里山は赤とんぼ、アキアカネが飛び交っていました。
この写真に映っているはず…わからない。
ツクツクボウシが鳴いていました。
こちらも姿は見えません。
ヨーゼフ シュトラウス(1827-1870年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
ラデツキー行進曲を作曲したヨハン シュトラウス1世の次男で、兄はワルツ王ヨハン・シュトラウス2世。他にも弟エドゥアルド1世がいます。
左からエドゥアルド1世、ヨハン2世、ヨーゼフの合成写真
工学技師の仕事を歩んでいましたが、病に倒れた兄の代わりに指揮をすることで音楽家の道を歩みます。
1853年音楽家になって以来、1870年に没するまでの17年間で280曲以上の作品を残し、500曲以上の編曲を手がけたと言われています。
ヨハン2世は弟のことを「私はただ人気があるだけだ。ヨーゼフの方が才能に恵まれている。」と言っていたそうです。
シューベルトの作品に大きな影響を受け、詩情豊かな作風から「ワルツのシューベルト」と呼ばれました。
ポルカやマズルカの分野では兄以上に高く評価されることも多いです。
彼は生まれつき脳に障害があり、その影響が脊髄に現れたため、虚弱体質でした。
ウィーン工科大学で機械工学製図数学を学びました。
1848年革命が勃発すると革命側に立って武器を手にして戦いました。
父ヨハンに軍人になるように言われましたが、
ヨハン シュトラウス 1835年
「私は人を殺すことを学びたくない。人間として人類に市民として国家に役立ちたい」
と言って拒絶しました。
翌年父は亡くなったため、軍人にならずに済みました。
父が亡くなって以来、ヨハン2世に注文が殺到し、過労になったのでヨーゼフが交替しましたが、彼は現代の清掃車のプラン
を立てるなど工学の方で成果をあげていたので音楽家になる気は全くありませんでした。
「避けられない事態が起こりました。きょう私は初めて”シュペール”で演奏します。
こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません……。」
妻カロリーネに宛てた手紙
ヨハンが帰って来ましたが、再度過労になり、音楽家を続けることになりました。
しかし人気者の兄と比べられ、
「私のここでの立場は容易なものではない。先入主(=兄)にたいして戦わねばなりません。」
(ウィーンに残してきた妻カロリーネ宛ての手紙、1869年4月16日付)
(ウィーンに残してきた妻カロリーネ宛ての手紙、1869年4月16日付)
という手紙を残しています。
ワルシャワでの条件の悪い仕事を焦って取り、過労がたたり亡くなっています。
「とんぼ」op204
は1866年ポルカ=マズルカとして作曲されました。
その年、妻カロリーネとオーバーエスターライヒ州に位置するトラウンシュタイン山とその周辺へハイキングに出かけました。
土手で優雅に飛ぶトンボを見て、新曲の着想を得ました。
羽音をたてて水辺を飛ぶトンボの様子が表されています。
シュトラウス一家はユダヤ系でした。そのことは、ナチスによって明らかになりましたが、ゲッペルスによりその事実は隠蔽されました。「ドイツの文化芸術が削られるのは避けなくてはならない。」と…。