昨夜からのリアクションボタンの不具合治ったようです。ありがとうございます。
お盆の中日。
治りました。
ホースは、単に押したらカチッと入るものでした。
の「チョコレィト」は子どものために書かれた曲です。
が出版されます。
朝、実家でグノーの「白鳥」をレッスン。
その後、「トイレのアースが切れたから、夫になおしてくれない?」
「新しいホースがくっつかないから、それも…。」
と、いうことで、夫を呼びました。
車で、20分、お盆渋滞で30分。
トイレのアース、ドライバーとハサミで
治りました。
ホースは、単に押したらカチッと入るものでした。
ご褒美は、お昼ごはんに錦糸卵ではなくてゴロゴロスクランブルエッグの冷麺いただきました。
「こっちのほうが美味しいでしょ。」っと母。
確かに…。
雨が降ってくる前に帰りました。
家では昨日のお父さんへのお供えのお下がりをいただきました。
スーパーのお菓子ですが、あなどれません。あわしま堂製作です。
京都伏見に工場があります。
近くなので、行ったことがあります。
工場なのでその日のB品とかを安く出されていて買うことができます。
お菓子はどうしても必要ってわけではないかもしれないですが、私たちを幸せな気持ちにしてくれます。特に子どもたちを。
宮城道雄(1894-1956年)
の「チョコレィト」は子どものために書かれた曲です。
作詞は童謡詩人の葛原しげる作詞です。
大正6年1917年から昭和31年の間に童謡を100曲以上作っています。
大正末から昭和にかけて、児童中心主義の教育思想が広がり、童謡運動が活発になります。
そのもとに長唄では稀音家浄観と吉住慈恭が「桃太郎」「舌切雀」を書きます。箏曲では鈴木鼓村が「雁と雀」
を明治39年に書きます。
それらの運動が大正半ばに本格的に始まります。
「赤い鳥」大正7年
創刊号表紙
「金の船」大正8年
「金の船」大正8年
が出版されます。
宮城道雄は朝鮮から帰国。
大正6年、葛原しげる(1886-1961年)広島生まれ、東京没
に出会います。
彼は100曲近い童謡を宮城道雄と書きました。
彼は女学校で、教鞭を取っていて「童謡教育の理論と実践」
という本を書いています。そこには小学生の作った詩が掲載されていて、実際に、どのような詩を子どもがつくり、好むのかを知った上で詩を書いていたと思われます。
また、宮城道雄は慈観、鼓村と同時期に東京音楽学校の講師、教授になっています。
本居長世は野口雨情と「金の船」で童謡を何曲も書いた作曲家ですが、彼は大正8年宮城道雄の第一回作品発表会に足を運び、大正9年合同の作品発表会「新日本音楽大演奏会」を発表しています。
長唄の町田嘉章もこの演奏会に関わり以後童謡を多數作曲しています。
昭和5年にはラジオ番組「お琴のおけいこと童曲」(全12回)の放送が宮城道雄を講師に行われています。
日本の童謡の勃興期にいて、宮城道雄も生涯100曲以上の童謡を書いています。
チョコレイト 葛原しげる
ぎんぎらぎんの銀紙を
そうっとあけると でてくるは
こげ茶の色の チョコレイト
苦そな色した チョコレイト
見れば見るほど こげ茶色
見るほど苦そな チョコレイト
お口に入れると すぐとけて
ほっぺのおちそな チョコレイト