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30年後に発見された「ララバイ」

2024-03-26 22:39:00 | 近代
今年も子育てサポートの登録をしました。

幼稚園の跡地に建てられた
ファミリーポートひらかたは枚方市の委託で子育て支援を行っています。
私は時々、頼まれてお手伝いをするだけですが、子育てでつらい時は24時間電話で相談を受け付けてくれます。

つらい時というより、つらくなりそうな時に電話すると良いと思います。誰かに話すと気持ちが楽になるし、具体的に休養する方法も教えてくれます。

ジョージ ガーシュウィン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没
 
が、1919年21歳の時に弦楽四重奏として作曲された「子守唄」(Lullaby)は

生前は出版されず、ガーシュウィンの死後30年余りを経て、1968年に発見され、ようやく出版されました。

作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン(1896-1983年)


は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。


ガーシュウィンは東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民です。

父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってきましたが、アイラが興味を示さなかったため、代わってジョージがピアノに親しむことになりました。
13歳の時から正式にピアノを習い始め、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。

しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。

彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーの楽譜出版社
1890年代後半にブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する会社が楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態だった。
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。

1914年にはそれまで通っていた商業高校を辞めてティン・パン・アレーで仕事をするようになりました。
ジェローム・H・リミック音楽出版社という会社に雇用され、新曲の楽譜を客にデモ演奏するピアニストとして週給15ドルで働くことになりました。

ガーシュウィンはティン・パン・アレーで働いていた時期に、音楽についての職業的な知識や演奏の技巧など多くのものを体得しました。

とりわけ、彼に大きな影響を与えたのは、ティン・パン・アレーからマディソン・スクエア・ガーデン付近にラグタイムをライブで演奏するカフェなどが多く存在していたことでした。

ガーシュウィンはラグタイムに傾倒し、そのエッセンスを自らの作曲家としての自己を確立させる手段としました。

出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「スワニー」

アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。
ここから、快進撃が始まります。
 
その同じ1919年、「子守唄」は作曲されました。
ラグタイムとクラッシックの融合した曲になっています。

弦楽四重奏で作曲されましたが、この動画では管弦楽編曲版です。



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