音楽の喜び フルートとともに

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庭園の秘事

2023-08-05 08:50:00 | ルネッサンス
出張から帰宅途中、

横浜の焼売弁当の写真を送ってきた夫に、「食べたい。」と書いたら、
京都で私と次男の分を買ってきてくれました。
パッケージは京都で薄味。
スーパーで買ったお弁当とはやっぱり違います。
美味しかった!
でも、実は大阪で作られたお弁当でした。
美味しかったから良し!

替わりに石清水八幡宮駅までお迎え頼むって、特急が止まるわけでもないし、「なんでその駅?」って聞いたら、「段差が少ない。」って、そうなのかな?
だいぶお疲れらしい。
出張お疲れさま。



京都八幡市には、石清水八幡宮があり、神仏習合でそこの中にあった男山四十八坊の阿闍梨にまでなった松花堂昭乗(1582-1639年)


が、1637年弟子にすべて譲り、「松花堂」と名付けた方丈を建て、そこに移り住みました。

松花堂昭乗が隠居後に住んだ草庵・松花堂=2020年7月28日、京都府八幡市八幡女郎花、小西良昭撮影

風雅を愛された人で書道では寛永の三筆(近衛信尹、本阿弥光悦と)と称され、人物画や花鳥風月

を描いた絵は高く評価され、茶会では広い交流があり、「八幡名物」
奈良文琳 写し
と言われるお道具が伝わっています。

昭乗は、農家の種入れに使っていた箱を十字に仕切った器にヒントを得て、茶会で使う煙草盆や、絵の具箱を十字に仕切って使っていました。

松花堂昭乗が好んだ四つ切り塗箱。松花堂弁当のヒントになった=松花堂美術館提供
昭和の初め、吉兆の創始者が松花堂を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切箱」を見初め、煮物、焼き物、お造り、ご飯を入れて蓋を被せて茶会に出されたのが「松花堂弁当」の始まりです。
(松花堂庭園、美術館hpより)

ちなみにお庭(20000㎡)


も見れますし、吉兆が中にあってお食事もできます。「松花堂弁当」

も食べられます。
食べたこと無いけど…。前を通るばかり。一度くらい行きたいけど。

チプリアーノ・デ・ローレ(?ー1565年)


ネーデルランド出身
イタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家です。
フランドルのロンセに生まれたと推察されます。
アントウェルペンで音楽教育を受けたと思われます。
パルマ公妃マルゲリータ

と繋がりがあり、1533年彼女のナボリ行きに随行し、そのままイタリアに住んだと言われています。

1536年マルゲリータがアレッサンドロ ド メディチ

と結婚します。
その頃までにローレはイタリアで音楽教育を受けています。
ヴィラールト

と近しい関係にあり1545年には彼の住むプレーシャに滞在しています。

ヴェネツィアの出版社スコットに支持され、マドリガーレ集を出版。
1544-45年には2巻のモテット集が出版され、2年後には重版されています。
1546年フェラーラのエル コレ デステ2世に宮廷楽長に任命されます。
ここで多くの曲を残しました。

1556年エル コレ デステ2世


により功労により聖職禄を賜っています。
1559年デステ2世が亡くなり、ローレはフェラーラを去ります。

1563年ブリュッセルでマルゲリーテ公妃に再び仕えます。その後パルマで彼女の夫に仕えます。
次には1563年、サン・マルコ寺院の楽長になります。
が、俸禄の低さからここも辞めパルマに戻ります。その1565年に亡くなりました。

マドリガーレ集から、「遠くの東の国から」Da le belle contrade d'oriente, madrigal
東洋の美しい王国から
清らかで楽しいバラのヴィーナスと明けの明星と私の神聖な愛する人の腕の中で楽しんで
その喜びは人間の頭では理解できません。
熱烈なため息をついた後、彼女が言うのを聞いた
「私の心の希望、甘い願い、あなたは行き​​なさい、ああ、あなたは私をここに一人にしておきます。さようなら!
ここで私はどうなるのでしょう、悲しくて孤独になるのですか?
ああ、残酷な愛よ、あなたの楽しみは確かに
不確実で短い、私はまだあなたを楽しんでいますが、最大の幸福は涙で終わる。」
それ以上何も言えずに、彼女は私を強く抱きしめ、
もっと絡み合う抱擁を繰り返して
これまで以上にツタやアカンサスにように。