音楽の喜び フルートとともに

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消えない炎

2022-11-20 09:08:00 | バロック
飯盛山の紅葉は

ちょこちょこっと山のアクセントと言う感じです。

気温が高いので、少し茶色。
母は昔見た美しい紅葉の話しを散漫にしていました。
それは、紅葉の名所に連れて行ってということかも…車は得意でないので、気づかないふり。
夫か息子のいるときにお願いしてください。

フランチェスコ バルトロメオ コンティ(1681-1732年)イタリア フィレンツェ生まれ、ウィーン没


20歳までにフィレンツェ、フェラーラ、ミラノで音楽理論家として頭角を現しています。
1701年ウィーンのハプスブルク宮廷に理論家として職を得ます。
1706年オペラ作曲家としてデビューします。
ボローニャのアカデミアハルモニカの会員になります。

1713年宮廷作曲家に任命されます。
始めの妻テレジア クーグラーが亡くなり、プリマドンナ マリア ランディーニと結婚。
21年まで彼のオペラの主役になりましたが、22年亡くなります。

マリア アンナ ロレンツィオーネが主役になり、24年3人目の妻になります。
1732年、ウィーンで亡くなります。


紅葉はまだ見に行けないけれど、音楽の赤い炎は、燃やすことができる?

私のすばらしい火は、
私が遠かろうが近かろうが、
お前のために決して変わらず、
愛しい人よ、いつも燃やそう。

私を燃やすあの炎を、
私の魂はとても好いている、
それは決して消えなかろう。

そして、もし私をお前の許に返す定めなら、
私の美しい太陽の麗しい瞳よ、
私の魂は別の光を望まぬし、
決して望まなかろう。


カルドーソ震災で焼失した楽譜

2022-11-19 09:12:00 | ルネッサンス
先週お約束していた母と叔父さんをおばあちゃんのお墓に連れて行く話し。
実行しました。

朝から母から電話で「忍ヶ丘に11時違うの?」
「いつ連絡したの?」
「忍ヶ丘じゃなくて、河内磐船駅。」
「あんた忍ヶ丘って言ってた。」
「言ってたのはお母さん。河内磐船駅のほうが近いから、訂正して。」
ブツッって切れた…。

あちゃー。

まあ、無事に会えました。

お墓参りをして、
「千光寺に行きたい。日本最古のキリシタンのお墓が見つかった所や。」
これが、なかなか。
ぐるぐる周辺を廻って、道で地元の人の話を聞いたり…。

結局、千光寺はもう無く、跡地は私有地で入れなくなっていました。
遺構は移転されて跡地公園になっていました。



柱の跡や、城主の田原城主一族の墓の跡が展示してありました。

1581年(天正9年)田原レイマン(礼幡)城主のキリシタンの墓碑は

四條畷駅近くの歴史民俗資料館に展示してあり、叔父さんはそちらの方はもう見たそうです。

田原レイマンはルイス フロイスに洗礼を受けてキリシタンになったそうです。

ルイス フロイスはポルトガルからやってきた宣教師です。
ポルトガルの作曲家はあまり有名ではありませんが、この頃、カルドーソ、ローボ、ポルトガル国王ジョアン四世が曲を残しています。

マニュエル カルドーソ(1566-1650年)ポルトアレグレ近郊フロンテイラ生まれ、没不明。

エヴォラ大聖堂
1230-1340年に建てられた世界遺産エヴォラ大聖堂
の声楽伝道所で音楽を学びます。

1588年カルメル会修道院に入会。
1620年代ヴィラ ヴィソーサ大公家
に努めます。
そこでボルトガル国王ジョアン四世


と交友関係に入ります。
カルメル女子修道会の常勤作曲家兼オルガニストとして生涯の大半を過ごします。
カルドーソはパレストリーナのポリフォニー様式を模範にして、当時流行っていたバロックの音楽語法を全く無視していました。

精巧なポリフォニーの作品以外は1755年のリスボン大地震で

震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には略奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える

大震災のため崩壊した建物

リスボン広場に集まる人々
大震災後のリスボン
焼失したと言われています。

3曲残ったミサ曲のうちの1つです。



酔っ払いの宴会

2022-11-18 09:02:00 | 古典
10月30日の里山。

マルバルコウソウ

ミカン…品種はわかりません。

Bidens Vulgate
背の高い物乞い
すごい名前。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

が1800年に書いたオラトリオに「四季」があります。 

1790年、長く務めたエステルハージ家から年金をもらい、引退していました。
しかし、そのことで自由に作曲でき、特にイギリス演奏旅行では大成功し、イギリスに移住することまで考えていました。

そこへエステルハージ家が代替りして、ニコラウス二世


が当主になります。

ニコラス二世は、再び楽団を結成し、ハイドンを楽長に据えます。
1892年ハイドンはウィーンに家を建て、ここで晩年を過ごします。

ウィーン郊外グンペンドルフ
ニコラウス二世は、古いタイプのミサ曲を好んでいて、ミサ曲を毎年作曲させました。
オラトリオ「天地創造」「四季」もこの頃作曲しました。

オラトリオ「四季」はイギリスのジェームズ トムソンの長大な叙事詩「四季」をアマチュア音楽家のゴッドフリート ヴァン ズヴィーテン男爵

が台本にし、作曲されましたが、ハイドンとはかなり確執があったようです。

上演は180人のオーケストラと合唱団で行われ、ハイドンが指揮を振り、メールマルクトにあるシュヴァルツェンベルク侯爵邸

の大広間で行われました。
成功しましたが、台本については異論が出たそうです。

グリージンガーの伝記によると
ハイドンは『四季』の作曲のため、あまりにも緊張が続いたので、それから後めっきり病弱になった。この仕事を終えて間もない頃、彼はある種の頭痛熱に悩まされていた。とあります。

しかし、この四季の秋は、農民の結婚式で、みんなあつまれ!呑めよ!騒げや!
ヘイホー!ヘイホー!
なんて歌詞で、フーガかと思わせて完結しないと言う感じで酔っ払いの宴会を表現しています。
当時、評価が分かれたのもわかる気がする?


ルイーズ・ベルタン打ちのめされたオペラ

2022-11-17 08:48:00 | ロマン派
友だちが土曜のギター本庄定雄さんとの写真を送ってくれました。

今日はピアノの坂田さんと、金重さんとトリオの練習をしようと待っていましたが、直前になって金重さんから体調が悪いと連絡が。
大丈夫かなぁ?
心配です。

坂田さんと二人で合せ練習になりました。
二人は子育てサロンのクリスマス会の練習もあったので、ちょうど良かったかも。
いろいろ打合せして
お昼ごはんを食べて、まったりして、また練習。
長いつきあいなので、おしゃべりにも花が咲いて癒やされました。

ルイーズ アンジェリック ベルタン(1805-1887年)フランス エソンヌ県レ ロッシユ生まれ、フランス パリ没

父はルイ フランソワ ベルタン、兄弟たちはフランスの影響力のある新聞社ジャーナル デ デバの編集者でした。

彼女は生まれつき障害があり、半身不随で椅子に座っていました。
家族に励まされてルイーズは音楽を追求しました。

1825年、オペラレッスンをフランソワ ジョセフ フェティスから受け、初めのオペラウォルター スコット卿の「ガイ マネリングまたは占星術師」を、プライベートで発表します。

2年後、2つ目のオペラLe Loup-garouをオペラコミック


で上演しました。

21歳でオペラセミセリアに取り組み始め、父に提案された主題ゲーテの「ファウスト」に基づいてイタリア語の台本を書きます。

これは1831年になって舞台に上がっています。

ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885年)



は彼女のために「ノートルダムのせむし男」のオペラ版をスケッチし、台本を提供し、オペラ「エスメラルダ」が誕生します。

ベルタンはユーゴーが直接コラボレーションした唯一の作曲家です。

1836年オペラの上演
パリオペラ座
が始まると兄のアルマンが政府のオペラ行政とつながりを持っていたために、特権を持っていると非難されます。

7回目の公演中に暴動が起こり、「エスメラルダ」は終了を余儀なくされました。

このオペラを、ステージングとプロデュースで助けたエクトル・ベルリオーズ(1803-1869年)

は一部を書いたのではないか?と告発されましたが、彼は激しくこれを否定しています。
「ベルタンは著名な作曲家であり、音楽家であり現代で最も知的な女性の1人」と。

第一回目の上演でアレクサンドロ デュマ

アレクサンドロ デュマ
を含めた数人が「ベルリオーズによるものだ!」と、叫び声をあげ、7回目の公演では「ベルタンを倒せ!」と叫び始め、幕を下ろせ!と叫び、幕が降りるまでやめなかったそうです。


ベルタンは打ちのめされこれ以上オペラを書くことを拒否します。

1837年フランツ・リストはオーケストラの楽譜をピアノ独奏曲に編曲しました。他にも「マッソルの空気」をピアノ編曲しました。

その後、完全版オペラとしては上演されることはありませんでしたが、リストのバージョンは上演され続けます。

完全な復活は2002年ブザンソンのテアトルオペラでヴィクトル・ユーゴー生誕200年祭。
その後も上演され、CDでもリリースされました。

エスメラルダ あらすじ


1幕の舞台セット



ジプシーの女エスメラルダ


が、彼女に横恋慕したノートルダム寺院の大執事フロロ

養子のカジモドを抱くフロロ
とベル係のカジモドに誘拐されようとします。

第三幕舞台セット

そこにフィーバス

がやってきて助け、二人は惹かれ合います。

群衆はカジモドを責めますが、エスメラルダは彼に同情して水を飲ませます。


一方、フィーバスが酒場で大騒ぎしているとフロロが現れ、喧嘩になりフィーバスは重傷を負います。

フロロの策により、エスメラルダがフィーバス殺害の罪で捉えられます。
彼の恋人になるなら、彼女を解放すると詰め寄りますが、エスメラルダは拒否します。

群衆がエスメラルダの処刑を見に集まってくるとカジモドが彼女の手を引き、大聖堂につれていきます。


そこにフィーバスが生きてやってきて彼女の無罪を証明し、彼女の腕の中で死にます。


ベルタンは他にも多くのジャンルの作曲をしました。
カンタータ12曲、ピアノバラード、室内交響曲5曲、弦楽四重奏曲を数曲、ピアノトリオ、多数の声楽曲。

1842年2巻の詩を書き、アカデミーフランスから賞を受賞しました。


宗教改革と音楽

2022-11-16 08:35:00 | ルネッサンス
昨夜は渡辺橋近くのサロンドプリンシパルで榎田先生のフルートアンサンブルレッスンでした。

トリオでカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」でスタート!

簡単かと思ったら…。ジャズアレンジで後打ち、シンコペーション、アクセント。
なかなかでした。

後半は「シング」同じ人のアレンジで、アドリブもあって、もっと大変でした。
クラッシック音楽ばっかりやってると、ポップスやジャズのリズムが読めない、乗れない…。
修業、修業!

筑前橋から渡辺橋を見たところ。

クリスマスのイルミネーションを初めて飾ったのはマルティン ルター(1483-1546年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイスレーベン生没

と言われています。
森の中で、子どもたちに神の恩寵を伝えるために木にろうそくをたくさん立てたとか。

ルターは宗教改革で歴史に名を刻まれていますが、ギターやオルガンを演奏し、アルトの美しい声で歌い、讃美歌を作曲して伝道に役立てたそうです。

ルター派プロテスタントの音楽を広めたドイツの初期バロック時代のハインリヒ・シュッツ(1585~1672)、ヨハン・シャイン(1586~1630)、ザムエル・シャイト(1587~1654)がいて、バッハはその後に続く作曲家です。 

ルターの影響は深いようです。
宗教のことを抜きには語れない…とはいってもちょっと覗いてみておそれを成して引き返してきました。またぼちぼち勉強したいです。

ルター作詞の讃美歌から



チャイコフスキーの子どものアルバム

2022-11-15 09:16:00 | ロマン派
一昨日は行きは京阪、JRでさくら夙川まで、帰りは阪急、地下鉄、京阪。
帰りに梅田で阪急ミッフィー号に出会いました。

かわいい!

ミッフィーちゃんが運転手みたい。
スマホを向けてるのは女性が多かった。
昨日は京阪、JR、六甲ライナーで行って、帰りは六甲ライナー、阪神、地下鉄、京阪。

阪神特急は電車の色が派手なせいか、ラッピング列車にはめぐり逢いません。

これは地元京阪の準急。
特急は混むので避けました。
ラッピング列車、結構好きです。
どうしても必要ってわけではないけれど、出くわすとなんだかドキドキしてうれしくなります。

幼稚園児か!って言われそうですが、

幼稚園児もライオンのバスやネコバスに朝泣かずに、ニコニコとバスに乗ってお母さんと別れられる、その威力!

ストレスフルなお仕事をする大人にこそ必要でしょう。

それに、私はいつもしかめっ面で気難しい老人にはなりたくないって思うので、こういう可愛いものを見つけると思いっきり味わいたい!

けれど何を味わうか?選択は、人それぞれ。
みなさんのお好きなものはなんですか?

ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

「子どものアルバム」はいろいろな作曲家が書いています。
チャイコフスキーはピアノ曲集はシューマン「子どものためのアルバム」を学生時代に研究していて、この曲を書いたのではと言われています。

1878年、チャイコフスキーの妹の家を訪ねたときに、7歳の甥ウラジミール ダヴィドフのために作曲されました。
1876年「テンペスト」を聴いて感動したナジェンダ フォン メック夫人から、6000ルーブルを贈られて以降、14年間資金援助をうけます。

二人は一度も会うことなく、チャイコフスキーはヨーロッパ旅行をして、ビゼーの「カルメン」を聴いたりしています。

1877年にはアントニーナ ミリューコヴァと結婚しています。

しかし、この結婚は失敗。
チャイコフスキーはモスクワ川で自殺をはかります。

このときは助けられ、10月、突然妻の元を去り弟のアーナトリーの付き添いでペテルブルクに逃げます。
そこで「白鳥の湖」や「エフゲニー・オネーギン」を作っています。

事実上離婚しますが、アントニーナは納得していません。
1877年から、スイスで療養したり、イタリアのサンレモを訪れ、ついにはモスクワ音楽院も辞職して、ウクライナやヨーロッパを転々とし、小品を書いています。

妹アレクサンドロ

の家ウクライナ カミヤンカは落ち着ける場所だったようです。
  1. 朝の祈り
  2. 冬の朝
  3. 木馬に乗って
  4. ママ
  5. おもちゃの兵隊
  6. 病気のお人形
  7. 人形のお葬式
  8. ワルツ
  9. 新しいお人形
  10. マズルカ
  11. ロシアの歌
  12. お百姓の歌
  13. ロシアのおどり(カマリンスカヤ)
  14. ポルカ
  15. イタリアの歌
  16. 古いフランスの歌
  17. ドイツの歌
  18. ナポリの歌
  19. 乳母のお話
  20. ババヤガ
  21. 甘い夢
  22. ひばりの歌
  23. 辻音楽師(手まわし風琴ひきは歌う)
  24. 教会にて









フルートアンサンブルでモーツァルト

2022-11-14 09:15:00 | 古典
神戸サロン ド オルフェオでフルートアンサンブル エスカルの演奏会。終了しました。

低音パート撮ってみました。

雨の中、大勢のお客様も来ていただいてありがたかったです。

モーツァルトの交響曲40番、ラヴェルのマ・メール・ロワ、ドボルザークのスラブ舞曲第8番などなど、馴染みやすい曲にお客様も喜んで頂いたならうれしいです。


霧までかかってきましたが…。

ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

の書いた交響曲は、たくさんありますが、短調で作られたのはこの曲と25番しかありません。

この2つの交響曲はトランペットとティンパニが使われていないこと。
全体の構成、調性の選択(ト短調)や移行が似ているため、25番を小ト短調、40番を大ト短調と呼ぶことがあります。

1788年に完成した第39番、第41番ジュピターと合わせてモーツァルトの「3大交響曲」と呼ばれています。

この交響曲では、いきなりの物悲しい主題、不協和音が使われていてベートーヴェン以降のロマン派の技法を先取りしているとも言われています。

39番41番はモーツァルトの死後演奏されましたが、40番は生前演奏されていたことが推察されます。

それは、初稿の他に二本のクラリネットが加わった自筆版が存在するからです。

演奏されることなく改訂版が存在することはモーツァルトの場合は考えにくいことからです。

1971年4月16日17日アントニオ サリエリ指揮でウィーン楽友協会で大交響曲を初演した。とあり、これが40番ではないかと推察されます。

また自筆譜は、ヨハネス・ブラームス


が生前所有していました。

これは、ピアノ五重奏曲を献呈された返礼としてヘッセン方伯家の公子妃マリア・アンナ


から贈られたものだそうです。

現在ではウィーン楽友協会が所有しています。(ブラームスの遺贈)。



落葉

2022-11-13 09:06:00 | ルネッサンス
西宮ギター練習会、夙川公民館ホールでコンサートでした。
ギターの本庄定雄さんと久米フルートでソルのファンタジアop54と、ギターの岡山友樹とドボルザークのソナチネop100演奏してきました。

先週から少し進んで落葉が多くなってました。



みんなも熱演で楽しかった〜。

作曲者:マーティン・ピアソン(1571–1650)イングランド、ケンブリッジシャー生まれ、イングランドロンドン没
は、1571年マーガレットとトーマスの間に生まれました。

トーマスは数年後亡くなり、マーガレットは再婚しました。

1580年9歳でセントポール寺院

の聖歌隊に入りました。

1604年33歳の時にフレク グレヴィルの詩に曲をつけ、マドリガルを作っています。
ロンドン市内でレッスンを行っていた記録があります。
彼はヴァージナル

という楽器を使っていました。
彼はローマカトリック教会に近く、英国国教会のプロテスタントの教義を忌避して、国教忌避の有罪判決を受けています。
その後オックスフォード大学
で職を得ています。そうするためにはプロテスタントの教義を受け入れなくてはならなかったはずです。

1613年音楽学師を授与され、ウェストミンスター寺院

の聖具室係と合唱指導として1623-1630年務め、1624-1625年セントポール寺院に戻り合唱指導をしていた記録が残っています。

1642年イングランド内戦(清教徒革命)により全ての活動が停止し、1651年に亡くなり、聖ポール大聖堂の聖パウロ寺院
に埋葬されました。

落葉The fall of The leafは1899年、ロンドン ブライトコプフから出版されたヴァージナル全集に収録されています。

ソナタ第14番月光の伯爵令嬢

2022-11-12 08:44:00 | 古典
もう終わりかと思ったらお茄子がなりました。


小さいけれど、

トマトももう少しできそうです。
温かくなったり、寒くなったりしながらも季節は進んでいます。




私も月食撮ってみました。
みなさん、素晴らしい画像で撮っておられましたが、スマホではこんな具合い。

冥王星かと思ったけれど、違ったみたい。では何なのでしょうか?



月光の曲といえば、ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

のビアノソナタ第14番嬰ハ短調
1801年30歳の時の作品です。

幻想曲風のソナタというのがベートーヴェンのつけた名前です。

当時ベートーヴェンがピアノを教えていた伯爵令嬢ジュリエッタ グィチャルディ(1782-1856年)

ベートーヴェンの持ち物から発見された細密画。グイチャルディの可能性。
に献呈されました。

1801年にピアノを教え始め、11月には友人のフランツ ベルハルト ヴェーゲラーに贈った手紙に彼女への想いを書いています。

私の人生はいま一度わずかに喜ばしいものとなり、私はまた外に赴いて人々の中に居ます - この2年の間、私の暮らしがいかに侘しく、悲しいものであったか信じがたいことでしょう。この変化は可愛く、魅力的な少女によってもたらされました。彼女は私を愛し、私も彼女を愛しています。2年ぶりに幾ばくかの至福の瞬間を謳歌しています。そして生まれて初めて - 結婚すれば幸せになれると感じているのです。しかし不幸にも彼女は私とは身分が違い - そして今は - 今は結婚することなどできやしないのです。」

とはいえ、初めからかのじょに贈るつもりではなく、ロンドを贈るつもりでしたが、ヘンリエッテ リヒノフスキー女伯爵に贈ることになり、急遽ジュリエッタに贈る曲を探して、このソナタにしたそうです。

ちなみにジュリエッタは1803年ナポレオンの支配したナポリ王国で活躍した作曲家のヴェンゼル ロベルト フォン ガンベルク伯爵と結婚。夫とナポリに住みました。

少しがっかり。
この曲には劇的なエピソードがふさわしい?なんちゃって。





オペラだけではありません。

2022-11-11 09:08:00 | ロマン派
母の検診で京都の病院へいきました。

異常無し。
帰りに樟葉モールくずは珈琲でランチ。

母は大きなオムライスをペロリと食べました。
頼もうとしたオムライスには唐揚げがのっていましたが、ハムだったと文句を言ってました。
日替わりとかいてあったのを見落としただけでしたが…。
最近太ってきたと嘆いていましたが、それはこの食欲のせい。なのは明白!

元気でいてくれれば、私は満足ですが。

帰りはバス一本なので、ここでいいと帰されました。
大好きな買い物をしてかえるそうです。
私は仕事があるのでここでさよならしました。

食欲も物欲もあってめでたい! 

ジョアキーノ アントーニオ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領ペーザロ生まれ、フランス帝国パリ没

といえば、オペラブッファで有名です。
1808年から1829年までの間に大量のオペラを書き続け、1年で5本のオペラを書いた年もありました。
食肉工場で働いていた父は、ナポレオンが来たときに喜び、そのせいで後にオーストリア政権になったときに投獄されます。

母は歌手として働き、生活を支えます。

祖母の元へ送られたロッシーニは「手に負えない子ども」と言われて、育ちます。

太り気味でしたが、天使のような姿で多くの女性と、浮名を流します。

成長したロッシーニに、ベートーヴェンは「セビリアの理髪師」を見て感激。
「あなたはオペラブッファ以外のものを書いてはいけません。」と絶賛。

文豪スタンダールは「ナポレオンは死んだが別の男が現れた。」と評します。

1825年「ランスへの旅」を作曲すると「フランス国王第一の作曲家」の称号を得て、終身年金を得ます。

37歳で「ウィリアム テル」を書くと、オペラを引退。レストランを経営します。

オペラで、有名ですがロッシーニは六曲の木管四重奏を残しています。

この楽譜の、原譜は長く失われたと思われていました。
第一次大戦後、ワシントンの国会図書館でA.カゼッラがパート手稿符を発見しました。

そこには
「私が通奏低音和声の授業さえを受けてない若い頃、・・・別荘で作曲した“ひどいソナタ”…。これらは三日間で作曲、写譜され、…仲間と演奏した」
と、書いてあり、「1804年 ラヴェンナ」と製作年と作曲場所が書いてありました。
ロッシーニ12歳、確かに若いです。

しかし、木管四重奏としては今日でも最もよく演奏されている曲です。