月曜日は渡辺橋サロン ド プリンシパルで2ヶ月ぷりのフルートアンサンブルレッスンでした。
ルイ・ロットを見てるメンバーと榎田先生は撮りました。
こっちはアルタス吹き。
ルイ・ロット工房は、1855年から1951年頃まで6代継続した世界最高峰のフルートメーカーです。
榎田先生がお体を壊されて入院。
6月末からお休みでした。お元気な姿を見れて嬉しいです。
メンバーにも会えて弾んだ空気に…。
榎田先生からルイ・ロットのフルートを買った人がいてお試し。
高音のピアニッシモがきれいです。
しまった!写真忘れました。
また、次の回に撮らせてもらいますね。
ルイ・ロットを見てるメンバーと榎田先生は撮りました。
こっちはアルタス吹き。
曲はフルート4本のドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」とアルトフルート、バスフルートを入れたフルート五重奏で日本の童謡、榎田先生が編曲されたのを使いました。
「待ちぼうけ」「あわて床屋」「砂山」
ロットが響いていい感じ。
ロットが響いていい感じ。
私はバスフルート。
バスフルートに時々旋律がくる編曲でおもしろい!
12月の演奏会では、田園のほか、ミヨーのブラジレイアと、日本の曲数曲演奏する予定です。
どのパートするかは、これから相談です。
ルイ・ロット工房は、1855年から1951年頃まで6代継続した世界最高峰のフルートメーカーです。
テオパルト ベームの製造ライセンスをフランスのゴットフロワとイギリスのルーダル&カルテが取得していました。
ルイ エスプリ ロット(1807-1896年)はフランス ラ クチュール生まれました。
ラ クチュール ブッセイは17世紀に始まった管楽器製作者が集まっている街でした。
ここにはホッテテール家、マーティン家、ゴッドフロイ家、ビュッフェ家、シブヴィル家、ルブラン家、そしてもちろんロット家の本拠地でした。
ルイは13人兄弟の12番目として生まれました。
父親から管楽器の制作を学び、1827年クレール ゴッドフロワ アイネの工房で働き始めます。
1833年会社Société Godfroy fils et Lotを設立、協同しました。
6日後、彼の娘のキャロライン ジョゼフィーヌ ゴッドフロワと結婚。
1836年クレール ゴッドフロワは引退します。
1837年、ベームフルートを正式に製作しました。
1847年、ベームはフランスとドイツで取得したシリンダーフルートの特許をロット&ゴッドフロワに売却します。
このことでフランス唯一のメーカーとしてこのモデルを製造することになりました。
1855年モンマルトル36番地の自宅兼工房でルイ・ロットは独立します。
1855年の価格表
1860年パリ音楽院の公式フルートに認定されます。
ベーム式フルートに反対していたトゥルーが引退し、ルイ ド リュスが跡を継いだからです。
1867年パリ万博でロットはより厚い壁とより大きな音孔をもった新しいモデル、改良されたオープンGシャープキーを備えたより安定したフルートを発表します。
1876年ロットは、パリに近いシャトウー村に大きな家を買ってそこに妻とともに移ります。
オノレ デジレ ヴィレットに財産と事業を引き継ぎます。
ロットの息子はおもちゃ事業で成功し、楽器は作りませんでした。
ロットはその後も楽器作りに携わり続け1896年に亡くなりました。
シリアルナンバーが偶数が金属管、奇数が木管フルートを製造しています。
6000番以前の金属管は、板状の金属を叩いて丸めて作ったシーム管と呼ばれる方法で作られています。
(以降のものはシームレス管、引抜き管)
歴代のルイロット工房の職人
Louis Esprit Lot (1855-75)
No.0-2,000
H. D. Villette (1876-1882) No.2,150-3,390
Debonneetbeau de Coutelier (1882-1889) No.3,392-4,750
M. E. Barat (1889-1904) No.4,752-7,350
Ernest Chambille (1904-1922) No.7,352-9,210
G. Chambille (1922-1951) No.9212-10,442
榎田雅祥先生は、ルイ ロット信奉者で演奏者です。
古いルイ ロットの音色を現代に蘇らせようと楽器会社と相談されているところに、コロナ禍で中断。
復活できることを祈っています。