夕刻、淀川南岸を走りました。強い西陽。
大日ジャスコで、千葉の義父に、年賀を買いました。セーターとベスト。暖かく過ごしてもらえるといいな。1日、2日に次男と、夫が義父の下に届けてくれます。
情報と民主主義について、ここ数年ずっと考えています。
民主主義は、一人一人の国民が、権利を保障されることで成り立つ制度です。
基本的人権を守ることが、その制度を支えます。
基本的人権とは、生きることに必要な権利の保障。学ぶこと、情報を得ること、発言すること、衣食住 などなど。自分と同じ様に他の人の権利を保障する。
民主主義は多数決ではない。一人の命をお互いに尊重し、違いを認め合う為のプロセスをいいます。
より良い結論が出るとも限らないし、正義を決めるものでもない。
国民主権とは、厳しいものだと思っています。
全ての国民がその決定のプロセスに関わり、責任を負っているという考えの上に成り立っています。
20歳以上の大人は全て、今の政治に100%の責任を負っているという考えです。
その為の選挙。その為の議員制度。
政府や、制度の失策は自分の失策。子どもが、選挙に参加できないのは、責任を負うことができないからで、基本的人権においては子どもも大人も、障害者も、男女も違いは無いと考えます。
その考えにおいて、人一人の命は、重い。なぜなら、人の命に責任を持てる人など世界に存在しないからで、たとえ政府であっても、命を奪うことなど出来ないはず。
民主主義は、必ずしも戦争を放棄をするものではないけれど、その考え方において、戦争放棄を内在している。と考えます。
日本の憲法は、「世界を絶滅の危機においやった独裁、封建への強い反省から
制定された、平和主義と民主主義が結びついたもっとも清新的な憲法である。」と小田実さんは、言いましたが、まさにその通りだと思います。
何で、こんな小難しいことを書き出したかというと、情報公開を金科玉条のように考え、その情報により、危険にさらされる人の命を無視する傾向がますます強まり行くように思えるからです。
政治家が自分達の利益のために不利な情報を隠しているのと、国民のために命がけで働いている人の個人情報とを、一緒くたに考えるのは、それこそが、全体主義。ファシズムであると思います。
「最大多数の最大幸福は、恐ろしい間違いである。一人一人のため、全員の幸福があってこその民主主義である。」ガンジー。
個人情報を隠してから、公開するとか、方法はいくらでもあるだろうし、公開を要請する民主的に充分なプロセスを経たり、政権の交代などの手段がとれない制度の国のもとにいる国民でもないだろうに。
自分達は安全なところに守られながら、人の命を危険にさらしても、情報が欲しいというのは、私には、欲望の暴走であるように思えます。
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