土曜日、朝は梅田で伊藤公一先生のレッスンでした。
6月末。スーパーの駐車場の隣家に、いっぱい。
が彼の才能を認めて楽譜出版のジムロック社を紹介します。
は「ハンガリー舞曲集」の成功を見ていて、彼に「スラブ舞曲集」の出版を持ちかけます。
ピアノ連弾として作曲されましたが、人気が出たためドボルザークはすぐに管弦楽版の編曲を作っています。
基本の基本。スケールとアルペジオを聴いていただくだけで、脂汗ものです。
オクターブH-H-Bと、三音を吹いて下さるのにどんなに集中して音を出されるか。本当にそれだけで美しい。
先生の音の作り方。音楽の積上げ方を目の当たりにできて本当に幸せです。
すぐ牧野に帰って、車で松井山手へ。
今度は生徒さんのレッスン。
なかなか先生の域には達しませんが、学んだことを少しでもお伝えできればうれしいです。
6月末。スーパーの駐車場の隣家に、いっぱい。
もうそろそろ紫陽花の時期も終わりです。
アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラホゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没
1875年オーストリア帝国政府からの奨学金を受け、少額の支援を受けなんとか糊口を凌いで来ましたが、ブラームス
が彼の才能を認めて楽譜出版のジムロック社を紹介します。
フリッツ ジムロック(1873-1901年)
は「ハンガリー舞曲集」の成功を見ていて、彼に「スラブ舞曲集」の出版を持ちかけます。
1878年に出版されたのが「スラブ舞曲集第1集」作品46番です。
ピアノ連弾として作曲されましたが、人気が出たためドボルザークはすぐに管弦楽版の編曲を作っています。
第1集が成功したため、ジムロック社は次なる舞曲集の作曲を早くからドヴォルザークに要望していました。
ドヴォルザークはすでに作曲家としての名声を確立し、次々と大作を手掛けつつあり、また前作をしのぐものを書くことは難しいと思っていて、その作曲には当初は消極的でした。
しかし、1886年6月になって突然創作意欲が湧き、1ヶ月でピアノ連弾版の全8曲を完成しました。
これが『スラヴ舞曲集』第2集 作品72です。
管弦楽編曲も同年11月から翌1887年1月にかけて行われ、両版ともその年の内に出版されました。
管弦楽版は第1、2、7番が1887年1月6日にプラハでドヴォルザーク自身の指揮により行われています。
第2集ではチェコの舞曲は少数にとどめ、他のスラヴ地域の舞曲を取り入れているのが特色です。
スラブ舞曲第2集より第2番
私には行く春を惜しむように聞こえるのですがどうでしょうか?
いつも勉強させていただいています。
曲名(知らなかった)とメロディがやっと一緒になりました。ユモレスクに続きドボルザーク2曲目です。
出来の悪い生徒の話みたいですみません、またおじゃましにきます。
子供の頃、年下の人と同じ曲の連弾やりましたよ。私は低音。メロディーの高音パートのほうが簡単なのかと思ってあるとき見直してみると、反対だったのかもでした。
で、これまたドボルザークのピアノ曲は?とちょうど最近気になっていたところでした。まるでプチブームでしょうか ^ ^
ドヴォルザークのスラブ舞曲集はノイマン指揮、チェコ フィルのCDを持っています。
プラハに行った時、トヴォルザークやスメタナを描いた絵を見ました。市民会館です。
↓ 参考
https://www.tabikobo.com/tabi-pocket/europe/czechrepublic/article36960.html
曲名一致して良かったですね!
お手伝いできてうれしいです。
ドボルザーク、ユーモレスクもいいですね。日本人の琴線に触れるような気がします。
これからもよろしくお願いします😉👍
子どもの頃連弾されたのですね。
低音パートをされたのですね。
たしかに高音パートもむずかしいですね。管弦楽版でのフルートパートも結構難しいです。
ドボルザークのプチプーム、そうかも💖
ノイマン、チェコフィルいいですね~
市民会館…日本の市民会館と全くイメージが違いますね。
文化や芸術を大切にしているって感じますね。