朝一子育てサポート、久しぶりの新生児でした。
が結婚したのは32歳の冬でした。
もまた20年前にまだ幼い長女を亡くしていました。
10月初めからは長女ヨセフィーナの死後、イタリアの詩人ヤコポーネ・ダ・トディの「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」磔(はりつけ)の刑で亡くなったイエス・キリストを悼む聖母マリアの悲しみが、ラテン語で詠まれた作品
に深く心動かされたドボルザークは、あまりの大作になることから、5月7日までで一区切りとして、保留にしていました。
1893年アメリカに着いたドボルザークと家族
ミルクを飲ませたり、オムツを替えたり、ゲップをさせたり。
息子たちの新生児の頃を思い出します。
若かかった母と私の新生児の頃のことにも思いが飛びます。
生命そのもの。
手から手へ、胸から胸へ。
飲んで、眠って、起きて、出して、抱っこ。
バーチャルやAIでできる事はここにはまだ無いです。
アントニン・ドボルザーク(1841-1905年)オーストリア帝国ネラホゼヴェス生まれ、オーストリア帝ハンガリー国プラハ没
が結婚したのは32歳の冬でした。
1873年11月17日。プラハの国民劇場仮劇場の合唱団コントラルト歌手のアンナ・チェルマーコヴァー当時19歳。
二人はアンナの実家で新婚生活をスタートさせ、やがてナ・リブニーチク街に引っ越しました。
ドボルザークは教会でのオルガニストとして勤め、アンナは歌う仕事をして、暮らしていました。
1874年春、4月4日、長男オタカールが誕生しました。
その年の7月、ドボルザークが応募したオーストリア国家奨学金を獲得。
また11月にはアントニンの作曲した「王様と炭焼き」の第二作が仮劇場で初演され、大成功を収めました。
翌1875年も国家奨学金を再び得ることができました。
更に1875年9月21日、長女ヨセフィーナが誕生しました。
しかし…ヨセフィーナは生まれて三日で亡くなりました。
ドボルザークは娘の夭逝の原因について、自分に非があったのでは…と考えました。
当時、オペラ「ヴァンダ」
マクシミリアン・ピョトロフスキ(ポーランド語版)による『ヴァンダ王女の死』(1859年)
を作曲中で多忙を極めていました。
を作曲中で多忙を極めていました。
そのために、年子を妊娠しながら、長男の育児に励む妻アンナの体調を、自分はあまり気遣えなかったと思ったのです。
彼が尊敬するベドルジハ・スメタナ(1824-1884年)オーストリア帝国ボヘミア王国リトミシュル生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア王国プラハ没
もまた20年前にまだ幼い長女を亡くしていました。
スメタナは長女の死後、ピアノ三重奏曲を発表しました。
関連ははっきりはしていませんが、ドボルザークもピアノ三重奏曲第2番の作曲に打込みました。そしてこの曲は1876年に完成しました。
その年の9月18日、ヨセフィーヌの死からちょうど1年経った頃、ドボルザーク夫妻に次女ルージェナが誕生しました。
ルージェナがもうすぐ1歳になろうという1877年8月13日、お昼寝中だった長男と次女をベビーシッターに任せ、散歩に出かけた夫妻は、久々にゆっくりと穏やかな時間を過ごしていました。
夕方になって、家に戻ったところ、ベビーシッターが目を離したすきに、ルージェナが何かを口にして、具合が悪くなったと言うのです。
ベッドには瀕死のルージェナが、横たわっていました。
当時のマッチは、細い棒の先に硫黄液をつけ、それを乾かして自家製マッチを作っていました。
ルージェナは硫黄液を誤ってなめてしまったのではないか?と言われています。
そのままルージェナは亡くなってしまいました。
ルージェナが亡くなつて1ヶ月もたたないうちに今度は長男オタカールが天然痘にかかってしまいました。
突然、体調を崩した息子をドボルザーク夫妻は3日間、必死に看病しました。
しかし、 ドボルザークの誕生日の9月8日の朝、オタカールは亡くなってしまいました。
こうして1877年の夏、ドボルザーク夫妻は打撃に次ぐ打撃の日々を過ごししました。
その年の8月6日から取り組んでいたオーケストラのための「交響的変奏曲」9月28日に仕上げます。
10月初めからは長女ヨセフィーナの死後、イタリアの詩人ヤコポーネ・ダ・トディの「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」磔(はりつけ)の刑で亡くなったイエス・キリストを悼む聖母マリアの悲しみが、ラテン語で詠まれた作品
に深く心動かされたドボルザークは、あまりの大作になることから、5月7日までで一区切りとして、保留にしていました。
その「スターバト・マーテル」の作曲に、再び着手し、ついに11月13日、完成しました。
1880年12月23日、プラハの音楽芸術家協会による定期演奏会で初演されました。
ドボルザークは手紙に
「あのころの悩みや苦しみは、わたしの守護天使ともいうべき
《音楽》によってなだめられました。」
と書き残しています。
引用文献:
ロデリック・ダネット著, 橘高弓枝訳(1999)『ドボルザーク』偕成社2, p.34
その後ドボルザーク夫妻は、2人の男子と4人の女子に恵まれました。
1878年6月、三女オティーリエ、1880年1月、四女アンナ、1881年、五女マグダレーナ、1883年3月、次男アントニーン、1885年2月、三男オタカール、1888年4月、六女アロイジエです。
1893年アメリカに着いたドボルザークと家族
ドボルザークは家族思いで、子煩悩だったと伝えられています。