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眼科に来ました。
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が当時の医者諷刺(モリエールのいしゃふうし)を行っています。
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ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年焼きごてで傷口を焼き化膿を防ぎました。
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ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。矢を麻酔無しで引き抜く、医者は神の助けを祈るようにすすめました。
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1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れました。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命しました。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていました。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなりました。
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ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。その後ロンドンに戻りますが、『イェフタ』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、夏には片目失明者となります。
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はイギリスの眼科医です。当時の著名人を多く患者として抱えており、バッハ、ヘンデル(いずれも手術の失敗により失明)、ギボンなどを治療したことで知られています。
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の侍医に任命されました。彼は、30年以上に渡って、ロンドンを拠点としてヨーロッパのほとんど全ての宮廷を次々に訪れて回診を行いました。
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は書いています。彼は、自分が治療を行うたびに「まさにキケロ的というべき、いまだ形容されざる並外れて困難な」手技だったともったいぶるのが常でした。
前回より2週間たち、コロナでヘロヘロになった上に視力もまたどっと落ちた気がします。
眼圧検査はプシュッと空気を当てられる度に目を閉じてしまいます。
「頑張ってあげてくださいね!」と何度も言われてしまいました。
それから診察。
今日は再診のせいかまだ早く。
9:00に来て会計までして12:00でした。
楽譜が読みにくいのが困ります。なんとか視力回復したいです。
1600年代のお医者様はどんなだったでしょう?
ジャン パティスト ポクラン モリエール(1622-1673年)フランス王国パリ生没
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が当時の医者諷刺(モリエールのいしゃふうし)を行っています。
医師(内科医)
中世ヨーロッパの初期段階において、 医者は聖職者と同じ扱いでした。
15世紀中ごろになると医者たちの世俗化も進んだが、それでもなおキリスト教とのつながりを密接に保ち続けていました。
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ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年焼きごてで傷口を焼き化膿を防ぎました。
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ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。矢を麻酔無しで引き抜く、医者は神の助けを祈るようにすすめました。
教育
パリ大学医学部。
当時の大学には、Philiatre(医師希望者)
→Bachelier(医学学生)
→Licencié(医学士)
→Docteur(医学博士)という地位が存在しました。
まず、医学部に入るにはすでに文学で学士号(maître es arts)を有している必要がありました。
当時の医者達は処方箋にラテン語を用いたし、医学教育もすべてラテン語で行われたからです。
理髪外科医や薬剤師はラテン語など知らなかったため1段低い医者とされ、ラテン語こそが医者の権威を特徴づけるものとなりました。文学士のほかにも、3名の医者のサインの入った身上調書が必要でした。
こうしてPhiliatre(医師希望者)と呼ばれる学生になると、2年間、解剖学や生理学、病理学などの講義を受けて、医学部の入学試験を受けました。
こう見るといかにも近代的な教育を行っていたように思えますが、試験では古代ギリシアのヒポクラテスやガレノスの教えをいかに噛み砕いて説明できるか、それのみが重要でした。
Bachelier(医学部生)になるには、入学試験に合格することは当然として、カトリック教徒で、かつ医学部で行われるすべての宗教儀式に出席することが条件でした。
プロテスタントの学生は入学さえできず、たとえカトリックであっても、親が医者でない場合は、普通の学生とは違って多額の出費が強いられました。
当時の医学生たちは、人体解剖を行う機会もごくマレにありましたが、それでも古代医学の教えにあうように解釈を施すことに励み、それは学位論文においても変りませんでした。
「くしゃみは自然な行為であるか?」
「散髪には月の満ち欠けを考慮する必要があるか?」
「歯痛は恋愛の兆候か?」
「恋愛は精神病と同じ治療を施すべき病であるか?」など、これらは当時提出された学位論文の題名でした。その審査ではこうした論文をテーマに弁論術が競われました。
Licenciéになるにも、各種試験や学位論文の審査を通過する以外に、仰々しい宗教儀式を経なければなりませんでした。
Licenceを取得すれば正式に医師として活動が許されるようになるため、この段階でも再び学生の素行や家柄が厳しく精査されました。こうして学部内の秘密投票で授与の可否が決定されました。
大法官からLicenceを受け取り、祝福を与えられた後、殉教者の祭壇を前に教会への絶対的な忠誠を誓いました。
外科医
当時の医師たちが古代の賢人たちの教えを重視し、そこから外れないように解釈を施したことは先述したが、それだけでなく、彼らは解剖学、生理学の基礎である外科を蔑視していました。
外科が不浄なものとして軽蔑されたのは、解剖行為が教会によって禁じられていたからです。
ルイ14世が痔瘻を患って死にかけた際、首席外科医が国王の痔の手術に成功したことで、それまで虐げられていた外科は大きく前進し、信頼を勝ち取りました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
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1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れました。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命しました。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていました。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなりました。
翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れました。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けました。
手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べました。
しかし実際には、手術は失敗していました。
テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったといわれています。
2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、7月28日午後8時40分に65歳でこの世を去りました。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル( 1685- 1759年)
神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没
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ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。その後ロンドンに戻りますが、『イェフタ』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、夏には片目失明者となります。
間もなく右眼の視力も悪化します。
そのような中でオラトリオ『イェフタ』はなんとか完成させますが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなりました。
その後も演奏活動だけは続けていました。
1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けました。
しかし、結局は成功せず
翌1759年4月14日、体調の悪化により死去。74歳でした。
ジョン・テイラー(英: John Taylor、1703年 – 1772年)
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はイギリスの眼科医です。当時の著名人を多く患者として抱えており、バッハ、ヘンデル(いずれも手術の失敗により失明)、ギボンなどを治療したことで知られています。
おそらくは右利きで、患者のこめかみや頬骨を支えにできる左目しか手術をしなかったとされています。
テイラーは1703年にノリ薬種商の息子として生まれます。眼科学を学び、ヨーロッパ中を遊学してバーゼルやリエージュなどで医学博士号を取得しました。
1736年にはジョージ2世
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の侍医に任命されました。彼は、30年以上に渡って、ロンドンを拠点としてヨーロッパのほとんど全ての宮廷を次々に訪れて回診を行いました。
当時からその眼科医としての優れた医療技術で「勲爵士」(シュヴァリエ)として広く名をはせていたテイラーでした。
しかし、それはほとんど彼一流の自己宣伝術によるものであったと、1885年発行の『英国人名事典』
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は書いています。彼は、自分が治療を行うたびに「まさにキケロ的というべき、いまだ形容されざる並外れて困難な」手技だったともったいぶるのが常でした。
1750年、ライプツィヒに滞在中だったテイラーは、高名な音楽家のバッハの眼を手術しました。直後に地元の新聞は手術が成功であったと報じたが、実際には失敗しており、その数ヶ月後に2度目の手術が行われたが治癒できず、バッハは全盲状態になったとされる。結局この手術から数週間後にバッハは亡くなります。
1758年ヘンデルも手術しますが、やはり失敗。
この頃にはテイラーは風刺やあざけりの対象になっており、バラッド・オペラには彼をテーマにする芝居さえありました。
1772年にテイラーはプラハの修道院で亡くなったころ既に盲目だったと言われています。
ヘンデルのオラトリオ「イェフタ」より「清らかな泉と洪水よ」
今は、テレビ、新聞であれが健康にいい、これがいいといろいろ情報があふれていますね。私も、その中で、なるほど、これは毎日の生活で取り入れたほうがよさそうだ、というのを実践しています。
バッハの白内障の手術失敗の件にショックを受けていたところです🐻
あと晩年若手から「バッハの音楽は古い」なんて言われていて・・(オイオイ)
メンデルスゾーンがのちにバッハのいだいさ(偉大さ)を再評価したってやってました~✨✨✨
とはいえ昔の眼科医なんて大変でしたでしょうね💦
久米さまのお話で、昔も今も親がお金持ちじゃないとお医者さんってなるのってむずかしいのかなあって思いました・・
確かに健康情報溢れていますね。
お元気そうですね。
私もいろいろ気をつけていますが、ちょっと最近はいろいろまとめてやってきたようです。
ますますお元気でお過ごしくださいね。
そうなのです。息子のクリスチャンのほうが売れていて、父を雇主に紹介しようといろいろ手を尽くしています。
眼科医も、外科医も血縁、資金力頼みで、宗教もあるし…頭蓋骨に穴を開けたら神様の声が聴こえるとかで、わざわざ穴を開けたり、とっても非科学的なものでした。
怖いですね。よく、近代医学に到達したなと思います。
今も地縁血縁金なんてやっていると医学も発展しませんね。ワクチン開発、特効薬開発などでそれを露呈したのかもって思っています。
昔とはレベルは違いますが…。