![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/20/db665099610452111bb6261785e13d25.jpg)
今日は暖かい日でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/06/0a508d876861977836eaafc873e3b849.jpg?1701838776)
不動川砂防歴史公園の貯水池。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/1f/071091f8baef9369e886f755fe861eab.jpg?1701840743)
堰提。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6f/a692ec63ebd2ac3dde109ed27dfe6a29.jpg?1701841593)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ca/6c4e0f37bc9ea6205497e72288ab156f.jpg?1701842286)
アイゼンシュタット、エステルハージ宮殿
後にはニクラウス
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b2/57e7daf7fbb596e84b106d894f96889d.jpg?1701843115)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/00/6e133b3ae6f4fda6625edd10c8ff2d70.jpg?1701842487)
ここにはオペラ劇場とマリオネット劇場があり、そこで演奏される音楽や、演奏家との契約は、すべてハイドンの仕事でした。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/47/1d3dc35bae490407ea44c6470f47c4b5.jpg?1701845596)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/a6/5d43732e14c55ebb255ec5e8cb69a3c8.jpg?1701844778)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/bd/fa6f1ed778225c821f3e1a96a09999ae.jpg?1701844872)
1765-1733ニコラウス2世
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/7a/73030df264fb6c0e9b63011b39d6a7e6.jpg?1701844461)
ハイドンが晩年を過ごしたウィーンの家
歩けないので、こもってます。
写真は先週の里山のばかりです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/06/0a508d876861977836eaafc873e3b849.jpg?1701838776)
不動川砂防歴史公園の貯水池。
明治6年にオランダ人工師ヨハネス・デ・レーケによって作られた石積堰提は日本初だったそう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/1f/071091f8baef9369e886f755fe861eab.jpg?1701840743)
堰提。
フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6f/a692ec63ebd2ac3dde109ed27dfe6a29.jpg?1701841593)
1761年29歳でパウル・アントン・エステルハージに雇われました。
パウル・アントンは一年足らずで亡くなり、弟で当主になったニコラウスのもとで年務めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ca/6c4e0f37bc9ea6205497e72288ab156f.jpg?1701842286)
アイゼンシュタット、エステルハージ宮殿
後にはニクラウス
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b2/57e7daf7fbb596e84b106d894f96889d.jpg?1701843115)
ニコラウス(ミクローシュ)・エステルハージ侯爵
が建てたハンガリーのフェルテートの宮殿で
が建てたハンガリーのフェルテートの宮殿で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/00/6e133b3ae6f4fda6625edd10c8ff2d70.jpg?1701842487)
ここにはオペラ劇場とマリオネット劇場があり、そこで演奏される音楽や、演奏家との契約は、すべてハイドンの仕事でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/47/1d3dc35bae490407ea44c6470f47c4b5.jpg?1701845596)
1790年58歳のときに、ニクラウスが死去し、後継ぎのアントン・ エステルハージ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/a6/5d43732e14c55ebb255ec5e8cb69a3c8.jpg?1701844778)
1738-1794アントン・エステルハージ
は音楽に興味がなく、ハイドンに年金を与えて引退させてしまいました。
は音楽に興味がなく、ハイドンに年金を与えて引退させてしまいました。
しかし、ハイドンの名声は高まっていて1791.2年、1794.5年のイギリス演奏旅行は大成功で、演奏収入は年金1400グルテンに対して20000グルテンにのぼっていました。
イギリスでの人気は高く、移住も考えたようですが、1794年旅行中にニコラウス2世が当主になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/bd/fa6f1ed778225c821f3e1a96a09999ae.jpg?1701844872)
1765-1733ニコラウス2世
ハイドンは呼び戻され、エステルハージ家と再契約し、ここの楽長になります。
ニコラウス2世はウィーンで過ごすことが多かったのでハイドンもウィーンで過ごしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/7a/73030df264fb6c0e9b63011b39d6a7e6.jpg?1701844461)
ハイドンが晩年を過ごしたウィーンの家
国内の人気も高まり、1797年に作曲した「神よ皇帝フランツを守り給え」はオーストリア国歌になります。
ハイドンは65歳になっていましたが、器楽曲では『トランペット協奏曲 変ホ長調(Hob. VIIe:1)』のほか、『エルデーディ四重奏曲 作品76』(第76番(第61番)『五度』、第77番(第62番)『皇帝』、第78番(第63番)、『ロプコヴィッツ四重奏曲 作品77』を作曲していて、その創作意欲は衰えていませんでした。
弦楽四重奏曲第78番(第63番(偽作を除いて後に63番と言われるようになりました))は、第一楽章の冒頭部分が日が昇って来るような感じがするので後世、「日の出」と名付けられました。
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