先週行った不動川。
こういう所に網を突っ込んでガサガサすると、
出て来ました。
こういう所に網を突っ込んでガサガサすると、
出て来ました。
怒っています。
特定外来生物。
アメリカザリガニ。
飼っているものは川に離してはいけません。
が、ニホンザリガニは、もう岩手県まで行かないといないそうです。
その問題ではなく作物の根を食べて全滅させてしまうので、減らしたいみたい。
食べるのがいいのじゃないかと思いますが…さすがに今日は食べずに帰してしまいました。
アントニン・ライヒャAntonin Reicha (1750-1836年)チェコ プラハ生まれなので アントーン ライハと言う読み方がもともとの呼び方でしたが、ドイツに移り、フランスで活動したのでドイツ語読みのライヒャと呼ばれることが多いです。
ベートーベンと同じ年で、ボン大学の学友で、管弦楽団の同僚で、友人でした。
ボンがフランス革命軍に占拠され宮廷楽団は解体。
二人とも音楽で稼ぐことを考えなくてはいかなくなりました。
ベートーベンは作曲して楽譜を売ったり、パトロンに年金を得たりしています。
ライヒャはハンブルクに移って作曲やピアノの教師をしています。
38歳でパリ音楽院に移り、作曲科の教師になります。
楽譜が残っているのはその後の作品がほとんどです。
1792年にフランス革命政府によって宮廷音楽院が解体されパリ音楽院が設立されました。
初めは、軍楽隊養成学校として設置され、フランス共和国の祭典等における奏楽等の公務にあたる音楽家の教育を目的としていました。
フランスは革命によって、すぐに民主化したわけではなく、王政復古したり、また共和制になったりを繰り返し、極端に動いて行きました。
革命家で現れたナポレオンは、軍隊を組織し、革命で混乱した国を1つにまとめました。
それまで、ハプスブルグ家、東ローマ帝国の中にハンガリーやプロイセン、フランス、ナポリ公国などいろいろな国の弱い連合体だった所に、フランス国家を打ち立て、国という概念をしっかり持った国民が生まれました。
フランス国家のための国民の軍隊は強かった。
ライヒャの音楽は、宮廷時代の名残を残しつつ、劇的で激しい感じの音楽でできています。
革命は成った、でも、その後は?
誰もが翻弄され、議論し、探り続けていた時代の息づかいを感じます。