあれば、円錐管はつくれるそうですが、残っている数が少なくなかなかつくれないそうです。

ヨハネス オケゲム(1410-1497年)
エノー伯領サン ギラン生まれ、フランス王国トゥール没

オケゲムの最初の記録はアントウェルペンのノートルダム寺院に残されています。

1443年〜1444年ノートルダム寺院に務めていました。
1446-1448年 フランスのブルボン公シャルル一世

にムーランで仕えました。
1452年頃パリに移り、フランス宮廷楽長、トゥールのサン・マルタン寺院
の出納方に就任。

シャルル7世


ルイ11世

に士官し、ノートルダム寺院

聖ブノワ寺院にも務めていました。

1470年ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されてイベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからはオケゲムの所在は不明になります。
ブルッヘ、トゥールを訪ねていて、トゥールで遺言を残していることからすると、おそらくその地で亡くなっただろうと考えられています。生前から「我らの良き父」と人々の尊敬と信頼をえていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。

オケゲムの「死者のためのミサ曲」は現存する最古のポリフォニックなレクイエムです。いくつかの偽作も混じっています。36声部の「デオ グラディアス」(主に感謝せよ)は他人による作品の見込みが極めて高いですが、真相は分かりません。

オケゲム レクイエム「イントゥリアス」(入祭唱)


天正少年使節が聚楽第で演奏した曲

2023-11-01 21:01:00 | ルネッサンス
お水を汲みに行った帰りによりました。
京都市の北区にある光悦堂

名物「お土居餅」の名前に魅かれて暖簾をくぐったら、ご高齢の男性が出てこられて、「何しましょう?」
悩んでいると、「もう五十五年ここでやってます。隣が空いた時にね、お金ないけど親と師匠に援助してもらって買いました。」
「その隣はね。金物屋さんやったけど、そこも買いました。」
「へー!そうなのですね。」
「25の時からやからね。こないだね。そこの金物屋息子が、何十年かぶりかで訪ねてくれましてん。うれしかったですわ〜!」
おしゃべりが止まりません。
「御土居餅ってこれですね。」
「御土居って家の前の」
「御土居って秀吉が作ったあれ?」
「そうや。鍵持ってるよ。町内会で任されてますねん。

御土居は1591年豊臣秀吉が作った京都を囲む土塁のことです。
応仁の乱で荒れた人心を治めるためにつくられたとも、洛外からの侵入者から都を守るために作られたとも、水害からの防災のためとも言われています。(諸説あります。)

徳川家康の時代になると、御土居は分断されたり移築されたり、天災で崩れたりで部分的に残っているだけです。
その一部がここにあるのです。
「お月さんがあの御土居の端からあがって、あっちの山に沈んでいくのが見えて、すごい良い感じやで。

御土居餅

こし餡をえんどう豆を混ぜた餅米で包んできな粉をかけて、御土居を表したもの
「こっちはね、きな粉を皮に使った他所ではないおもちやで。」
垣内餅

入れてもらいました。
気がついたら何分も話し込んでいました。
かわいい店主さんでした。

1591年。
秀吉の命を受け、天正の少年使節がマカオ、ポルトガル、スペイン、ローマを周り10年の旅から帰国。

アウグスブルグで発行された新聞記事・京都大学図書館所蔵

1591年3月3日(天正19年1月8日)聚楽第で西洋音楽を演奏しています。
この時に演奏されたのは、ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ・Mille regretz」とされてきました。

このブログでも以前そうご紹介しました。が、最近この説に異論があります。

「千々の悲しみ」はフランス人作曲家のジョスカン・デ・プレによって書かれたフランス語で歌う曲です。

少年たちは、ポルトガル語に精通していました。
フランスに寄っていない彼らに
当時フランス語を誰かが翻訳して、わざわざ彼らに教えたとは思えないと言うことです。

もう一点は、秀吉の記録には曲名の記載無いので想像するしかないのです。

残っている書類というと楽譜です。

日本のセミナリオ(キリスト教徒の少年教育施設)でその後「千々の悲しみ」が教えられたり、教会で演奏された楽譜や記載が残っていないということです。

バテレン追放令が出されてから、1610年代に入ってもセミナリオや教会は残っていて、楽譜のリストが残っていました。

禁教令が出て、
1614年マカオに日本から持ち出された楽譜があります。そこに載っていたのは下記の5冊だそうです。

「音符を附した三つの受難書」Tria Passiona cum notis musicis
「合唱提要」一冊 um Manual de Coro
「大音楽書」三冊 Tres libros de Solfa grandes
「ローマ交誦聖歌集」一冊 um antiphonario Romano
「ドゥアルテ・ロボのミサ曲」一冊 um Libro de Missas de Duarte Lobo

ドゥアルテ ロボのミサ曲・Dum Aurora(暁のミサ)キリエ・エレイゾン1頁目

ドゥアルテ ロボはポルトガルのエヴォラ大聖堂のオルガニストで、使節団はそこで『聖十字架称賛記念日』の通常のミサ曲の中で
『Crux Fidelis・聖なる十字架の木は』
『Per signum Crucis・十字架の御印により』
『O quam gloriosum・おお、天の国の栄光は』
『Crucum Tuam・十字架を称えて崇める』の4曲が演奏されるのを聞いた記録があり、後に伊東マンショ、千々石ミゲルがエヴォラ大聖堂のオルガンを記念式典で弾いた記録もあるそうです。(曲名はわからない)

竹を銅筒の代わりに使用したパイプオルガン・複製品・平山照秋氏制作・天草コレジオ館所蔵
1600年・天草志岐の画学舎で竹筒のパイプオルガンが数台制作されたという記録が残されている

これらの曲が演奏されたのかも。という説。

または、1500年からの当時のコレジオで施された音楽教育はグレゴリオ聖歌が中心で、使節団として派遣される前から少年たちはその歌を学んでいました。

グレゴリオ聖歌

太閤豊臣秀吉の前で演奏した、3月3日という日付から教会暦では復活祭・イースターの期間にあたるので、グレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律と言われている「我らの過ぎ越し・Victimae Paschali laudes・復活祭の続唱」

が歌われた可能性が最も高いと考える説もあります。(太閤・豊臣秀吉の京都聚楽第で天正遣欧少年使節が御前演奏した曲について 高田重孝より)

結論は記録が無いので、持ち越される訳ですがロマンは深まりました。

グレゴリオ聖歌の「われらの過ぎ越し」



「人間」の幸せ

2023-10-28 21:00:00 | ルネッサンス
水曜日ピアノのTさんが来てくれました。
コロナから、3年ぶり。
すごいうれしい。

「腕がなまってるから、もう弾けないよ〜。」
と、言ってたけれど、「大丈夫!」
子育てサロンのクリスマスコンサートをお願いしました。


冷やして食べるパイ、持ってきてくれました。

冷蔵庫に入れておいて、さんざんしゃべってから取り出して食べました。
3年の間にいろいろあったものね。
おしゃべりが止まらない。

プライベート過ぎで書けないけど…。

ギョーム デュファイ(1397-1474年)ブラバント公国ベーアセル?生まれ、フランス王国カンブレー没

少年合唱隊で音楽を学びます。
1414年サンジェリー教会で働き始めます。
4年間コンスタンツ公会議(対立していた2人の教皇を廃止し、話し合いと合議によって新教皇を打ち立てました)に同行します。

1418年リミニ宮廷に移り作曲を始めます。
1435年教皇疔の歌手になります。
1436年サンタ マリア デル フィオーレ大聖堂の献堂式のために「バラの花が咲き頃」を作っています。

サンタ マリア デル フィオーレ大聖堂1296年から140年をかけて建築された
デュファイは1436年この献堂式(建立式)のために曲を書いた
1439年ブルゴーニュ公に仕えます。
1459年カンブレーに戻り、オケゲム、ビュノワ、ジョスカン・デ・プレと親交を結んだと思われます。

生涯各地を転々としたおかげで
百年戦争の休戦期にイングランドのジョン・ダンスタブルが伝えた3度や6度の協和音程。

フランスのイソリズム(一定のリズムを繰り返す)を含むポリフォニー音楽(複数のパートからなる音楽)。

青年期に接触した旋律優位のイタリア音楽(トレチェント音楽)を統合し、イタリアで活躍したフランドル人チコーニアなどの影響を受け、
ルネサンス音楽を開拓しました。

宗教音楽も多く作曲していますが、世俗音楽も多く、「人間」を感じさせる作曲家と言われています。

長い戦時下の世界に生き、140年の聖堂の建立に立会い、合議、話し合いによる成功を一度は経験したデュファイ。

デュファイとバンショワ
その歌に耳を傾ければ、現代の私達の世界も変わるかも。

デュファイの世俗歌謡
「さあ、仲間たち目ざめよう!」

さあ、仲間たち、目覚めよう!
もう心配しないで
すぐに楽しい時がやってくる
私たち全員が幸せになれる

私はお願いする
偽りの嫉妬深い人達の言うことを気にしないで
彼らが何を言おうが

私から皆さんに乾杯です。
フション、エヌール、アンブロ、アンリ、ジャン、フランソワ、ユーグ、ティエリー、そしてゴデフリン、
皆に伝えます

自分自身を明らかにしましょう

もううるさく言うのはやめましょう

タントストは幸せな時間を売ります
私たち全員に良いことが起こりますように