音楽の喜び フルートとともに

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シンセサイザーの開発

2023-02-16 20:54:00 | 現代
火曜日は子育てサロンでした。
バレンタインにちなんてチョコレートの手遊びをして、ふれあい遊びをやりました。
コロナ前ほどではありませんが、人が戻ってきています。

午後からそのまま、日曜日に小学校で苔テラリウムの準備。

説明でプロジェクターを使いたいので、パソコンを持ってきてくれました。
福祉委員会のプロジェクターは5年前に買ったものですが、コロナで放置。

パソコンはアップルで接続端子が合いません。 
「取りに帰ってきます。」と、わざわざ行ってきてくれましたが、その中にも合う端子がありません。

USBのハブボードを持ってきてくれました。
「USB-USBならいける。それならセリアで売ってないかな?」

「セリアで買ってくるわ。」と今度は別のスタッフが自転車で走ってくれました。

その間に私のAndroidの充電ケーブルを指してみると使えます。ただしデータ用でないので信号は通じません。
パソコン側が何もつけないとタイプCだとわかりました。

「セリアにはUSB-USB、無いって」で連絡が入り「USB-タイプC売ってない?」
自転車で走って買ってきてくれました。
入りましたが、メニュー画面は出るけれど、何の具合かそこから動きません。
小学校で借りることにしました。
サロンと小学校は同じ敷地にあるので、すぐ職員室に行って先生に借りてきました。

ところが、そのプロジェクターは電源を押すと冷却するモードになってそれ以上進みません…まいった!

もう一度借りに行くと、今度はタブレット配布になったので使っていないパソコンルームに置いてあるプロジェクターを貸してくれることになりました。

それは新しいのですが、パソコンを持ってきてくれたスタッフが時間切れで帰ってしまいお試しできません。

しかも、パソコン側USBかタイプCの端子のコードが学校にも見あたりません。
先生が用意してくれておくことになりました。

お試しは金曜日午後になりました。
家庭科室のスクリーンも確認。
家に帰ると4時でした。サロンのデジタル化もなかなか合理的にはいきません。

デジタル音楽と言うと以前はシンセサイザーを使ったり工学機械を使ったりすることでしたが、コロナになって、すっかりネット配信することになってしまったようです。

シンセサイザーの始りは、ミュージックテレグラフという発電機や電話を応用した機械だそうです。

すぐに有線音楽配信を狙ったテルハーモニウムが登場します。

初期の電気オルガンで別名ダイナモフォンと言いました。

真空管やラジオやトーキーの実用化研究が本格化するとラジオ技術の1つであるヘテロダインを応用したテルミン
やオプトフォニックピアノが登場しました。

1920年代にはトラトニウム


オンドマルトノ

が登場します。
それらはすべて単声でした。

1930年代には多声音楽(ポリフォニー音楽)ではハモンド オルガン


が登場し、一大勢力になり、その後40年間その地位を維持しました。
1939年ニューヨーク万国博覧会でヴォコーダー


の実験が開始されました。
また鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザーが一般公開されました。

しかし、この時第二次世界大戦が始まり、ヴォコーダーは軍の暗号通信装置に利用されたりして電子楽器開発者は軍の電話装置やレーダーの開発に駆り出され中断しました。

ドイツの研究所ではユダヤ人排斥運動に反対した教授が職場を追われ、世界中の電子楽器開発は停止しました。

1945年戦争が終わるとドイツの研究所で実用化されたテープレコーダー
を使って音を切り張りするミュージックコンクレートがフランスで開発されました。

1950年
軍の技術専門だったコンピューターが解放され、コンピューター音楽


が開発されました。
1957年にはシンセサイザーが登場しています。
 
その後、小型化、音質の向上の進化が始まりますが多岐多種にわたり、正直、電子化の話はまだよくわかりません。

パウル ヒンデミット(1895〜1963年)ドイツ帝国ハーナウ生まれ、
西ドイツフランクフルト没。

ドイツに生まれましたが、父親はポーランド領ノボジェッツ出身の職人でした。

父の熱心な教育もあって、1913年から管弦楽団のバイオリン奏者としてキャリアを開始し、室内楽団フランクフルト ムゼウム管弦楽団のコンサートマスターを務め、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者も務めました。

第1次世界大戦で父が戦死します。
自身も従軍しています。

1920年に結成した。アマール弦楽四重奏団では8年間にわたり活動しました。

1925年アマール絃楽四重奏
1927年ベルリンに引っ越しベルリン音楽大学の作曲家の教授を務めています。

ナチス時代にはヒンデミットの評価は揺れていました。ロマン派からすれば進歩的すぎアバンギャルドな作曲家たちにとっては穏健で順応的すぎると批判されていました。

帝国音楽院の顧問をしていたにも関わらず、ユダヤ人と三重奏を組んでレコーディングをするなどしナチスから反感を買っていました。

1934年ゲッペルスによって「無調の騒音作家」とされ、1936年にはヒンデミットの作品が禁止され、38年は「退廃音楽展」で批判されました。

1935年からトルコに移り、アンカラ学院の開校に尽力しました。
結局1938年にスイス亡命。

1946年からはアメリカの市民権をとりました。

その後、1951年スイスのチューリッヒ大学の教授の任につき、スイスに引っ越しました。

トラトニウムと弦楽合奏のためのコンチェルトステックop50
1931年、ナチスが台頭しヒンデミットの評価が揺れている頃に作曲されました。